サブロウ石
鳥羽フシミ
プロローグ
ズルリと何かが床を這いずる音が聞こえて男は目を覚ました。物音一つしない深夜。湿り気を帯び何かをすり潰す様な不快な音が、ゆっくりと自分の寝ている部屋へと近づいて来る。
そして、その得体のしれない音は男の耳元を通り過ぎ、隣で何も知らずに寝息を立てている彼の妻の下へと向かっていく。「なんとかしなければ……」その不快な物音に得も言われぬ恐怖を感じた男だったが、焦る気持ちとは裏腹に彼の体は脳からの指令を一切受け取ることなく固まったままピクリとも動かない。
這いずる音が止み、今度は耐え難い
動かすことすら出来ない男の視界の端に、浅黒い生き物の様な何かが僅かに見えた。
その時。
「うぐっ…うっ……」
隣で寝ている妻が突然苦しそうに呻き始めた。
――やめろ。やめてくれ……お前は私の妻に何をしようと言うんだ!
男は動かない口を必死に動かそうと喘ぐ。しかし次の瞬間。妻の壮絶な絶叫と共に、彼の顔に生暖かい液体がべとりと飛び散った。
それ以降、妻の寝息は聞こえてこなくなった。しかし、そのかわりに物静かな部屋にペチャペチャと生魚でも捌いてでもいるかのような不快な音がかすかに響いている。そしてわずかに聞こえる悲しき声。
「オ、カ、ア……サ、ン……。」
それは醜く
――あぁ……全ては俺のせいだったんだ……。
男は、自分のした行為をただただ後悔した。知らなかったとはいえ、禁忌を犯すということはこういうことだったのだ。しかしそれを今更後悔したところでもう遅い。
――やめろ。やめてくれ
心の中でいくら叫ぼうとも何の反応も返ってはこ無い。男は暗闇にその不快な音を聞きながら、意識を徐々に失っていった。悪い夢なら覚めてほしい……そう願いながらも、彼はこれが決して夢では無いことをわかっている。
――ごめん。ごめんな。
彼は気を失うまで何度も心の中でそう妻と子供の二人に謝り続けた。しかし悪夢はもう始まってしまったのだ。彼がサブロウ石の禁忌を犯してしまったばかりに……。
昔ながらの山村の風景が残る小さな
きっかけは、そんな自然の美しさ以外に何もない場所に夢を求めて若い二人の夫婦が移り住んで来たことから始まった。
東京は丸の内に務める若きエリートサラリーマンの
このイベントは初夏の田植え、夏の草刈り、そして秋の収穫とに年三回の農業体験を通してお互いに交友を深めてもらおうという、いわゆる自治体主催の婚活パーティーである。しかし、地方のローカルイベントといえども、このイベントは毎年のように日本全国から農業や田舎暮らしに興味のある男女が多数集まり、ここ数年は毎年何組かのカップルが結婚まで漕ぎ着けるという人気の婚活パーティーなのである。
そんな婚活パーティーで、杉浦と小寺の両名はお互いの年齢が近いこともあって初回の田植え体験から直ぐに意気投合した。それからは、紆余曲折はあったものの二人が出会って2年後の春、彼らはその愛を結婚という形で見事に実らせるのである。そして企画者の熱心な働きかけもあって、結婚の翌年に彼等はこの産川町へと移住することになる。
この『産川町農業体験お見合いパーティー』にはいくつかの特典があった。見事に結婚まで漕ぎ着けて移住にまで至ったカップルには、定期的なSNSへの情報発信を条件に農業用地と古民家の無償貸与が約束されているのだ。当然ながら、若き両名もこの特典を利用して産川へと移住することとなったのだが、そこで町が用意した場所が、
少し車を走らせれば近くには幹線道路が走っているため大きな病院のある市街地までは約四十分ほど。子供が通う幼稚園や学校も車さえあればさほどの距離ではない。そして何よりも、澄んだ空気と水。それと豊かな自然がそこには溢れていた。
二つ谷地区。そこはまさに妻の香苗がずっと憧れていた世界。
里山のある小高い丘の上に立ち、瑞穂は集落の間に流れる川や、田畑を眺めていた。何もかもが理想的なこの場所で、彼女は愛する夫と、まだ見ぬ自分達の子供と共に歩んでいく未来を夢見ていた。
この時から四年の間。彼女はただただ幸せだった。はじめは手探りだった農業も、地域の人々に支えられてやっと結果が目に見えるようになった。そして何よりも子供がスクスクと元気に育ってくれている。
しかし、それから四年後。この家族の幸せはいとも簡単に、そしてあまりにも突然に奪われてしまう。
これから本格的な夏が始まろうという7月の清々しい晴れた日の朝。彼女の最愛の息子が川で溺れて死んだ。歳はまだ三歳であった。
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