第5話 そして一歩歩み出す(オスカーSide)


 「お前、随分思い切った決断をしたもんだな」


 暖かな日差しが隠れ、日中の騒がしさが嘘のように静まり返った夜。オレンジ色の間接照明が照らす室内は、重苦しい空気が流れていた。


 僕の目の前にいるのは、3つ上の兄、アルフィー・レイ・ペイリン伯爵。

 伯爵家当主である兄がこの屋敷に訪れるのは随分と久しい。シャーリーが生まれたとき以来だ。


 「お久しぶりです。兄上」


 そう言って頭を下げる僕に、兄は怪訝そうに片方の眉を上げる。その反応は当然だろう。兄がこの屋敷を訪れなくなった理由は、他でもない僕だった。


 「全く、久しぶりに顔を合わせられると思ったらこの騒ぎだ」


 兄の呆れたような言葉に自然と顔が俯く。勝手に遠ざけられた兄としては、面倒事のみ押し付ける弟は、さぞ鬱陶しいことだろうと苦い気持ちが胸をよぎった。

 そんな僕をどう思ったのか、兄は片手を振り、顔を上げろと告げた。


 「お前のことだ。どうせやたら後ろ向きに考えて沈んでいるんだろうが、それは後回しだ。


 カーターから概要は聞いている。今回来たのは、お前の意思を確認するためだ」


 声のトーンが下がり、室内には緊迫した空気が流れる。

僕らが囲むラウンドテーブルには、小さなキャンドルが灯っていた。揺れるオレンジ色の光を見つめながら、思い浮かぶのは今日の愛娘の姿。


 周囲の花に気をとられていたのだろう。足元が疎かになり、敷き詰められたレンガに躓いた。慌てて駆け寄ろうとするも間に合わないのは明白だった。きっと怪我をしてしまう。せめてすぐに治療しなければと思っていたが、その予想は外れることとなった。


 「転びそうになったとき、と聞いたが……間違いないな?」


 問いかける兄に無言で頷く。倒れ込むはずだった固いレンガは、一瞬にして柔らかな土になっていた。怪我がなくて良かったと喜びたいのに、事はそう簡単には運ばない。


 「愛らしい我が姪はまだ4歳だったな。普通であれば魔術の発現はできないだろう。あの子のポテンシャルであれば、4歳でも魔術が行使できる可能性はあるが……問題がそこではないと、お前は分かっているんだろう」


 ――あぁ、そうだ。そんなことはとっくに分かっている。

 あの子が行ったのは、瞬時にレンガを土へ変えること。土属性の魔力持ちであれば、レンガを土に変えることは可能だ。土を自在に操ることができるその能力があれば容易いことだ。


 しかし、あの子はまだ4歳だ。仮に魔力行使ができたとしても、せいぜい土をそのまま操るくらいのものだ。粘土と頁岩を練り焼き固めたレンガを、土に戻せるとは思えない。それに、


 「その上でお前は、ランシアン前侯爵に会いたいと言うんだな?」


 兄の言葉に思考を止める。問いかける兄の顔は真剣そのものだった。


 ランシアン前侯爵は、現在の外務大臣だ。若き国王と王妃の結婚が決まった際、王の側近から退き現在の職務に就いた。


 当時、国王の結婚については賛否両論だった。正確に言えば、否定的な意見の方が多かっただろう。真意は人それぞれであろうが、歓迎された婚姻でなかったことだけは確かだ。


 今から14年前、この国である戦いが幕を開けた。5年続いたその戦いは多くの死者を出し、今でも痛ましい記憶として人々の心に息づいている。

 国民の多くが悲しみに暮れる中、国王の結婚は決まった。本来であれば、実現することのなかった婚姻が。


 ランシアン前侯爵はその渦中の人であった。王宮から出て役所で務めることになったのは当人の意向だと聞く。それ以降、ランシアン侯爵家は王家から距離を置いている。


 そのランシアン前侯爵を頼るということは、メリットもあるがデメリットも大きい。

 本来であれば褒められた選択肢ではないのだろう。僕の決断が周囲から責められるものであることも覚悟していた。それでも、


 「あの子には、笑顔が似合うから」


 組織に縛られるのではなく、政治の道具にされるのでもなく、誰かの糧にされることもなく。ただ、あの子が笑って暮らせる未来を守りたい。どうしようもなく未熟で頼りない父親であったとしても、あの日、生まれてきたあの子に立てた誓いだけは果たしたい。


