第43話 焼肉から学ぶ屈腱炎
「で、なんで焼肉なの?」
その日の修行を終えた帰り際、志穂は北野家での晩ごはんに招待されることになった。
翠と晴翔、そして大村と四人で、リビングのテーブルに鎮座するホットプレートを囲んでいる。野菜や肉が焼け次第「これはアンタの」と仕分けするのは翠の仕事。牧場の女頭領は、焼肉奉行でもあるらしい。
「厩務員デビューする志穂の壮行会だ! じゃんじゃん食って体力つけな!」
「これがお駄賃代わりだったりしないよね?」
「あっはは! いっぱしのこと言うようになったねえ!」
翠にわしわしと頭を掴まれた。言いたいことはいくらかあったが、不満じゃお腹は膨れない。空腹は不幸なのだ。腹が減っては幸せになれないし、馬の幸せにも繋がらない。
そう考え、志穂は遠慮なくいただくことにした。ついでにじゅうじゅう美味しそうな音を立てる霜降りカルビに心の中で狙いを定めておく。他人の金で食う焼肉は格別にうまい。
「ちょうどいい。志穂ちゃん、屈腱炎の説明をしてあげよう」
「やめてよ、メシ時にする話じゃないだろ?」
「いいじゃん、ずっと聞こうと思ってたから。教えて」
「どんだけ馬好きだよ」翠がボヤくと、晴翔がくすりと笑っていた。
志穂は食卓にメモを置いて、右目でカルビを監視しながら左目でメモを追い始めた。
それは競走馬なら誰でも発症しうる不治の病だ。
症状は読んで字のごとく、屈腱の炎症。屈腱とは、馬脚のかかとっぽい場所から上の部分、ちょうどふくらはぎあたりに張られた筋肉のことで、人間で言うとアキレス腱のようなもの。ただ解剖学上、馬のつま先部分は人間における中指に相当するため、より正確に喩えるなら中指を動かす筋肉だ。
いずれの例にせよ、筋肉が炎症を起こしている。それゆえ動かしにくいのは人馬の違いはあれど変わらない。
「馬の脚って中指だったの? じゃあみんなつま先立ちで走ってるワケ!?」
「あくまで解剖学上はですし、それは今はいいですから」
バレリーナみたいな姿で走っているハルを想像して、すぐさまかき消した。
本題は屈腱炎だ。ハルやクリスばかりか、知り合った馬たち全員がかかるかもしれない病気なら知っておきたいと志穂は身を乗り出す。
「どうして屈腱炎になるの?」
「激しい運動を長年続けていると発症する可能性が高いんだ。もちろん個体差はあるけれどね」
言って、大村は志穂が監視していたカルビを裏返した。生焼けだった片面は、ホットプレートで熱されて美味しそうな食べごろになっている。
「志穂ちゃん、肉に熱が加わるとどうなる?」
「焼けて美味しくなる。あとじいちゃん、そのカルビ私が育ててたやつ」
「肉は熱が加わると性質が変わるだろ? 馬の体でも同じことが起こっているんだよ」
「は? 体にホットプレートでも埋め込んでるワケ?」
「ああ、馬体そのものが熱を持つんだ」
屈腱炎のメカニズムは正確には解明されていない。仮説はいくつかあるが、有力な仮説のひとつが屈腱の熱変性だ。
筋肉は運動すると熱をもつ。特に脚まわりは汗での冷却が追いつかないことがあり、熱がこもりやすい。この高温状態が続くと、屈腱周辺のタンパク質がホットプレートで肉を焼くように、あるいは低温調理器でローストビーフを作ったときのようにじわじわ熱されて、組織がもろくなってしまう。
つまり競走馬は、自らの熱で自らの体を焼いてしまっているという仮説だ。
「屈腱炎になると、このカルビみたいにこんがり焼けちゃうってことね」
「変なたとえ持ち出すんじゃないよ。肉がマズくなるだろ?」
「まあまあ翠さん。とにかく、激しい運動のしすぎは体に毒だ」
馬を鍛えて強くしたい調教師たちの気持ちはわかるが、人間だって同じように鍛えすぎはよくない。毎日きちんと馬を観察して、適切なトレーニングを積ませることが大事なのだろう。これからハルを鍛えるためにも、志穂は心に刻む。
「それでさ、屈腱炎って治らないの? まさか一度なったら死ぬとかじゃないよね?」
「激しい運動を控えれば屈腱は再生するよ。だから命まで奪うような病気じゃない」
「そっか、よかった」
「だが、一度屈腱炎になると……」
「ああもう辛気臭い話だね! 全部説明してやっからメシに集中しろ!」
とうとう翠がキレて、大村から説明役を奪い取っていた。
いわく、屈腱炎には対症療法がある。内服薬や注射で炎症を抑えたり、外科手術で損傷部位を取り除いたり。さらに近年では幹細胞を移植して屈腱の再生を促すだなんて人間以上に進んだ治療を行うこともあるらしい。
ただしいずれの場合も激しい運動は禁止。数ヶ月から数年の間、馬の思うままに放牧させれば屈腱は次第に再生していく。日は薬というやつだ。
