第9話 仁川と洞爺の繋ぎ方

 令和六年、四月上旬。

 花曇りの空の下、春競馬の幕が上がろうとしていた。

 三歳馬が主役のクラシックシーズン。その緒戦は例年通り、うら若き乙女から。


 三歳牝馬限定競争 G1 第84回 桜花賞


 阪神競馬場——仁川の地に咲き誇る桜が、新女王の誕生を見守っていた。


 *


 遡ること数時間前。

 仁川からはるかに離れた洞爺の地で、志穂はタブレットと格闘していた。タブレットをインターネットに繋ぐための工事や契約の諸々を、父親が何もやっていなかったからである。


「ネット回線くらい引いとけよ。どうやって動画とか見てたワケ?」

「スマホで見れるだろ?」

「ギガ足りなくなんない?」

「だから毎月買い足してんだけど、これが高えんだよなあ」


 さも当たり前のように見せてきた明細に志穂はドン引きした。固定回線を契約してWi-Fiで飛ばせば安上がりで早いし従業員も喜ぶと志穂が説得したら、父親はにかっと笑って——


「なら志穂はIT大臣だ! 差額はお小遣いにしてやるから頼んだぞ!」


 ——と決まって、今に至る。

 お小遣いのためとは言え、接続ができた頃にはもうヘトヘトだ。

 ただそれ以上に疲れるのが、仔馬の元気さをナメていたことだ。


『シホ! もっかいあの丘の向こうまで競争しようよ! またボクが勝っちゃうよ!』

「何度やったって勝てるかァ!」


 大人しいクリスで慣れてしまっていた志穂は、馬の体力を理解して草原にくずおれた。

 すこやかファームの放牧地はなだらかな丘だ。自宅や馬小屋は丘の裾野に位置しているので、放牧地に出るということは坂を登ること。おかげで毎日筋肉痛だ。


『ふたりとも元気ねえ〜』

「アンタのお子さん躾がなってないよ。親の顔が見たいわ……」

『あら〜ここにいるじゃない〜♪』


 皮肉が通じないクリスは上機嫌に鼻息をぶほぶほやっていた。腕を伸ばして耳の付け根あたりをくりくり撫でつつ、元気に飛び跳ねている仔馬を眺める。


『おかあちゃーん! シホーッ!』

「はいはい……」


 クリスを連れて丘を登る。すると仔馬は、緑の絨毯を青い空に向かって駆けていく。そして「待ちきれない」とばかりに丘の向こうから緩やかなカーブを描いて降りてくる。くるくると右回りだ。それが好きなのだろう。

 『早くーッ!』と丘の向こうで叫ぶ仔馬に、志穂はふと思い出す。


「そういえば、仔馬の名前ってあんの?」

『さあ〜。名前では呼び合わないから〜。シホがつけてあげたらどう〜?』

「私が!?」


 うんうん、とクリスは頷いていた。

 競走馬の名前は馬主がつけるもの。茜音から教わったことだ。自身が馬主なのかどうかはよくわからない——父親に聞いても話を逸らされる——ので、名前をつけるのは躊躇っていたが。


「……でも、いつまでも仔馬ってワケにもいかないか」

『そうねえ〜。あの子はかけっこが好きだから、速そうな名前がいいわねえ〜』

『なになに!? ボクの話!?』


 鳩尾に飛び込んできた仔馬の鼻先を「うぐッ!?」と咳き込みつつ受け止めて、志穂は思いを巡らせた。


 馬の名前は十人十色。

 カッコいいもの。かわいいもの。親子の繋がりを感じさせるもの。馬主の知性を感じさせるもの。反対に首を捻りたくなるもの。さまざまあるが、共通点はどれも愛情がこもったものだ。

