第35話 止まらないモノ②


「──私だけを見てよ」


 その瞬間、どこからともなく、溢れんばかりの快感が流れ出す。


 どんな劇物でも味わえないような感触が全身を襲い、俺の脳を蝕んだ。


 このまま、押し倒してしまおうか。


 ダメなことだと、頭の隅では理解している。だが、その考えを作り出す理性が未だに吹きかけられる熱い吐息によって溶かされていく。


「ねぇ。このまま、我慢せずに、さぁ。──しちゃお……?」


 どろりと、頭から何かが溢れ落ちる。


 それが何なのかなんて、考えるまでもなく。


 風花の肩を掴み、押し倒した──。



ーーーーーーーーーー



【side風花】



 中学に上がる頃だろうか。私たちはどちらからともなく互いに距離を取り始めた。


 異性というものを意識する上で、今までの距離感があまりにも近過ぎたから、正常に戻そうと思って距離を空けていたはずなのに。別に離れたいだなんて思っていなかったのに。


 気づけば、私と透琉の間には、ふとすれ違っても、互いに挨拶を交わせなくなるほどの距離が空いていた。


 透琉は中学に上がってから、いつも以上に引き篭もるようになったし、私はそれなりに友達もできて、女の子らしいことをするようにだってなった。


 だから、遊ぶ暇も時間も、勇気もなかった。


 だけど、本当は。


 男の子だとか、女の子だとか、そんなことなんて気にせずに隣の家の幼馴染として、もっと透琉と遊びたかった。もっともっと触れ合いたかった。

 

 そんな事を考えている内、気づけば、私の胸は、モヤモヤとも言えぬ、ジクジクとも言えぬ、何をしても拭いきれない不快感で埋め尽くされていた。


 そして、そこでやっと私は気づいた。


 あぁ、私は透琉のことが好きなのだ、と。


 だけど、幸か不幸か、私は色々な事を理解していた。


 バカな私が今そんな事伝えたって、透琉は困るだけだ。そして、もしかしたら、断られるかも知れない。


 だから、私は時を待った。いつ、その時が来てもいいように、彼との関係が修復してもいいように。


 料理を頑張った。


 家事も頑張った。


 そして、気づけば家の事は大抵なんでもできるようになった。勉強は、すこーしだけ苦手だったけど。


 そして、この時私は思った。


 あぁ、これでやっと私は──。


 ──立派なと。





 そして、今。その時が来ようとしていた。


 押さえつけるように私の両腕を押さえて、上から私の顔を覗き込む透琉。


 髪の毛が枝垂れて、欲望と理性がせめぎ合っているのが見てわかる、とてもえっちな表情だった。私はそれを見ただけでもう準備ができてしまっている。


 まったく。どこまで私は透琉のことが好きなのか。


 私はいつの間に透琉という底なし沼にハマってしまっていたのだろうか。今となってはもうわかることじゃない。


 目の前の透琉は少しも動くことなく私の顔だけをずっと見て、フシュー、フシューと、獣のように荒い呼吸を漏らしている。


 あぁ、このまま私はぐちゃぐちゃにされるんだ。


 そう考えると同時に、私の中の本能が警笛を鳴らし始めた。このままじゃ無理やり襲われてしまう、と。 


 だけど、それでいい。


 ついに。やっと、私の願いが叶う。


 初めてこの心恋心に気づいたあの時から、ずっとずっと、昂らせていたこの思い。


 さぁ、来て。


 私を欲望のままに貪って。私の意思なんて関係なく、貴方の、透琉の意思だけで。


 そう、願う私に呼応するように、透琉がゆっくりと手を私の顔に近づける。


 あぁ、今から何をされてしまうのだろう。


 その先を考えるだけで洪水になってしまう私も大概だな、なんて事をふと考える。


 そして、そんな事を考えているうちに、私の頬に透琉の手が、少しだけごつごつしていて、繊細な手が、私の頬をつぅっとなぞる。


 まるで、雫が頬を走るようなこそばゆさに似た快感が脳天からつま先にまで流れた。


 そして、その指は丁度唇の横で、止まる。なかなか進まず、その位置でぴくりとも動かない。もしかして、透琉は私の事を焦らしているのかな。私を試しているのかな。


 私をどこまで狂わせる気なの?


