ことのはの海 令和四年度作品集 文化祭号

國學院大學児童文学会

仁戸倉すず子『蝉と私の脳内逃避行』

 朝の6時25分。私は家の前をぴたりと動かなかった。いや、正確に言うと動かなかったのではなく、動けなかったのだが。

 普段家を出るよりも5分も早く出ることができ、今日はついているなどと浮かれていたのがいけなかったのだろうか。足元から約30センチの距離に転がっている塊を見つめる。今年もこの季節がやってきてしまった。私は夏が好きだ。どことなくわくわくし、なんだか何でもできるような無敵感があると思う。

 しかし、それでもどうしても好きになれないものはあるわけで。その一つがこれである。

 生きているのか死んでいるのか見分けるのが非常に難しいあれである。

 油断していると突然烈火のごとく飛び出してくるやつである。別に木にとまっているのは、いい。鳴き声だって多少うるさいけど夏らしくていいと思う。だけど、なぜ、最期だけこうなのだろうか。もうそういうルールでもあるのだろうか。もしそうなら直ちにやめていただきたい。他の生き物はもっと分かりやすいぞ、休憩と永眠。 私も老いたら安らかに眠りたい。思考は脱線していく。

 やばい、遅刻するかと思って時計を見るとまだ一分も経っていなかった。意外と一分って長いんだな。大学入ってから特に時間って有限で少ないと思ったけど、大丈夫そう。カップラーメンの待ち時間だって異常に長いし。本当は時間ってあるんだきっと。普段気づいてないだけで時間はただそこにあるのだ。7年の月日を土の中で過ごし7日を日の元で過ごす彼らにとってこの時間は長いのだろうか。それとも短いのだろうか。この生の中、海をその目に写すことはあるのだろうか。あ、一分経った。

 首筋を汗が伝う。両者動かざること山のごとし。どうしようこのまま現実逃避していても彼?彼女?は永遠にそこに在るだけだ。こちらがアクションを起こさない限り。待っているだけでは何も解決しないのだ、頑張れ私。でもこのまま歩き出す気はさらさらない。

 なぜなら、今日は私ロングスカートだから。

 男子諸君はこの恐怖を知らないだろう。

 もし、このまま私がやつを跨いだとしよう。その瞬間やつが覚醒した場合どこに飛び出していくかが問題なのだ。ロングスカートがやつの進路を妨害した場合スカートのなかで大暴れすることになるだろう。嫌だ、それだけは絶対にダメ。そんなことになったら私は人生で初めて学校をさぼることになる。

 いいのか原因蝉で。

 ああ、なんで今日に限ってロングスカートにしてしまったのだろう。五分前に家を出たのだろう。おかげで飛び出す勇気も踏ん切りもつかないではないか。今からズボンに変えるか。いやでも蝉ごときに服装の自由を奪われたくない。どうしよう、もうあと三分でいつもと変わらない時間になってしまう。それも癪だ。なにか方法はないだろうか、やつの生死を試す方法は。あった。


 ダアアァンッ。


 朝のマンションの廊下に鳴り響く私のローヒールサンダル。踵痛い。さあ、どうだ。対象は、動かない。……勝った。私は、勝った。人類の勝利だ。さあ、いつもの時間まであと二分。優雅に歩いていこう。私が新しい一歩を踏み出そうとしたその時、


 びいいぃいいいいいいいいいぃいいいぃいいぃいいいぃぃぃぃいぃぃぃぃぃぃぃんッ……


 さっきのお返しだとばかりに鳴り渡る蝉の声。やつは、蝉は、遥かなる、入道雲めがけて飛んで行った。心臓がばくばくする。私は本当に驚いたときには無音になる。今まで黄色い声なんて出たためしがなくてそれが少しコンプレックスだったけれど。今はそれでよかったと思った。これ以上は近所迷惑だ。今に死にそうだったのに、他人に死を宣言されたとたんに空元気を出して飛んで行ってしまう彼らが、なんだかまぶしく花火のように感じた。

 はあ。さっき飲み込んだ息をつく。学校、行かなきゃ。

 時間は、いつもより一分オーバーしていた。

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