サウナ小説、略してサ説

かのん

サウナ好きにロクな奴はいない

 私、黒川礼子は全裸でビル屋上の寝椅子で仰向けになっていた。変態ではない。露出狂でもない。外気浴で整っているところだ。


 サウナ好きにロクな奴はいない。サウナの広告に使われる俳優に美男美女が居ないことはさておき、サウナに関する文章は粗末なものばかり。今サウナで荒稼ぎしている連中も、数年後は英語やコーヒーなど別の流行を追っているだろう。中途半端で何者にもなれない人生。努力をやめたからサウナに行くのか、サウナに行くから頑張りを放棄したのか。薄給の中小企業で働く三十歳の私も、そんな二流の仲間だった。

 下がり続ける自己肯定感を抱えて寝返りを打つと、轟音が響き渡った。次いで震度四ほどの強い揺れが発生した。


「あ、もう十分経ったか」

 武蔵野台地を揺らす原因は、電車だった。


 このビルはJR中央・総武線の西荻窪駅から徒歩二分に位置する。以前は不快に感じていた駅チカ特有の現象も、今ではタイマー代わり。十月に入り、外気浴が十分を越えると身体が冷え過ぎてしまうからだ。

 身体を起こし、空を見た。深緑色のパラソルの向こうには、秋の深い青空が広がる。いつもの昼休みだった。

「え?」

 ある男性が屋上にやってくるまでは。


 数秒ほど、完全な沈黙が場を包んだ。目尻の皺から察するに恐らく四十近くだが、肉体は完璧だった。中年男性特有のビール腹、生え散らかった毛とは無縁のようだ。肩ほど伸びた髪はきれいな巻き毛で、口ひげは短く切り揃えられている。

 彼がハンサムだと認識すると、急に羞恥心が沸いてきた。オフィスワーカーである私の身体は鍛えられていない。重力がまだ躊躇っている二十代に、何か対策をすべきだったのだ。

 私は冷静を装い、毅然とした態度で言い放った。

「ここ、女湯ですよ」

「今日は男湯と入れ替わる日だよ」

 彼に返され、私は一目散に場を離れた。屋上である四階からエレベーターで三階に降りる間、受付にいた女の怠慢に対して、考えつくかぎりの暴言を並べることも忘れなかった。


 受付ではピンク色の髪をした女の子が、カウンターの陰でスマホを眺めていた。今日も惜しみなく無能を発揮している。せめて髪の色を変えてバカを隠せば良いのに、と思いながら私は言った。

「ねえ。女湯と男湯、入れ替えなの?」

「はい、イベントで」

 彼女に苦情を言おうと口を開くと、手首の火傷が目に入った。点々と付いた不自然な跡。煙草の吸口ほどの大きさだった。

「その傷、大丈夫?」

「はい」

 どちらの耳にも嘘にしか聞こえなかった。


 私は無言でLINEの画面を開き、QRリーダーにかざした。サウナをチェックアウトし、コワーキングスペースのチェックインを行う。受付は両方を兼ねているのだった。

「あれ? 君、さっきの」

 振り返ると男性が立っていた。黒いシャツにジーンズを履いている。

「何か飲む? オロポとか奢るよ」 

 私は頷いた。ドリンクを注文する彼の、カウンターに置かれた指を見た。爪は短く整えられている。遊んでいるのだろう。男が爪を短くする理由なんて一つしかない。

 受付の女子はドリンクを私たちに手渡した。その顔からは何の感情も読み取れなかった。


 ビルの三階は吹き抜けになっており、ソファやテーブル、椅子やブース席が点在する。今どきのシェアオフィスらしい空間だった。このテナントを入れる際、ビルのオーナーと商店街組合はずいぶん揉めたと聞く。

 適当な席を見つけて座ると、彼は言った。

「いつもここで仕事してるの?」

「はい。リモートなので」

「素敵だね」

 いる人間はそんなに素敵じゃないですが、と言いかけて止めておいた。現場に行かずに済む仕事なんて、金を右から左へ流す作業でしかない。私はオロポを飲んで、言った。

「お仕事は?」

「会社経営だよ。三つくらい」

「普通にすごい人ですね」

 自己実現できているイケメンが、どうしてサウナなんかに来るのだろう。サウナは悩みを忘れるために来る場所のはずだ。


 スマホのアラームが鳴り響き、無情にも昼休憩の終わりを告げた。

「仕事しなきゃ。ごちそうさまでした」

 のんびりと返事をする彼を残し、ブース席に向かった。現実に戻らなくてはならない。現実とは、好きでもない同僚と働き、良いと思わない商品を取引先に売りつけること。やりがいは無いが、労働は偉大だ。他人と比べて陥る自己嫌悪から逃避できる。


 夕方に業務を終えてスマホを開くと、彼から連絡が来ていた。受付にいたピンク女に連絡先を教えてもらったらしい。クレームを入れようか迷ったが、彼女の手首にあった傷が頭に浮かぶ。家に戻って化粧をして、彼に指定された店に向かうことにした。


 店は西荻窪の商店街を抜けた先にあるイタリアンだった。小さいながら感じの良い店で、店員たちは働くことが楽しくてたまらない様子だった。サラリーマンには決して出来ない顔だ。壁に貼られたチラシによると、店員たちはバンドマンや役者としても活動しているらしい。彼らは半端者でいることを恐れない。この手の若者は中央線沿線に多い。