 目を瞑っていた私は、恐る恐る目を開く。


 だけど、そこには、期待していた先ほどのエッチな表情は無く。少し困ったような、やれやれと言わんばかりの表情の透琉がいた。


「えっ……とお……むぎゅぅっ?!?!」


 そして、先程まで静止していた手が、突然すごい力で私の唇を挟んできたではないか。きっとタコさんのような顔になっている私を透琉は笑う。


「ほらっ、ほらっ。こんなことした仕返しだバカ」

「ふぎゅっ! むぎゅぅっっ!! ぷぎゅぅぅぅっっ!!!」


 私はしばらく変な声を出させられていたが、しばらくして透琉は満足したように私の上から去って、私の横にぼふりと寝そべった。


 なんだかムードもへったくれも無くなってしまった私は、下の洪水がばれないように布を被せながらお口がタコさんみたいになっていないかを確かめる。


 しかも、今になってこれまで後払いにしていた羞恥心が込み上げてきて、何一つ言葉を発せない。


 今、私は本当の意味で冷静になったのだ。


 そんな私を見かねてか、横に寝そべっている透琉が口を開いた。


「その、そういう事は……ちゃんとお付き合いしてから……だろ」


 少しだけ恥じるような声色で、透琉はそう言った。


 だけど私は素直になれない、イジワルな女の子だった。


「いいよ、そんな事言わなくて。どうせ、私に魅力がなかったんでしょ。別にそんな言い訳しなくていいんだよ」


 本当はそんなこと、少しも思ってない。透琉がそんな人じゃないことも知ってるし。


 だけど、これまでの努力が、私のアピールが、全部無駄に思て仕方がなかった。だから、そんな私らしくないことを言ってしまった。


 嫌われちゃったかな。こんな面倒な女嫌いだよね。そんなの、わかってたはずなのに。


 あ、やばい。涙が──


「そんなこと、ない」

「……え?」

「正直魅力的っていういか、魅力的すぎた。だからギリギリまで、すごく迷ったんだ」

「……それじゃあ、なんで……」

「そ、それは……大切に、思ってるから……」

「たい……せつ?」


 私は驚いて、横で寝そべっている透琉を見る。透琉は私とは反対方向を向いていたけど、チラリと見えた

耳が真っ赤に染まっていたのを見逃さなかった。


「うん……風花の事は、すごく、大切に思ってる。……だ、だから、大切だからこそ! こんな、中途半端な形は嫌だなって…………」

「とーる……」


 相変わらず、とーるの耳はすごく真っ赤っか。


 だけど、きっと私はそれ以上に、赤く染まりきってるんだと思う。だって、こんなに、信じられないくらいに胸がバクバクしてるんだもん。


 あぁ、もう。どうしてこんなにも私を好きにならせちゃうかなぁ。


 本当に抑えきれなくなっちゃうよ。


「……って、なんかこれ……」

「とーるっ。こっち向いて」

「どうしたんだ」


 ゆっくりと、体ごとこちらを向くとーる。耳が見えて、ほっぺたが見えて、そして、唇が見える。


 そのどれもが見た事ないくらいに真っ赤に染まっていて、すごくすごく、愛らしい気持ちになってくる。


「これは、お礼っ」

「お礼って──っっ?!?!?!」


 私の唇と、透琉の熱い唇が重なり合った。


 たった、それだけなのに、1秒にも満たないのに。

 私の体の中から幸せが溢れ返ってしまいそうになる程に幸せな気持ちが、込み上げてきて、胸はもう巨人の足音のようにばくんばくんと大きな音を立てている。


「あっ、えっ、ふう……か……?」


 戸惑いを隠しきれていないとーるを後に、私はベッドから立ち上がる。


 まだ、さっきの余韻が残っていて、少しだけ頭はぼーっとするけど、家に帰れないまではない。


 床に置きっぱにしていたコートを羽織り、ドアノブに手をかけながら未だ唖然とした表情のとーるの方を向く。


「あ、それともひとつ」

「こ、今度はなんだ……」

「さっきの、私のはじめてだから、ちゃーんと責任とって……ね?」


 私はとびきりの笑顔を見せたあと、振り返らずにとーるの家を出た。


 夜は空けかけ、深紺色の空の端っこに、少しだけ明るくなる前兆を見つけた。


 あんな、ふうに。


 私も、一色に染まった彼の心を、太陽のように私だけの色に染め上げられたらいいな、なんてことを思った。


 そして、私は、幸せが満ち溢れている心に手を当てながら、改めて思う。


 あぁ、やっぱり私は。


 とーるが大好きなんだな、と。

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