お茶ではじまる恋物語
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お茶ではじまる恋物語
先日、婆ぁちゃんが亡くなった。八十八歳の大往生だった。
腰を痛めて入院しているが命に係る状況ではない、と両親から聞いていた。
後に死因を聞いたところ、老衰としか言いようがないとのことだった。
実感はないが取るものもとりあえず飛び乗った新幹線の車中。
過ぎ行く車窓に目をやりながら徒然に婆ぁちゃんとの思い出を巡っていたとき、ある場面が頭をよぎった。
「爺ぃちゃんは意地悪ばっかり言うんよ」
暑い夏だったか、寒い冬だったか。詳しくは覚えていない。僕の家族と爺ぃちゃん婆ぁちゃんで、晩御飯を食べた後だったと思う。
食事が終わって皆がダイニングから辞した後、熱いお茶を飲みながら婆ぁちゃんと二人で取り留めない話をするのが、婆ぁちゃん家帰省時のルーティーンだった。
おそらくそのうちのいずれかだろう。
「間違えてお茶を飲んだけぇ結婚することになったんじゃって言うんよ」
両手に包んだ湯呑に目線を遣りながら、婆ぁちゃんはそう言った。
いつも温和な笑みをたたえて人の悪口を言わない婆ぁちゃんが、爺ぃちゃんをそんな風にくさすなんて思いもしなかった。
発言の意図があまりに理解できなかったからだろう、その時僕がどのように返事をしたかは思い出せない。
ただ、婆ぁちゃんの拗ねたような、照れたような、恋する女の子のような表情ははっきり覚えている。
婆ぁちゃんはあの時、どうしてそんなことを言ったのか。そして、どんな意味があったのか。それを知りたい。
ホームに滑り込む新幹線の中で、ふとそう思った。
疲れた顔の親父に迎えられ、婆ぁちゃん家の玄関をくぐる。
懐かしい木の匂いと、線香の香り。仏間に向かうと、一組の布団が目に入る。
枕元の座布団に正座して、ふるえる両手で真っ白な布をそっと除けると、淡い紅を引いてほほ笑みを浮かべた婆ぁちゃんがそこにいた。
ただいま、婆ぁちゃん。ただいま。
今にも起き上がりそうな穏やかな顔なのに、声をかけても帰ってくるのは静寂だけ。
ふと目をやると、婆ぁちゃんに掛けられた布団は置物のように少しも動かない。
それに気付いた時、僕の目からは涙があふれた。
一息ついて親父に事の顛末を詳しく聞いた。特に爺ぃちゃんのことだ。
家事の一切をしない、足腰の極めて弱い御年九十四歳の爺ぃちゃんは、腰を痛めた婆ぁちゃんがいないと生活が立ち行かない。病院のご厚意で、男女別々の病室ではあるが老夫婦共々入院という扱いにしてもらっていた。
婆ぁちゃんは夜更けに息を引き取っており、隣室の爺ぃちゃんはそのことを知る由もない。
朝方病院に駆けつけた親父は、婆ぁちゃんが亡くなったことを爺ぃちゃんに伝えてやってほしいと医者の先生から頼まれたそうだ。
親父が肩を抱きながら婆ぁちゃんの逝去を伝えると、爺ぃちゃんはそれはもう大泣きしたという。
ワシが先に逝くはずだったのに、と。
親父に車いすを押されながら通夜の会場に現れた爺ぃちゃんは、前に見たときより二回りほど小さく見えた。足腰がすっかり弱っただけでなく、心まで弱ったのだから当然だろう。
それでも遠方から駆け付けた僕に、ねぎらいの言葉をかけてくれた。
僕は爺ぃちゃんの好きな熱々のお茶を二つ煎れ、賑やかしでつけていたテレビを眺める爺ぃちゃんの横に腰かけた。
婆ぁちゃんとサシでお茶をしたことは幾度となくあったけれど、爺ぃちゃんとは数えるほどしかなかったと思う。
どうして婆ぁちゃんはあんなことを言ったのか聞こう、そう思った。
婆ぁちゃんを亡くし悲しみに暮れている爺ぃちゃんに対して、こんな話をするのはあまりに酷い仕打ちなのかもしれない。
でも僕は、どこか義務感に駆られるように、聞かなくてはと焦っていた。
「ねぇ爺ぃちゃん。婆ぁちゃんと結婚することになったきっかけって何だったん? 婆ぁちゃんはお茶を飲んだけぇ、って言っとったけど」
そう僕が尋ねると、爺ちゃんは湯呑を置いて、少し笑みを浮かべながら次のような話をしてくれた。
終戦時、爺ぃちゃんは十七だった。疎開で戦火を逃れた爺ぃちゃんはゆくゆく建設関係の会社を立ち上げ、市内の誰もが知る建物の建築に携わることになるのだが、それはまた別のお話。
当時、爺ぃちゃんは嫁を貰うつもりはさらさらなかったそうだ。
そんな時、知り合いから縁談を持ち掛けられた。今でいうお見合いだ。
