第37話
翌日の朝、一限目に使う教科書を取り出そうと自らのロッカーを開いた瞬間、「やっちまった」と大きな溜め息を吐いた。
昨日体育があって、今日も三限目に体育があるのだけれど……昨日の事故のせいで、体操着のジャージが破れてしまっていたのをすっかりと忘れていたのだ。
持って帰って代わりのジャージを持ってくるつもりだったのだが、良太達と話しながら昇降口まで行ってしまったせいで、記憶の片隅からも消えていた。
普段は毎回持って帰っているのだけれども、昨日は状況が特殊だった。保健室から更衣室に戻って慌てて着替え、体操着だけとりあえずロッカーに放り込んでそのまま祈織と食堂に直行したのだ。そのせいで、ジャージの存在そのものを忘れてしまっていた。
俺は結構こういうぽっかりミスをやらかす事が多いのである。
「どうしたの?」
ロッカーを開けて固まっていた俺を見て、祈織が怪訝そうに声を掛けてきた。
俺はロッカーの中から昨日のジャージを取り出して、祈織に広げて見せた。腰のあたりのところに、ぽっかりと穴が空いている。ちょっと大きめの缶バッジくらいの大きさだ。
「穴空いてたの忘れてた……」
「あー……やっぱり昨日持って帰るの忘れちゃったんだ。替えのジャージは?」
「それも忘れた……」
「私も言うのすっかりと忘れてたから……ごめんね?」
やってしまった、と言わんばかりに自らの額に手を当て、祈織は溜め息を吐いた。
何故か彼女が責任を感じてしまって、申し訳なさそうにしている。
「いやいや、忘れてたのは俺だから。お前は悪くないだろ」
「ううん。昨日の帰り、掃除してる時まではちゃんと覚えてたから。後で忘れてないかちゃんと言おうって思ってたんだけど……」
そこで一旦言葉を区切らせて、祈織は恥ずかしそうに俺をちらっと見た。
「顔見たら嬉しくて、忘れちゃってたの。ごめん」
祈織は頬を染めて、俺は俺でその言葉で一気に顔が熱くなった。
「いや、別にそれ、何も祈織悪くないから……あと、普通に嬉しいし」
「そ、そう……?」
お互い何だか恥ずかしくて、教室のロッカー前で変な空気になってしまった。
その空気を打ち払う為か、祈織はちょっと大袈裟な仕草で「あっ」と呟いた。
「それならもう今日は体育休ませてもらえばいいんじゃない? ほら、軽傷って言っても腕と背中は怪我してるんだし、昨日の今日だし……休んでも先生何も言わないと思うよ?」
「まあ、それもそうなんだけど、見学したらしたで暇だからなぁ……」
一応体は問題なく動くし、と付け足して、溜め息を吐いた。
でも、穴の空いたジャージで授業を受けるのも嫌だし、今日は休んでもいいかもしれない。
そう考えていると、祈織はふと教室に貼ってある時間割を見てから、時計に目を向けた。まだ朝のショートホームルームまで一〇分ほどあった。
「体育は……三限目かぁ。間に合うかな?」
祈織は何か神妙な顔つきで呟いている。
「祈織?」
「あ、うん。ちょっと待ってて。何とかなるかも。間に合わなかったらごめんね?」
「え? どういう──」
祈織は俺が訊き返す前に、そのままパタパタと廊下を小走りで行った。
怪訝に首を傾げてそのまま突っ立っていると、それからすぐに祈織は教室に戻ってきた。
「麻貴くん、さっきのジャージ貸して?」
「え?」
俺の席までくるや否や、彼女がそう訊いてくる。手には小さな箱があった。
「それは?」
「ソーイングセット。
祈織は俺からジャージを受け取ると、そのまま俺の席に座ってソーイングセットを開いた。
彩音ちゃんとは、祈織が一年の頃によく一緒に過ごしていた女の子だ。二年になってから別クラスになって交流頻度は下がったらしいが、今でもメッセージでやり取りはしているらしい。
「裁縫、できるのか?」
「一応ね」
彩音ちゃん程得意じゃないけど、と困った様に笑って、祈織は針と糸を取り出した。
そのまま生地に極力近い色の糸を選んで針にさっと通し、縫い始める。
「得意じゃないって言っときながら、めちゃくちゃ早いじゃないか」
俺は手先が不器用なので、針に糸を通すだけで一苦労だ。そのせいで、家庭科の裁縫の授業などは地獄だった。
「うーん……彩音ちゃんもだけど、周りにお裁縫が上手な人がたくさんいたから、自分が得意だとは思えなくて」
料理は得意って思えるんだけどね、とそのままジャージの穴を縫い合わせながら言う。
周囲の連中も「
祈織は少し照れ臭そうにしているが、手元の作業に集中しているのか、視線は針を見たままだ。
普通に凄く上手いと思った。これで上手くなければ、彩音ちゃんとやらはどれだけ上手いのだろうか。服飾関係の人なのか?
