第13話

   ☆


 両親の離婚の原因は、母親にあった。正確には母親の弟、おれの叔父にあった。

 しかしそれは本当なのだろうか――。

 おれはその夜、仕事から帰宅してきた父親に訊いた。

 土曜日でも出勤している父親は、「そのとおりだ」とうなずいた。証拠が必要なら図書館へ行って、過去の新聞記事を見せてもらうといいと言ってくれた。父親はおそらく教えてくれた住所に母親はもういないということも知っていたようだった。直接おれに言ってくれなかったのは、自分の口からは言いたくなかったのか、それともべつの理由があるのかはわからないが、無言で晩ごはんを食す父親の気持ちを察すると、なんでだと問い詰められなかった。当時、どんな気持ちで離婚に応じたのか、それはいまのおれにはとても想像さえできなかった。

 翌日の日曜日、図書館に行ってみた。過去の新聞記事を読むためだった。

 高校の最寄り駅である新大宮から近い奈良県立図書情報館。そこだと過去の新聞記事を読めた。

 朝九時から図書館は開館している。新大宮駅をおり、いつも登校するのとは反対方向へと歩く。

 六月の日差しはもう高く、梅雨に入る直前の暑さにまだ慣れていない体には、二キロほどの道のりは予想より遠く感じた。

 図書情報館の公式サイトでは、新大宮駅からのアクセスは路線バスを使えとあったが、バス代がもったいないと感じて体力を信じた。

 川沿いの道を歩くこと十分ちょっと、住宅街のまんなかに前庭を備えた、外からでは何階建てかわかにくい首相官邸にも似た前面がガラス張りの偉そうな建物が突如として現れた。

 正面玄関からの自動ドアの向こうを右に曲がると広いホールがあり、どういうわけかそこは二階であった。おれは少々戸惑う。一階が地下というわけではなさそうで、全面が窓になっている左手側の壁から外を見ると、道路よりも土地が低くなっていた。小学校の校舎が見えている。

 ホールの奥にはグランドピアノが置かれてあり、さらに喫茶店の入り口が見えた。

 右手側にセンサーゲートが設置されていて、そこから図書館へと入った。目の前に三階へ上がる階段があって、その部分は吹き抜けとなっていた。

 おれは二階奥の受付カウンターへと進んだ。

「あの……十年ほど前の新聞のバックナンバーを見たいんですが」

 眼鏡をかけた年配の係員に言うと、

「十年前ですと原紙はなくてマイクロフィルムになりますね……この用紙にどの新聞のどの時期の新聞かを書いてもらえますか」

 一枚の用紙を出してきた。

 あの事件について、あらかじめネットで調べて、だいたいの日付はわかっていた。だがネットでは記述に信ぴょう性がなく、だからわざわざここへ来たのだ。

 おれは用紙に事件のあった日付の年月を記入する。新聞の種類はどれでもよかったので、一般紙にした。

「少しお待ちください」

 奥へ引っ込んでものの一分もしないうちに樹脂製のコンテナケースを持って戻って来た。紙の箱がいくつか入っている。

「一ヶ月分が三つに分かれています。こちらへどうぞ。マイクロフィルムの読み取り装置の使い方を説明します」

 受付カウンターの横に二台、年季の入った読み取り装置が据え付けてあった。大きなディスプレイ画面の下にマイクロフィルムをセットして読み込む機構があり、係員が説明しながらセッティングしてくれる。

 マイクロフィルムは、昔の映画のフィルムのように巻物状になっており、幅三センチほどのそれを引き出して機械の読み取り部分に挿入し、ダイヤルを回して巻き込んでいく。読み取り位置をレバーで調整し、ディスプレイ画面に新聞紙面が表示されるようにして準備完了。

「ありがとうございます」

 ひと通りやり方を聞いて実際に操作してみる。

 わからないことがありましたらお呼びください、と言って係員は離れた。ウー、というプロジェクタ特有のファン音が静かな図書館に漂うなか、おれは社会面の記事を追いかけていった。

 すると――。

 時系列順に、事件の全容と、逮捕された犯人について書かれた記事が見つかった。ひざ元にプリンターが置かれており、一部十円でコピーが取れた。おれは主だった記事をコピーした。



