第63話 知らぬ噂と望まぬ役目
休講三日目の今日、私たちは学園長室に呼び出されていた。共に来ているのは、オーウェンを除くオリエンテーションのチームメンバーだ。
オリエンテーションで何があったのか、それを確認するために呼び出されていた。当時現場にいたタンザナイト寮生は、既に聞き取り調査が終わっているらしい。オーウェンはそちらで呼ばれたようだ。
学園長室の中には、学園長、トラヴィス、ハリス先生の三名が待っていた。
ハリス先生はタンザナイト寮の寮監だ。黒髪が美しい女性で、瞳は焦げ茶色。どことなく懐かしき日本を思わせる色をしている。
学園長室は二度目の入室だが、どうにも落ち着かない。かつての日本でも、校長室などに訪れることはまず無かった。落ち着かないのも無理はないか。
「突然呼び立ててすまなかったね」
学園長の言葉を皮切りに、聞き取り調査が始まった。
先生方より問いかけられたのは、やはりイグニールの件だ。教師陣が到着するまでの間何があったのか、それを尋ねられた。
あの日のことを思い出しながら、順を追って説明する。
ブリジット嬢の暴挙については、口にするのがはばかられた。彼女の挙動に問題があったとはいえ、相手は公爵家の令嬢だ。ここで口にしたことが、彼女の耳に届く可能性もある。
それを思えば、下手に触れるのはリスキーだ。私だけでなく、他の面々もそう考えたらしい。誰一人ブリジット嬢については触れなかった。名前一つ出さなかったのだから、私を含む皆の警戒具合が窺える。
「そうだったのね……。皆さん、話してくれてありがとう。大変な時に、力になれなくて申し訳なかったわ」
そう言って頭を下げるのはハリス先生だ。
あの日、ハリス先生は現場にいなかった。私たちが最終課題に向かった際、トラヴィスと共にいたのは、ソフィーの兄であるジュードだった。別件で席を外しているとジュードが話していたのを覚えている。
どうやら、ハリス先生宛に連絡が入ったようだ。その対応をせねばならず、慌てて校舎へと戻ったらしい。
その際に、自寮の三年であるジュードを代役とした。彼は最高学年かつ優秀な魔術師。少しの間なら大丈夫だろうと、トラヴィスと共に留守番を頼んだのだとか。
自身が不在な中、生徒を危険な目に合わせてしまった。ハリス先生はそう言って丁寧に詫びた。私たちとしては彼女に不満などない。
あのようなハプニングが起こるなど、ただ一人を除いて誰も知らなかったはずだ。
だというのに、彼女を責められるはずもない。彼女が許されないのならば、ブリジット嬢こそ糾弾されねばならないだろう。おそらく、彼女はあの事態を予想していたはずだ。
「一応確認したいのだけれど……」
そんなことを考えていると、ハリス先生がおもむろに口を開く。彼女の視線はメアリーへ向いていた。
「あなたがホイッスルを吹こうとしたとき、コードウェル公爵令嬢の制止が入ったと聞いているわ。間違いないかしら」
静かに問いかける彼女に、メアリーは口ごもる。返答に窮しているようだ。彼女がタンザナイト寮の寮監であることから、警戒しているらしい。
貴族社会とは、発言の慎重さが求められる世界。例え相手が教員であっても、簡単に口を開いてしまうのは危険だった。
メアリーの懸念を察したのだろう。彼女は困ったように笑みをこぼすと、自身の意向を口にした。
「ごめんなさいね、急に言われても驚いてしまうわよね。
あなたの証言を、決して悪いようにはしないわ。コードウェル公爵令嬢にも口外はしない。あなたの立場が悪くならないように取り計らうと約束します」
その言葉に、メアリーはじっとハリス先生を見つめる。
彼女の瞳に揺らぎがないのを確認すると、メアリーは静かに頷いた。
「私がホイッスルを吹こうとした際、コードウェル公爵令嬢から制止がありました。その後、ホイッスルを飛ばされてしまい、すぐに拾うことはできませんでした」
そう告げるメアリーに、ハリス先生はため息を吐く。事の重大さゆえだろうか。片手で頭を抱えていた。
一連の流れを、トラヴィスと学園長は黙って見据えている。
彼女は一度深呼吸をすると、メアリーへ礼を告げて言葉を続けた。
「コードウェル公爵令嬢のしたことについては、話を聞いていました。
けれど、被害を受けたあなた自身から聞かなければ正確な判断はできないでしょう?