とある集落に女性が三人いるのでそのうちの誰かを嫁に取らないか、という話だったそうだ。
知り合いの顔を立てる意味もあったのだろう、義理堅い爺ぃちゃんはその女性達に会うことにしたらしい。
その女性の一人目が、婆ぁちゃんだったそうだ。
もちろん初対面、緊張もあるだろう。とりあえず畳敷の和室に腰掛けた。
顔を合わせて話をする中で、先方、つまり婆ぁちゃんとその家族は、「嫁に貰ってもらえる」というような前向きな雰囲気だったらしい。
委細分からぬが斯様な雰囲気で断るのも心苦しい、と困った爺ぃちゃんは、卓上のお茶を一服した。
ところがそれが、運の尽き。
その当時、「見合いの場で出されたお茶を飲む」というのは、「縁談を了承した」という合図だったらしい。
当時の爺ぃちゃんはそれを知らなかったそうだ(半信半疑だった僕は念のため、話が終わった直後にその場で調べた。どうやらそういう風習も一部ではあるようだ)。
そんなわけで、爺ぃちゃんは婆ぁちゃんを嫁にもらうことになった、そうだ。
「知らんとお茶を飲んだけぇ婆ぁちゃんを嫁にもらうことになったんよ」
そう言って爺ぃちゃんは、湯気の薄くなったお茶を再び飲み始めた。
……待て、まだ気になることがある。
「え? それじゃあ他の二人には会ったん?」
当然の疑問だと思う。三人の女性に会うはずだったのだから。
僕がそう尋ねると爺ぃちゃんは少し語気を強めながら、
「会っとらん。そんな浮気性じゃない」
と食い気味に即答した。
つまり、三人のうち一人目の婆ぁちゃんにしか会わず、結婚を決めたと。
そのあたりで僕は一つの懸念を抱くに至った。
さては爺ぃちゃん、婆ぁちゃんに一目惚れをしたのでは?
傍証はいくつもある。
まず基本的に、爺ぃちゃんと婆ぁちゃんは仲がいい。
爺ぃちゃんは身の回りのことを自分でしないいわゆる亭主関白だが、婆ぁちゃんもなんだかんだ言いながら世話を焼いていた。周囲から見ると爺ぃちゃんは大層わがままに映っていたようだ。それに対して甲斐甲斐しく従う婆ぁちゃん。
見方によっては共依存とも言えるのだろう。
仮通夜の際、町内から多くの弔問客が婆ぁちゃんを見送りに来てくれた。婆ぁちゃんは人づきあいが上手であり、友達が多かった。
親父が対応していたのだが、その際以下のような話が漏れ聞こえてきた。
・選挙の時には足腰の弱い二人が、手をつないで会場まで歩いてきていた。仲良し夫婦だった。
・仲良しだった婆ぁちゃんが先立ってしまい、爺ぃちゃんは気落ちしていないか(親父が爺ちゃんは号泣していたと告げると、弔問客は皆一様に「そうでしょう」と口を揃えた)
・爺ちゃんは婆ぁちゃんの料理しか食べない(夫婦で町内会の旅行に出かけた際、爺ちゃんは出された料理にあまり手を付けなかったそうだ。それが町内に広く知られている状況とはいったい……?)
通夜が終わり仕出し弁当を食べているとき。
旨くもなさそうに弁当を食べる爺ぃちゃんに、尋ねてみた。
「爺ぃちゃん、婆ぁちゃんの料理で何が一番好きだったん?」
どう答えたと思う?
爺ぃちゃんは食べる手を止めてこう言ったのだ。
「婆ぁちゃんが作る料理を美味いと思ったことがない」
婆ぁちゃんが作る料理しか食べないくせに、だ。
僕はここに、真のツンデレを見た。
果たして爺ぃちゃんは恋愛感情一つなく婆ぁちゃんと結婚したのか。
お茶を飲んでしまったから、止むなく結婚したのか。
正直なところ、爺ぃちゃんの義理堅さを考えると、そうであってもおかしくないようにも思う。
もちろん、真相は爺ぃちゃんのみぞ知る。
爺ぃちゃんが存命のうちに、僕がこの問いをすることはない。
僕の持った疑問は完全に解決された。
仮に真実がどちらであっても、僕は一向に構わない。
そしておそらく、婆ぁちゃんにとっても、どちらでも良いことだ。
僕はこう思う。
一杯のお茶で結ばれた縁であっても、真実の愛になりうると。
通夜、葬式、火葬のいずれの機会でも、爺ぃちゃんは婆ぁちゃんの顔を見るたびに声を漏らし、涙で瞳を濡らした。冷たくなった綺麗な婆ぁちゃんの頬に、思うように動かない手を必死で添えて、泣くのだ。
この姿が偽りであることはない。この姿こそが、真実なのだ。
焼かれて仄かに暖かくなった骨壺を、大事に大事に抱えた爺ぃちゃんの姿を見て、僕は思った。
婆ぁちゃん、爺ぃちゃんと結婚できてよかったね、幸せだったね、と。
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