 たとえばクリス——クリスエトワールの娘のプレミエトワール。

 フランス語で《一番星》を意味する、いかにも一番でゴールしそうな名前だ。

 強そうだし女の子の名前としてもカッコいいしカワいいし、何かズルい。


「姉が強すぎて命名のハードルが高いんだよなあ……」

『お姉ちゃん強いの!? かけっこしてみたい!』

「そうねえ〜」


 お姉ちゃんのかけっこ。そこで志穂は思い出した。

 今日は日曜日。茜音がさんざん言っていたレースの日である。


「あ、そうだ。今日お姉ちゃんのかけっこがあんだけど、見てみる?」

『見たい見たい見たーいッ!』


 開通したばかりのWi-Fiが通る馬小屋まで戻り、寝藁の上に座った。横たわったクリスの体を背もたれ代わりにタブレットを操作して、生配信の映像を出した。

 映像はレース前。観客席に囲まれた円形のトラックフィールド——パドック——を、引き綱で引かれた馬がゆっくり歩いている。


「おお、すご……」


 ふいに声を漏らしてしまったのは、馬体に驚いたからだ。

 現役の競走馬は、クリスのような繁殖牝馬や仔馬とは違っていた。それは歩き方や顔つきだけではない。背中のハリ、お腹の絞り具合、お尻や後ろ足の陰影が浮き出るほどの筋肉など、まるで同じ生き物とは思えないくらいに洗練されている。

 志穂のタブレットを覗き込んでクリスが声をあげた。


『離れた場所が見られるの〜? 人間はすごいわねえ〜』

「こん中にお姉ちゃんが……いた!」


 ちょうどカメラが動き、目的の馬が映し出された。


 《プレミエトワール》。ゼッケンは17番。十二番人気。

 写真で見た父馬ドゥラメンテの血を感じる茶色い毛並みが、光の中で輝いている。

 ちょうど雲間から落ちた陽光がスポットライトの役割を果たしているのだ。歩き方も落ち着いていて、大地を押しては引く繊細かつ精密。すでに高貴な女王の、気品すら感じてしまうほどだ。


「その名に偽りなしだわ……めちゃくちゃカッコいい……オーラが違う……」

『あら〜。この子見覚えがある〜。でも顔がよく見えないわ〜』

「なんか顔にマスクつけてるね。オシャレでいいじゃん」

『これがボクのお姉ちゃん!?』

「そ、プレミエトワール……は長いな。プレミちゃん」

『プレミお姉ちゃんッ!!!』


 仔馬は大興奮で馬房の中を飛び跳ねていた。

 一方というか、パドックの情念渦巻く観客に囲まれていても姉のプレミは落ち着いていた。むしろ注目と賞賛を浴びることがさも当然かのように落ち着き払っている。現地の評論家も「状態はかなりいい」とお墨付きを与えるほどだ。


『そういえば、プレミの声は聞こえないのお〜?』

「聞こえない。動画だとダメっぽくてさ」

『近くにいないとだめなのねえ〜』

『あっ! 人が上に乗った!』


 パドック周回の足が止まり、色とりどりの勝負服に身を包んだ騎手たちがやってくる。

 プレミエトワールの場合は、胴は白地、胸から上が空色。残雪の北海道のような勝負服の騎手が跨り、パドックからトンネルの中へ消えていく。


『いよいよ始まるのねえ〜!』

「な、なんかドキドキしてきた……」


 会ったこともない馬なのに、この後のレースを思うと落ち着かなかった。

 部室で古谷先生が見ていたレースはどうでもよかったのに、注目している馬がいるだけで興味が向いてくる。


『ねーねーシホ、お姉ちゃんは速いの?』

「知らんけど……、これ出るだけでも大変なレースらしいからすごいんじゃない?」

『そっかあ! よーし、ボクも出られるようになるッ!』

『ふふ、がんばってねえ〜♪』


 映像はついに、芝のコースを映し出す。

 曇天の阪神競馬場。桜の花に縁取られたような芝の絨毯を、十八頭の馬が駆けていく。大歓声に送られて、トラックコースの向こう側へ。ゲートの近くでくるくると回りながら、その時を待つ。

 ゴンドラに乗った人が赤の旗を掲げた。そしてファンファーレが鳴り響く。


「始まる……!」


 タブレットを握る手に汗がにじんでいた。

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