 チラシを眺めていると、かわいい顔をした青年が席に通してくれた。

「ごめん。待たせたね」

 彼、風間さんが現れた。昼間と同じ黒いシャツとジーンズを着て、黒いキャップを被っていた。彼は長い髪をかきあげ、キャップを被り直した。

「帽子、似合いますね」

「ありがとう。礼子さんは何もつけてなくても綺麗だよ」

 私は手に持っていたメニューを落としてしまった。先程の青年が気付いて拾ってくれた。雰囲気の良い店は危険だ。席を共にした相手を好きになってしまう。


 スパークリングワインで乾杯を終え、彼は切り出した。

「受付の女の子、名家の娘みたいだね」

「あんな髪の色で?」

「あれで許されるのは、働かなくて済む身分だからでしょ」

 私はどちらかと言うとメニューに向かって、へえ、と言った。羨ましさが顔に出ていないか心配だった。女の嫉妬は醜い。男が最も嫌うものだ。

「仕事で役所に行ったら教えてもらったんだ。辺り一帯、彼女の父親が持ってみたい」

 彼の言葉は、頭の上を通り過ぎるままにした。次に飲むものを選ぼうとメニューを見たが、値段に目が言ってしまう。ワインは値が張るからとビールを注文した。サラリーマン家庭で育ったサラリーマンの悲しい性だった。

 地主の娘、経営者の彼、骨の髄まで会社員の私。神様は不平等だと思った。


 彼はアメリカの大学を出て、シリコンバレーで起業したこともあると言う。それらは胡散臭い人種からよく聞く単語だった。しかし私が持っていないものを持っていることは確かだった。

「礼子さんは大学の頃、どこ住んでたの?」

「吉祥寺です」

「じゃ、散歩しようよ。井の頭公園まで」

 彼がお会計をする間に外へ出た。十月なのに初夏のような陽気だった。奢りならワインを頼んでも良かったな、と浅ましく後悔していると、彼が店から出てきた。

 彼は手を握ってきた。振りほどくことができないのは、きっと奇妙に温かい夜のせいだ。


 公園は街頭でぼんやりと照らされていて、どこか幻想的な雰囲気が漂っている。公園を少し歩いて井の頭池に着き、黒々とした水面を眺めた。落ちたらどこまでも堕ちてしまう、漆黒の底なし沼のようだ。昼間はカップルや家族連れで賑わう穏やかな青緑の池が、夜にはこんな顔を見せるらしい。

 前触れなく、風間さんに抱き寄せられた。キスをするつもりらしい。視線を横にそらすと、一匹の亀が街頭に照らされている。外気浴中のサウナーの姿に重なり、笑ってしまった。

「何?」

 少し腹立たしげに彼が言い、私は亀を指さした。彼の顔は青ざめ、目が大きく見開かれた。私は彼の視線を追った。


 その亀は、人間の手を咥えていた。


 警察と家と職場往復をしているうちに、一週間が過ぎた。久々にサウナへ行くと、受付には青年が立っていた。先週のイタリアンで働いていた子だった。

「あ、黒川さん! 前に受付やってた子から聞いてます。」

「常連だからね。で、その子は?」

 沈黙。彼は大きな目で注意深く周囲を見渡し、小声で言った。

「井の頭池で、男性の両手が見つかったじゃないですか。犠牲者、彼女の父親だったんです」

 そう、と答えてエレベーターへ乗った。警察で耳に挟んだ話を思い出した。


 ピンク女の父親が所有する工場で事故があり、父親は両手を失った。手は誰かがいたずらで池に投げ込んだらしい。父親は名誉のために黙っていたそうだ。

「旦那さんにとっては不幸だったけど、家族にとっては幸運かもね」と言うのが地元住民の見解だ。父親は商店街組合と街の開発を巡って揉めており、鬱病を発症していた。家にこもりがちで、妻や娘に暴力をふるっていたらしい。言葉や、煙草で。


 サウナ室に入り、水風呂を出て、外気浴をしに外へ出た。屋上では女の子が清掃していた。髪は黒色だが、かつてピンク色をしていた彼女だ。

「あれ? 髪、染めた?」

「ええ」

 以前の彼女からは考えられないほど明るい声だった。私は近くの椅子に腰掛け、言った。

「似合ってるよ」

 彼女は驚いて顔を上げた。

「嬉しいです。黒川さんのこと、いつも良いなって思ってたから」

「は? 私を?」

「はい。自由で良いなって」

「そうかな。働かなくて済む君とか、風間社長の方が羨ましいけど」

 沈黙。彼女は薄くなった火傷の跡をさすりながら、続けた。 

「あの人と連絡取ってますか?」

 私は首を振った。

「病的に浮気してたみたいです。深夜の公園デートが奥さんにバレて、色々と発覚したって」

「そっか。経営者も大変だね」

「責任もありますしね。ストレスがなかったら、浮気なんてしませんよ」

 

 かつては彼に羨望の眼差しを向けていた。目の前にいる、彼女にも。

 人を安易に羨ましがってはけない。特にサウナ好きはロクな奴がいない。

「ま、私はロクでもない人生で良いや。今の自分で満足するしかないよ」

 彼女は微笑んだ。秋の空を思わせる、深い笑みだった。

 電車の音が聴こえ、次いで地響きが起こった。半端な私たちの下に、今日も武蔵野台地は広がっている。

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サウナ小説、略してサ説 かのん @izumiaya

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