第14話 メスガキが喋った!
「よーし、ゆっくり休んでくれよ。モタ」
『おっ、オイ! ジイさん大変だ! そこのメスガキ喋れるぞ!』
「おーおー、今日は珍しく元気だなあ。志穂ちゃんが気に入ったかあ?」
『いったいなんなんだこいつはよォーッ!?』
クリュサーオルをわしゃわしゃ撫でながら、大村は楽しそうに話していた。
すれ違い漫才を見ているような絶妙なもどかしさを感じつつ、志穂は気になったことを尋ねる。
「ねえ、なんでモタ? この仔はクリュサーオルじゃないの?」
「仔馬のときの名前だよ。どんだけカッコいい名前がついても、うちではモタだね」
「なんかモタモタしてそう」
『あンだと——ジイさん撫でんじゃねえ、気持ちいいだろうが!?』
「そうそう、昔は脚が弱くてなあ。飼い食いも悪かったが、今じゃ立派なもんだ」
どれだけ大きくなっても、大村にとっては仔馬扱いだ。だからか、クリュサーオルが尊大に振る舞えば振る舞うほど——
『テメー今笑ったな! このオレ様を笑いやがっただろ!?』
——口角が上がるのを抑えるのに精いっぱいだった。
「可愛い仔だね、モタ」
『その名で呼ぶんじゃねえ!?』
「ああ、自慢の息子だよ。うちで育った仔たちはみんなそうだ」
『だから撫でんじゃ——ふおおぉおおぉ〜ッ!!!』
脳内で響き渡る愛され息子の奇声にうんざりしつつも、志穂は馬を可愛がる大村の優しい顔を眺めていた。
この人はきっと、馬を心の底から愛している。
大村だけじゃない、すべてのホースマンたちがそうなのだろう。
生まれた仔馬は愛されて育つ。売られていく仔馬もきっとその先で愛される。親代わりの人間たちに、あるいは競馬場に詰めかけた多くのファンの人々に。
「志穂ちゃん。年寄りの説教で悪いけど、ひとつだけ覚えておいてほしいんだ」
クリュサーオルを撫でながら、大村は言った。
「いいかい? Happy People Make Happy Horseだ」
「What‘s?」
思わず英語で返してしまった志穂に、大村は微笑む。
「馬に関わるのは楽しいことばかりじゃない。馬中心の生活は苦労だらけだ。時には避けようもない悲劇もあるし、その方が多いと言ってもいい」
わずかに息を詰まらせると、ひと呼吸置いて大村は続けた。
「だけどそれでも、日々を幸せに過ごすことが大事だ。馬は賢いから、人間の気持ちを察してしまう。だから馬の幸せを願うなら、自分も幸せでなきゃあね」
*
『遅いよ、シホーッ! どこ行ってたのー!?』
「ちょっとお勉強してたってトコ」
志穂の洞爺温泉牧場での修行は、学業と仔馬の世話もあって一日二時間と決まった。馬産のプロがつきっきりで教えてくれる上、少ないながらもお駄賃まで出してくれる好待遇である。
いつものように母仔もろとも撫でていると、クリスが志穂の全身隈なく鼻先を近づけてくる。
『あら〜? 他の仔の臭いがするわねえ〜?』
『ホントだ! なんか懐かしい匂い!』
「アンタらの実家でお手伝いすることにしたんだよ。ハルがデビューできるようにね」
「ハルって誰?」とでも言いたげな顔で、母仔は鼻先を寄せ合っていた。そういえば伝えていなかったことを思い出し、志穂は仔馬を撫でてあげる。
「アンタの名前。今日からアンタの名前は《ハル》だ!」
『えっ? ボクの名前ってアンタじゃなかったの?』
「なんでよ!? いや、私がそう呼んでたからか……」
まずは二人称の概念を教えるところからか。頭を抱えつつも、大村から聞いたことを思い出す。あまりにガサツな物言いを続けていると、ガサツな気持ちを察せられて、ガサツな競走馬になってしまうかもしれない。
「そう、アイツみたいに!」
『アイツってだれ〜?』
「知らなくていい! ともかく今日からキミはハルだ! わかったらお返事!」
『はーい!』
『あらいいわねえ〜。私も名前欲しいわあ〜』