 「あの子は僕を父親にしてくれた。一度は諦めることも考えた幸せを、あの子が僕にくれたんだ」


 最愛の妻、マーガレットとの間に生まれた子。僕とマーガレットは魔力量の差が大きく、妊娠は難しいと言われていた。また、仮に妊娠できたとしても母子ともに無事で産まれることはないだろうとも。


 何度も2人で話し合った。ときには激しい喧嘩になったこともある。最愛の妻を失いたくない僕と、愛し合った証が欲しいと泣く妻。どちらが正しいわけでもなく、どちらかが間違っていたというわけでもない。


 ただ、僕ら自身の一番の願いが、愛する人と愛する我が子と暮らしたいという願いだけが、どうあがいても叶わなかっただけなのだ。


 幾度も悩み、やっと2人で決めたこと。愛する我が子をこの手に抱く。その願いだけは捨てきれず、あの子が生まれてきた。


 あの日、まだ小さく、目も開けられなかったあの子を抱いた。小さな身体で必死に産声を上げる我が子を見て、必ず幸せにすると誓ったのだ。どんな困難からも守り抜いてみせると。


 どうか力を貸してほしい、そう言って頭を下げた僕に、兄は小さく笑った。


 「少し見ないうちに、成長したもんだな」


 その言葉に、涙が一粒こぼれた。

 それに気づくとぽろり、またぽろりと涙が頬を伝っていく。こぼれた涙は拭われることなく、僕のズボンを濡らしていく。


 あの子が生まれた日、親戚たちはあの子の魔力量の多さに歓喜の声を上げた。ペイリン伯爵家の血を濃く受け継いだ天才だと。歓喜に満ちた瞳は、あの子自身ではなくあの子の才に向けられた。


 だからこそ、誰もこの屋敷に近づけなかった。たった1人の血を分けた兄すらも遠ざけて。ただあの子を純粋に愛してくれる者のみを置き、それ以外は不要と断じたのだ。


 遠ざけた中にはあの子自身を見てくれる者もいたのかもしれない。それでも、あのときは考える余裕などなかった。万が一にもあの子を害されることのないようにと、不確定要素は全て排除した。


 あの異様な歓喜に沸いた光景が今も忘れられない。到底幼子に向ける視線ではなかった。

 熱く熱に浮かされた視線は、堪え切れない欲を孕んでいた。幼子の才が伯爵家に、その縁続きである家々にどれだけの恩恵をもたらすのか。それだけを期待していた。

 そんな視線にあの子が晒されることを、どうしても受け入れられなかったのだ。


 兄のことはずっと尊敬していた。自分にはない社交性に、素晴らしい剣の腕。僕に誇れるものは魔術のみで、いつだって兄やマーガレットに助けられて生きてきた。


 そんな兄を遠ざけた僕には、マーガレット亡き今、愛する我が子しかいなかった。それでいいと思っていた。それだけで恵まれていると。

 それでも、昔を思い返す度どうしようもなく胸が締め付けられた。


 一度でいいから認められたい。魔術の腕でも仕事でもなく、父親として生きる今の僕を認めてほしかった。


 僕は口下手で、人間関係に苦労してばかりだった。家族とのやり取りすら上手くいかないことも多かった。そんなとき、手を差し伸べてくれたのは兄だった。

 だからこそ、家族の長として、あの子の父親として生きる僕を認めてほしかったのだ。いつも助けてくれた、頼ってばかりだった兄に。


 「おいおい、成長したと言った直後に泣くのか? 相変わらず泣き虫は変わらんな」


 明るい笑い声と同時に、暖かな手が僕の髪を撫でた。

 きっと、僕は兄に一生敵わないのだろう。

 けれど、この手の暖かさがある限り、僕は自分の選択を信じて歩んでいけると思うのだ。愛する我が子を守るため、僕が立派な父親になるために、目指すべき理想はここにあるのだから。


 「ありがとう、兄さん」


 ――貴方なら、大丈夫よ。


 遠い昔、愛する人がくれたその言葉が、耳の奥で蘇った。


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