 十年前の五月、曇り空のその日、事件は起きた。

 愛知県で四歳の女の子が突如行方不明になったのだ。幼稚園から帰って家の前で遊んでいたところ、母親がほんの少し目を離した間にいなくなってしまったのだ。

 直後、その周辺では大人たちが警戒し、子供たちの安全は守られたかに思えたが、そこからから四十キロも離れた場所で第二の誘拐事件が起こる。今度も幼い女の子であった。

 犯人からの要求はなにもなく、事故か事件かわからないまま数日がすぎ、ついに第三の事件が発生する。だがそれは未遂に終わり、そしてそのとき、犯人がついに逮捕されたのである。

 それがおれの母親の弟、叔父であった。その後、誘拐された二人の女の子がバラバラ遺体で発見される。

 新聞記事では、どのように誘拐したかの手口から、叔父の人となりまでが白日の下にさらされる。出身地から卒業校、就職先や趣味まで情報が丸裸にされて、プライバシーなどなきに等しい扱いである。知人だという人のコメントが掲載されていた。当然、姉であるおれの母親の元にも記者はやって来たようであった。おそらくワイドショーあたりでも連日報道されていたに違いない。

 母親がもしあのままおれたちと家族でいたら……おそらくおれと父親はまともな人生を送れていない。いや、おそらく、という仮定の話ではない。間違いなく差別と偏見にさらされて、世間からひどい仕打ちをされていた。それは確実だ。

 身内である、というだけで罪を背負わされてしまう。関係ない、という主張は通らない。一族郎党、迫害されてしまうのだ。

 その事実におれは寒気がした。事件のことがわかり、おれは退席する。

 どうもありがとうございましたと、マイクロフィルムを返却する際に、どうしました、顔色が青いですよ、と図書館員に言われてしまうほどだったから、相当ひどかったのだと思う。

 それとともに、入堂にどう言うべきか迷った。

 男性不信である入堂に、おれの両親の離婚原因は父親にない、と安心させたかったが、それでは母親の弟の事件について正直に話さないわけにはいかない。

 しかし……。

 胃がしくしくと痛む。新大宮駅への道すがらお昼ごはんをどこかで食べようかと、図書館へ来る前は考えていたが、体が食べ物を受け付けそうにない。食欲がないのは暑さのせいだけではないだろう。



 確かめてきたよ――。

 おれはリビングテーブルの上に、図書館でコピーしてきた古い新聞記事を広げてみせた。

 父は、「うむ?」と視線を向け、

「そうか……」

 と言ったきり黙った。

「そういうことだったんだね」

「よくここまで調べてきたな……」

 父にとって、この新聞記事はもう省みたくない過去かもしれない。

「教えてもらった住所には母親が住んでなかったのは、世間の目から逃れるためだったんだろうね。たぶん、その部屋はしばらく借り手はいないんじゃないかな」

「かもな」

 そこへ住むのは感情的に嫌がられる――まるで病原菌扱いである。

「どうだ、納得したか?」

 父は訊いた。これですべてが明らかになったろうとでも言うように。

「した……でも……」

 事情は理解できた。いまの暮らしがどういう結果であるのかも。

「でも……なんだ?」

「おやじはそれでいいのか? 母親を放っておいて、自分だけ幸せになるなんて」

女房かあさんの不幸をいっしょに背負っても、不幸は半分にはならないんだよ。他人は犯罪者に対して容赦ないからね。おまえがこうして高校に平和に通うことはできなかったろう」

 世間が不寛容で攻撃的なのはおれも承知している。とくにネットでは、人はどこまでも他人に対して残酷だ。中学の技術科や高校の情報という科目でネットとの付き合いかたを学ぶ。ひとつ間違えたらとんでもなく危険であることを教えられていた。

「もちろん、すごく話し合ったさ。そして出した結論なんだ。つらい決断だった。犯罪者は別人格だ。たとえ身内だろうが血が繋がっていようが、その個人だけに責任があり、犯人以外の人は気にしない……というふうに、みんなが思ってくれるような社会になればいいが、たぶん、そんな世の中には絶対にならない」

