カクタスを枯らさないように

近藤白緑

プロローグ 彩られゆく日々


 あの日は雨が降っていた。昼過ぎから降り始めた雨は、いつまでも止む気配を見せてくれなくて、教室で一人、ぼんやりと空を眺めていた。


 黒い雲はどこまでも続いていて、時折現れる鮮烈な光の線が、当たり前のように遠くの景色を切り裂いていく。時間差で届けられる轟音は、お構いなしに私の胸の底を振動させた。


 もしかしたら今日は止まないのかもしれないな。そう思いながら、結露した窓に指先を這わせ、悠長に時間を潰していた。


 下校時刻はとうに過ぎ、生徒の声は聞こえてこない。だからきっと、教室に誰かが入ってくることもないだろう。そう信じて気を抜いていたから、扉がガラガラと音を立てて開かれたとき、「ひっ」と素っ頓狂な声を上げてしまった。


「あれ、高梨たかなし? まだ残ってたんだ。こんな時間まで珍しいね」


 姿を現したクラスメイトの男の子は、私の反応など気にしていないようで、表情を変えることなく教室内へ足を踏み入れる。


 当時はクラスメイトの名前も顔もうろ覚えだった。彼の名前が綾芽康司郎あやめこうしろうだということは、後から確認して分かったことだ。そのことを彼に伝えていたとしたら、「高梨らしいね」と言って、あのあどけない顔で笑ってくれたかもしれない。


 高校に入学して半年程経っていたはずだけれど、彼とは挨拶を交わす程度の仲で、話をしたことはなかった。彼だけじゃない。話したことのあるクラスメイトは少なく、人との会話に慣れていない私は、緊張で縮こまっていた。空気さえも喉に詰まってしまいそうで、息をするのも苦しかった。


 私は一度こくりと頷いてから、絞り出すようにして「えっと、忘れ物ですか?」と尋ねた。


「うん、忘れ物。スマホ忘れちゃったみたいでさ、無いとなんだかんだ不便じゃん。帰り道の途中で気付いて、焦って取りに戻ってきたんだけど、馬鹿だよね。高梨はまだ帰らないの?」


「えっと・・・・・・傘を持ってくるのを忘れてしまって」


「雨が止むの、待ってるんだ?」


 私はまたこくりと頷く。


 綾芽君は最後列にある彼の机の中を覗き込み、その中へと手を伸ばす。間をおかずに引き出された手の中には、黒いケースのスマホが収まっていた。


「そうだ、高梨が良かったらでいいんだけど、一緒に入る?」


 手に持っている黒い傘を指差して言った。彼が平然と言ってのけるから、ごく当たり前のことのように錯覚してしまうが、それは綾芽君と相合傘をするということで。


「そ、そんな気を遣わなくていいんですよ。雨だってきっとすぐに止みますから」


 意識してしまうと一気に顔が熱くなった。それを悟られないように、咄嗟に窓のほうに体を向けて顔を隠した。


 足が浮いているような、ふわふわとした感覚がして、落ち着かない。背中に羽がなくとも、どこかへ飛んで行けそうだった。


「そ、そう? じゃあ・・・・・・」


 用事も済んだだろうから、もう帰るのだろうと思い、じゃあねと手を振ろうとした。だけど、私の予想とは裏腹に、綾芽君は私の側にある机に腰を預けた。


「えっと・・・・・・帰らないの?」


「うん。高梨とあまり喋ったことなかったし、良い機会かなって思って。迷惑じゃなければ、だけど」


 癖のある髪先を指でいじりながら、屈託のない笑顔を私に向けてくれる。


 今日初めて知った。こんな顔で笑うこと、優しく響く落ち着いた声も、ダークブラウンに染められたその髪が、柔らかそうだということも、私は初めて知った。


「私と、お喋りするんですか・・・・・・?あの、楽しませることができるのか分からないけれど、頑張ってみます」


「高梨って、変わってるね。楽しませるとか、考えなくていいよ。お喋りはお互いが楽しむものなんだからさ」


「ご、ごめんなさい」


「なんで謝るの。やっぱ変わってる」


 無邪気に笑う彼の顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。それでもまだ緊張は解けなくて、居心地の良いような悪いような、複雑な空気が私に纏わりついていた。


 耳には、雨の音と二人の話し声しか聞こえない。世界から切り離された、二人だけの空間。


 ねぇ。あの頃の私にとって君の存在は、いつだって私の存在を照らしてくれる光だった。


 目の前に広がる道の、その先に見える儚い希望で、そこへたどり着くための道標だった。


 かけがえのない大切な人だったんだ。


 あの頃だけだったのかな。ううん、今でもそう。これからだってずっとずっとそうなんだと思う。


 どんなに時が流れても、そうなんだと思う。


 未来へと向かう歳月の先で、いつか思い出せなくなるときが来ても、絶対に無くさない。


 私と君の、大切な思い出。

 

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