言い辛いことを、話してくれてありがとう」
ハリス先生が優しげな笑みを浮かべる。それを見て、メアリーは息を吐いた。彼女の言葉に嘘はないと判断したのだろう。安堵のため息が漏れたようだ。
彼女たちのやり取りに、学園長は満足気に頷いた。
それも束の間、すぐに真剣な表情へと切り替わる。纏う空気も張り詰めたものとなり、私たちは自然と背を正した。
「現在、学園内ではこの事件を調べているところだ。
それと並行して、学園の安全を守るために策を講じている。君たちがまた辛い思いをしなくて済むよう、最善を尽くすつもりだ。
今回は、本当に申し訳ないことをした」
そう言って頭を下げる学園長に、慌てて謝罪は不要だと告げる。学園側の警備体制は素晴らしいものだ。それを上回ることが起きたのは残念だが、責めていても始まらない。
私の言葉に学園長は顔を上げるも、真剣な表情を崩さなかった。
「このような事件が二度と起きぬよう、こちらも細心の注意を払う。
もし、何か違和感を覚えることがあったら、遠慮なく相談してほしい。
そして何より、君たちの安全を第一に考えてくれたまえ」
その言葉は、彼の誠実さを表すものだった。生徒たちを大切にする学園長らしい言葉に、私たちは声を揃えて返事をした。
聞き取り調査が終わり、私たちは寮へ向かって歩いていた。授業がない以上、校舎に残る必要もない。寮のサロンでお茶でもしようかと話していたときだった。
校舎の出入口からそう遠くない場所。そこで何かを言い争うような声が響いていた。
その声を聞き、私たちは顔を見合わせる。正直なところ、下手に関わりたくはないというのが本音だ。
しかし、寮へ戻るには校舎の出入口を通らねばならない。迂回することもできない場所で起きている騒動に、私はがくりと肩を落とした。
どうしたものか、そう小声で話し合っていると、聞きなれた声が耳に届いた。
「そもそも、又聞きしたに過ぎぬことで口をはさむのも可笑しな話ではありませんか?」
聞きなれたその声はソフィーのものだ。既にタンザナイト寮生への聞き取りは終わっていると聞いていた。その関係で校舎に来ていたソフィーが、誰かと争っているのだろうか。
友人である彼女が関わっていること。見て見ぬふりはできなかった。皆にはここで待っているように伝えるも、誰も首を縦には振らなかった。
一緒に行く、そう告げる彼らに私は困ったように笑う。巻き込みたくはないと思うものの、私を気遣うその気持ちが嬉しかった。
騒ぎの場へ向かうと、そこには二分割された集団がいた。
片方は、第一王子のグループ。そちらには、ブリジット嬢とケンドール辺境伯子息の姿がある。
もう片方は、ソフィーとオーウェンのペアだ。
イアンもその場にいるものの、どちらかに与してはいない。少し離れた場所に立っており、中立といった立ち位置を維持している。
騒ぎになっているからか、周囲には生徒たちがちらほらと集まっていた。タンザナイト寮生だけでなく、スピネル寮生の姿もある。
休講とはいえ、一日中寮にこもるのが嫌だという生徒は多い。そういった生徒たちが騒ぎを聞きつけたのだろう。
娯楽のない寮生活ということもあり、騒ぎなどには皆敏感だ。誰かが騒ぎを聞きつけて、それが伝播しているようだ。
何故このような状況になっているかは分からない。
ただ、ソフィーがこのような場所で、自ら騒ぎを起こすとは考え難かった。彼女はしたたかさのある女性だ。話し合いをするにしても、このように衆人環視の状態では行わないだろう。そうすることでソフィーに利益があるのならば別だが。
一先ず話を聞いてみるべきか、そう思って足を踏み出そうとするも、その足は止まってしまった。
耳に飛び込んできた内容、それが想定外のものだったからだ。
「確かに僕自身が聞いたわけではない。
けれど、リジーは確かに聞いていたんだ。僕とアクランド子爵令嬢がお似合いだと、君たちが話しているのをね」
私の思考が一瞬で固まる。誰と誰がお似合いだと? どうにも聞き捨てならない言葉が聞こえてきたような気がするのだが。
「そういった噂がある、その事実を否定するつもりはありませんわ。
そんなことは、学園内に通う者ならば多かれ少なかれご存知でしょう。今知らなくとも、いずれ耳にするはずです」