「得意じゃないって言う様には見えないんだけどな。めちゃくちゃ凄いぞ」
「んー……そうなのかなぁ」
祈織は手元に注意しながら、自信なさげな言葉を返す。
「裁縫は習ってたのか?」
「うん。お母さんから『お裁縫はできたらいつか武器になるから』って言われて、小学生の頃に少し習ってたの。全然乗り気じゃなかったんだけどね」
祈織は小学生の頃、お母さんの奨めで習い事として一年程度裁縫の教室に通っていたそうだ。それならば、この手際の良さにも納得である。
ただ、周囲の受講生が上手かった事もあり、自分の裁縫技術に自信を持てなかったのだという。
「でも、やっぱりお母さんって凄いね……」
「え?」
祈織がしみじみとしていきなり母を賞賛するので、首を傾げる。彼女は相変わらず手元の作業に集中したままだ。
「何でお母さんなんだよ。凄いのはお前だろ?」
祈織は「ううん」と首を少しだけ横に振って、続けた。
「だって、お母さんの言う通りなんだもん。私、今凄く助かってる」
祈織の言葉に、俺は再び首を傾げた。
今助かっているのは、どう考えても俺である。祈織ではない。
「助かってるのは俺じゃないか?」
「ううん。今助かってるのは、私」
「え? だから何で」
「麻貴くんが困ってる時に、こうしてすぐに直せてるから。あの時お裁縫習っておいてよかったなって……今実感してる」
自分で言って恥ずかしくなったのだろう。祈織はそこから口を閉じて、作業に集中していた。少し頬が赤い。
そんな事を言われたら俺まで恥ずかしくなって、無言で彼女の作業を見守るしかなかった。
ちなみに、その時祈織の裁縫を見ていた周囲の連中の顔が、苦虫を嚙み潰した様な顔になっていた。ただ、それは苦いというより甘過ぎて気持ち悪い、みたいな顔な様な気がする。
あと、俺を睨まないで欲しい。今のは俺は悪くないと思うのだ。
「はい、完成!」
祈織がそう言って、ジャージを広げて見せた。恥ずかしさを紛らわせる為か、少し声が大きい。
しかし、彼女の技術は確かなもので、ジャージにあった缶バッジサイズの穴は見事に塞がっていた。
「おお、すげえ! ほんとに直ってる!」
「そんなに太い糸じゃないから、あんまり激しくするとまた破れちゃうかも。怪我もしてるんだし、今日は暴れ回っちゃダメだよ?」
「ああ、わかったよ。ほんとにありがとう」
俺は暴れ回りたくて暴れ回ったんじゃないんだけどな、と思いつつ、彼女の言葉に頷いた。祈織は恥ずかしそうにはにかんで少し首を傾けていた。
担任が教室に入ってきたのはそのすぐ後だった。
俺は祈織に縫ってもらったジャージをロッカーに入れて、自分の席に着いたのだった。
──いや、俺のカノジョ強過ぎない?
自分の席に座っていた彼女がちらりと俺を見て、目元だけで微笑んで見せた。
そんな彼女を見て、やっぱり祈織は最高に自慢の彼女だなぁと思うのだった。
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