「アンタにはクリスエトワールって名前があるでしょ……」
『ふふ、シホに初めて呼んでもらえた〜♪』
「あれ? そうだっけ?」
仔馬ことハルと、クリス。そして志穂。
いまだ足りないものばかりだが、すこやかファームはようやく動き出す。やることは山積しているが、やってみればなんとかなるだろう。
今、志穂が幸せかどうかは——まだわからない。
*
「はい、百万円になります!」
前言撤回、今は不幸だった。
「そ、そこをどうにかならないですか? せめて十万円くらいに収まり——」
「収まりませんね〜新築の厩舎ですから〜」
にこにこ笑ってはいるが頑として譲らない建築業者に、志穂はがくりと頭を垂れた。
洞爺温泉牧場で修行を始めてからというもの、志穂はどうしても真っ先に整えてやりたい設備があった。
厩舎、クリスとハルが母仔水入らずで暮らすお家である。
本人たちは気にするそぶりも見せないが、犬小屋みたいな小屋に住まわせるのはあまりに可哀想だ。クリスもハルも馬である前に家族だろう。笑ってごまかそうとする父親が音を上げるまで訴えて、どうにか十万円を工面させた志穂だったが。
「はい、お値段は百万円です。あとはご家族と相談してくださいね〜」
最後まで笑顔を崩すことなく、業者はさっさと帰ってしまった。置いていった見積は、何度にらみつけてもゼロの数が一個多い。ちなみにパンフレットに乗っている十部屋並んだ標準サイズ馬房は、さらにゼロが一桁多かった。
「あと九十万をどう稼ぐかなんだよなあ〜……」
父親からもらうお小遣いが月五千円ほど。牧場でのささやかなバイト代も、毎日行ったって月三万円だ。そのペースでコツコツ貯めていたら、桜花賞どころか現役引退まで間に合わない。
詰んだ——かに思われた。
「でさ、私って馬と喋れるじゃん? そこで閃いたワケ。このイカれた能力があれば、勝つ馬が分かるんじゃないかって。モタはどう思う?」
『テメーの親の顔が見てェ。あとモタって呼ぶな、クリュサーオル様と呼べ』
洞爺温泉牧場での修行開始から数日。ホースマンたちに温かく迎え入れられた志穂は、馬について教えてもらいつつ、馬房掃除を任されていた。仔馬の放牧中に寝藁をふかふかにしたり、ボロまみれの藁を運ぶのが仕事である。
そんな志穂唯一の息抜きが、馬房から一歩も出ない引きこもりの相手だ。
「えーなんかあるでしょ? めちゃくちゃ気合入ってる子は強いとかさ」
『ねェよ、ンなモン。むしろそういうヤツほどダメだ。一番前を走るヤツってのはいい具合に力が抜けてンだよ』
「なら、やる気なさそうな子がいいワケ?」
『走る気ねェヤツは走らねェよ。そもそも勝ち負けを決めんのはテメーらだ。オレ達はただ人間乗せて走ってるだけだっての』
「じゃあなんのために走ってんの?」
そう志穂が尋ねると、クリュサーオルは押し黙った。
何か地雷を踏んでしまったのかもしれない。すべての馬がハルのように「お姉ちゃんと走りたい!」なんてまっすぐな理由を持っているとは限らない。その辺は人間と一緒だ。
「あ、ごめん。答えにくいなら無視してくれていいから」
『……なあ、テメエ。人間だよな。だったら聞きてェことがある』
か細い声だった。どことなく神妙な物言いでクリュサーオルは尋ねてくる。
もっと近くで聞こうと志穂は近づく。普段なら後ずさりして絶対に近づかせないのに、その時ばかりは志穂を受け入れてくれた。
『持ってるか? あの便利な道具。手に持つ、板みてえなヤツ』
「スマホのこと?」
『それだ』と頷いて、クリュサーオルは告げた。
『そいつで調べてほしいことがある。最近、顔を見せねえヤローがいるんだ』
馬房の窓から漏れる夕日に照らされた彼の栗毛は、どこか寂しげに輝いていた。
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