待ってください、初耳です! 心の中でそう叫ぶも、ソフィーに聞こえるはずもない。
そんな噂があったのかと、私は愕然とした。どこから出てきた噂なのかは知らないが、全くもって迷惑な噂である。
「だからリジーの前で話してもかまわないと? 彼女が僕の婚約者だと、君は知っているだろう!」
「存じ上げております。ですが、それが何か?」
扇を開き、口元に添える。糾弾を受けているはずのソフィーだが、余裕そうな態度を崩していない。
事実、彼女にしてみれば大したことではないのだろう。第一王子の言っていることは、噂話が元だ。
その上、ブリジット嬢から聞いた話に過ぎないようだ。誰かを糾弾するには、弱すぎる根拠とも言える。
「ただの噂、わざわざ目くじらを立てるほどでしょうか。大なり小なり、社交の場など噂がついて回るもの。
……あぁ、コードウェル公爵令嬢は女性のお茶会にほとんど出席されたことがありませんでしたね」
いなせないのも仕方ないのかしら、そう告げる彼女の声は愉快そうに弾んでいる。扇で隠しているにも関わらず、笑っているのが自然と感じ取れる声だった。
「なっ! あまりにも無礼が過ぎるぞ、ソフィア!」
「無礼? 無礼とはなんでしょうか。私と彼女の家格は同じ。最低限の礼儀は弁えております。私がへりくだる必要はないでしょう?」
「彼女はいずれ王妃になる身だぞ!」
怒りのままに告げる第一王子に、ブリジット嬢がそっと寄り添う。眉を寄せ、悲しげに顔を伏せる姿は、まるで悲劇のヒロインのようだ。
そんなことを考えていると、ソフィーの笑い声が耳をかすめた。彼女の姿に、第一王子が眉を顰める。
「……何が可笑しい」
「ふふ、可笑しくない場所がどこにあるのでしょう。まぁ、あれこれと言うつもりはありませんが……一つだけ。
彼女を本当に王妃にしたいのであれば、この程度自身の力で渡り歩かせなくてどうするのです。一国の王妃がくだらぬ噂に振り回されるなど、お話になりませんわ。
現王妃殿下が、そのような無様な振る舞いをお見せになって?」
そう言って、彼女は扇で周囲を指し示す。第一王子は怒りのあまり周囲へ目を配れていなかったようだ。自身のやり取りが注目を浴びているのに、今更気づいたらしい。
ブリジット嬢は第一王子に寄り添いながらも、何一つ口にしなかった。ここまで言われて反論一つしないとは。我慢強いというべきか、ただ愚鈍なのか。判断が難しいところだ。
「あぁ、それから。殿下は私に無礼と申されましたね?」
微笑みながらソフィーが続ける。口元は既に隠されておらず、彼女は片手で扇を持っている。
「……そうだ。君のリジーへの発言は目に余る」
「いいでしょう。それならば、私としても申し上げたいことがございますわ」
にっこりと笑みを深める彼女。扇を右手で持ち、左の手のひらに軽く叩きつける。その衝撃で閉じた扇は、乾いた音を響かせた。
「私をこれ以上糾弾するというのなら、今ここで彼女に謝罪していただきたいわ。彼女がかつて私へ行った無礼、それを許した覚えはないのですから。
既にコードウェル公爵家から謝罪を受けておりますが、当の本人であるブリジット嬢からはいただいておりませんもの」
その発言に、周囲が静まり返る。
第一王子とブリジット嬢、ケンドール辺境伯子息は目を見開いていた。
他方、周囲の生徒たちは訳知り顔で何事か囁き合っている。
ソフィーは幼少の頃より社交に積極的だったと聞く。ほとんどの貴族子女は、ソフィーがブリジット嬢を疎んじているのを知っていた。なぜそうなったのか、その理由も含めて。
当然、そういった話は加速度的に人々の間に広まったことだろう。今となっては、知らぬは本人ばかりということか。
「な、何を言って……」
「ソフィア嬢、言いがかりはお辞めになってください!」
愕然とする第一王子をよそに、ブリジット嬢は初めて口を開く。自身を糾弾する言葉に、黙っていられなかったようだ。
「あら? 私の言いがかりだとおっしゃるの?」
「その通りです。私はソフィア嬢に失礼を働いた覚えなど……!」
「ないというのなら、所詮あなたはそれまでだということです」
笑みを剝ぎ取り、ソフィーは冷たい瞳でブリジット嬢を見据える。きっぱりと告げる言葉は、鋭い弾丸のようにブリジット嬢へと放たれた。