「ならレインも一年くらいゆっくりさせればいいね」
そう結論づけた志穂だったが、志穂より馬に詳しい三名は黙ってしまった。
なにか間違ったことを言ってしまったのか。志穂が不安を覚えた直後、晴翔が席を立つ。
「ごちそうさま。あとはみんなで食べてください」
「あんた全然食ってないじゃないか! 育ち盛りなんだからもっと食いな!」
「俺はもう育たなくていいんで」
「ちょっと待ちな晴翔! 晴翔!?」
言って、晴翔は自室に去ってしまった。たしかに晴翔はもう充分背が高い。十五歳の今で百七十五センチあるから、彼の背はまだ伸びるだろう。
高身長がコンプレックスなのだろうか。ぼんやりそんなことを思いながらも、志穂の視線は晴翔が手をつけなかったカルビに向けられていた。ラッキー。
「年頃の男はわからんね。年頃じゃなくてもわからんけど……」
「ねえ、晴翔の残した肉もらっていい?」
「志穂の食い意地を見習えって話だ、まったく」
晴翔のぶんをさっそく焼き尽くしつつも、志穂は肉をにらみつける。
屈腱炎とは焼肉だ。壊れた組織を再生するには放牧が欠かせない。きっとマニーレインに必要なのは、平穏無事にのんびりした、すこやかに過ごせる時間なのだ。
「これ以上屈腱炎の話は禁止!」と釘を刺された志穂は、肉を焼きつつも他の話に花を咲かせていた。
*
『そうなんですか、ぼくは病気なんですね……』
「心配いらないよ。ゆっくり休めば治るから」
翌日。志穂は馬房の掃除をしながらも、マニーレインに病状を説明することにした。
誰だって病状がわからないのは怖いこと。それに嘘もつきたくなかった志穂は、治療法を含めてすべて本人に伝えてあげた。治る病気だと念押しすると、マニーレインも安心したようで、畳んでいた耳を少しだけ持ち上げてくれた。
『ありがとうございます、シホさん』
「レインは行儀正しいいい子だなあ……」
今まで出会ってきた馬を思い出してみる。のんびりしたクリスに、元気のカタマリみたいなハル。オレ様気質のクリュサーオルにカッコいいマリー。その他仔馬やママさんたちも主張がとにかく激しい。
だけどマニーレインは素直でいい子だ。体は緩んでいるけれど、目元はくりっとしていてかわいらしい。かわいくないのは《おカネの雨》なんて名前だけ。どうやらマニーレインの馬主クラブは、馬すべてに《マニー》という名前をつけているらしい。カネの亡者な上にネーミングセンスまで絶望的だ。
だから志穂は思う。せめて自分くらいは、カネ儲けの道具じゃない馬として接してあげたい。現役馬に与えるのは禁止されているニンジンをこっそりあげて、馬体を撫でてあげた。
「おいしいでしょ? ウチの自家製ニンジン」
『ふつうです……』
「かわいくない……」
馬ならニンジンが好きとは限らないようだった。もう二度とあげない。
「ま、ご飯食べてお日さま浴びてのんびりしなよ。ちょっと早めの夏休みだと思ってさ」
季節は六月半ば。短い春が終わった洞爺にも、空に大地に夏の便りが届き始めている。野放図に伸びる雑草のように、マニーレインの屈腱もすこやかに育ってほしい。
馬房の掃除を終えた志穂は、みすぼらしい毛並みを整えてあげることにした。
労るようにマニーレインの馬体を撫でると、馬体の緩さがよくわかった。クリュサーオルやハルとは違って、筋肉の跳ね返りが弱い気もする。しばらくはレースもトレーニングもお預けだろう。
『シホさん、ぼくは走れるんでしょうか……』
「レースのことなら無理かな。しばらくは安静にして、リハビリに軽い運動をするくらいじゃね?」
『だったら、リハビリをがんばります……』
「だね、暗いのはよくない。前向きで頭ハッピーな方がいいよ」
『がんばったら、ぼくも褒めてもらえますよね……』
何かが志穂の心に引っかかった。妙な違和感だ。
「ね、レインはさ。どうして走りたいの?」
『ぼくは……』
おずおずと、どこか気恥ずかしそうな間を空けて、マニーレインは話してくれた。
『ぼくは……すごいねって、みんなに褒めてもらいたいんです……』
「要は、ヒーローになりたいってことだ」
『ヒーロー? それは、どういうのなんですか……?』
「ふふ、話せば長くなるよ? 知りたい?」
『知りたいですっ……!』
志穂は、茜音が長々語っていた数々の名馬の物語を、メモを紐解きながら話してやることにした。
「まあ私は詳しいからね、フフフ……」
ついでに、あくまでも志穂が調べたものだとのアピールも忘れないのだった。
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