「なんでならないんだろう?」

「それは社会がどこまでも不平等で高ストレスだからさ。自分の思い通りにならないから他人をいじめるんだよ。犯罪者をいじめて憂さを晴らす。そうやって八つ当たりするのがいまの日本人なんだ。もしそれを理不尽だと思うなら、おまえが大人になって、そんな社会を変えられるようにすればいい」

「そんなこと……」

 とんだ理想論だった。そんなこと、実現するはずがない。人の心は根本的には醜く救いようがない。それをみんなが理性で覆い隠して見ないようにしているけれども、ひとたびそのタガが外れてしまえば地獄の鬼をもかくやというぐらい変貌する。

「母親とは……もう、連絡がとれないんだね」

 おれは確認した。

 ああ……と、父は答えた。その短い返事がひどく哀しげだった。



 いつまでも自分のなかだけでかかえているわけにもいかなかった。

 もともと、両親の離婚の原因を調べたのは、入堂に尋ねられたからだった。その返事をしなくてはならない。でなければ、男性不信の入堂が、おれの父親を認めてくれるわけがなかった。

 だが……。

 おれは真実を話すことが怖かった。

 幼女連続殺人事件の犯人の血が、おれの体にも流れているのだ。それを知った入堂がどう思うのか、言葉にできないほどの不安があった。離婚の原因が実父の不倫にあった入堂にしてみれば、おれの父親はどう見えるだろうか。離婚の原因は父親にない。しかし犯罪者の姉と結婚していた――それを解消しても、その事実は変わらない。

 父親の潔白を証明しようとして、それどころかもっと深刻な過去に直面して、開けていけない扉を開けてしまったことをおれは後悔すらしている。

 昨日、父親が言ったように、世間というのは犯罪者に厳しい。その世間に入堂が同調するなら、もうおれたちの関係は閉ざされてしまうだろう。今後一生、口をきくことさえなくなるかもしれない。

 ただ、入堂の母親は、それを知ったうえで、おれの父親と結婚しようとしている……。その真理が、おれにはつかめなかった。

 大人の恋愛を理解するには、おれはまだまだ若すぎるのだろう。若くなくなったら、じゃあ理解できるようになるのかといえば、たぶんそこは経験がものをいう気がした。単に馬齢を重ねても、深い人間関係を積んできてこなければ、父の感情がすっと胸に入ってこないに違いない。

 それはおそらく入堂とて同じだろう。いっそう母親に反発するかもしれない。母親はきっとそれを予想しているから、事件との関わりを口にしていないのだ。墓場まで持っていくつもりでいるのかも。

 嘘も方便ではないが、事実を秘匿するのも平和を維持する方法なのかもしれない。が、当の入堂にしてみれば裏切られたような気持ちになるだろう……。おれならそう思うから。

 おれが話すことで、入堂家の内紛のきっかけを作ってしまうのも気まずいが、知っていてなにも話さないでいるのも後ろめたい。

 おれはどうすればいい……?

「よっ、縣」

 翌、月曜日である。朝っぱらから悶々としながら通学し、半分無意識に教室にまでたどり着いていたおれに、牛岡が声をかけてきた。

「大学は決められそうか?」

 土曜日に行ってきた大学エキスポの話だ。一昨日のことなのに、そのあといろいろありすぎて、なんだかずいぶん過去まえのような気がする。

 あのときもらった大量の資料、パンフレットや大学案内は、省みられることなく部屋の片隅におかれたままだ。なにせ宿題さえ手につかなかったのだから、大学選びどころではない。

「いや、まだぜんぜん……」

 おれは元気なく答えた。

「そうだろうな。一生のことだもんな。簡単に選べないよな」

 心労のたたるおれの様子を、てっきり大学の資料を見過ぎてのことと勘違いしている牛岡は、ことさら陽気に振る舞っている。

「でも、まぁ、まだおれたち一年生だし」

 じっくり考えればいいさ、と歯を見せる牛岡。

 その横を、無言で通りすぎて自分の席につく入堂が目に入った。

 そうだな、とおれは上の空で牛岡に返事をしていた。

 入堂本人を目の前にすると、言いづらさが増幅した。

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