「言ったはずですよ。コードウェル公爵家からは謝罪を受けていると。
つまり、あなたの御父上は、あなたの非を認めているということ。それに異議を申し立てたいのなら、まずは御父上とお話になってはいかが?」
ソフィーの言葉に、ブリジット嬢の表情が紅潮していく。青褪めるのでなく、紅潮するのは怒りゆえだろう。
第一王子はというと、どうにも混乱しているように見えた。自身の知り得なかった話が飛び出して、処理に戸惑っているのかもしれない。
ブリジット嬢に何事か問いたださないのは、混乱しているからか。それとも、聞けない理由でもあるのか。
「何にしても、私は主張を曲げませんわ」
先ほどまでの冷たい表情から一転、ソフィーは微笑みを浮かべる。柔らかな微笑みは、一見すると許しを与えるようにも見える。
しかし、彼女の瞳は一切笑っていなかった。
「所詮は噂。それに振り回されるようでは、王妃など夢のまた夢。
そして、噂一つ御せられない者に、国の重責が担えるとは思いませんわ」
視線を動かし、第一王子をひたりと見つめる。ソフィーに見つめられた第一王子は、一目でわかるほどに顔を青褪めさせていた。
「もう一つ付言するのならば、私はシャーリーとジェームズ殿下がお似合いとは言っておりません」
「……なに?」
ソフィーの言葉に、第一王子は問いただす。
その顔色は依然として悪いままだ。青褪めた表情に覇気はなく、瞳もどこか揺れているように感じる。まるで悪夢を見た直後のような、そんな不安定さが見て取れた。
「私は、
ジェームズ殿下とお似合いだなどとは、一言も発していませんわ」
酷い誤解だと思いませんこと? 頬に手を添え、困ったように問いかけるソフィー。その姿に、第一王子は一層顔色を悪くした。
口をはくはくと開けるも、声になっていない。その異常な姿に、周囲の視線は第一王子へと集まっていく。
――潮時かな
私は心の中で呟いた。これ以上は下手に刺激しない方がいいだろう。追い詰めすぎて面倒を起こされても困る。
第一王子は素直過ぎるきらいがあり、感情のままに行動する可能性が高い。そういう手合いは、往々にして想定外の面倒を引き起こすものだ。
「お話のところ、口を開く無礼をお許しください。高貴なる方々へご挨拶申し上げます」
私はそう言うと深くカーテシーを見せる。弾かれたように彼らの視線が私へ向けられた。
「あら、シャーリーじゃない」
「ソフィー様、お話し中申し訳ございません。火急の用があり、お声がけいたしました」
「何かしら?」
そう私へ問いかける瞳には、楽しげな感情が浮かんでいる。
彼女にしてみれば、この状況すら些細なことなのだろう。あそこまでやりこめていたところを見るに、それも当然だろうが。
「先生方が、オリエンテーションの件で再度確認したいことがあると。
あまり遅くなるのもよろしくないかと、お声がけした次第です」
「わかったわ。ありがとう、シャーリー」
では、行きましょうか。そう微笑む彼女に、私は静かに頷く。第一王子たちが口を開くことはなく、ただ愕然とした表情を浮かべるだけだ。
このまま大人しくなってくれればそれでいい。自身の振る舞いを顧みるいい機会になる。ソフィーの指摘を活かし、自身の欠点を直すのなら問題はない。
しかし、現実はそう簡単には進まないだろう。ブリジット嬢は特にだ。
ちらりとブリジット嬢へ視線を向ける。彼女の顔には、はっきりと怒りの表情が浮かんでいた。後悔ならともかく、この様子では到底反省は望めまい。
第一王子についても、少々難しいように思う。
冷静に判断できる余裕があれば、更生も可能なはずだ。
だが、先ほどの表情を見るに、難しいと言わざるを得ない。余裕などありそうになかった。
また、青褪めるだけでなく、どこか焦燥感のようなものが滲んでいた。彼なりに何か思うところがあるのだろうか。その内容如何によっては、意固地になる可能性もありうる。
次から次へと起こる問題に、頭が痛くなりそうだ。
話題の中心に自分がいること、その事実に精神的疲労もある。
一層のこと、ヒロイン役とやらをブリジット嬢がやってくれればいいのに。
第一王子に寄り添う彼女の姿を思い出し、私は一人ため息を吐いた。
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