第19話

 授業が終わって、その日は祈織いのりを待たずにすぐに帰った。

 今日は六限授業の日なので、終業は四時過ぎ。そこからすぐに帰れば、バイトが始まるまで一時間と少しは家で休める。バイトがある日は、やはり少しは休みたいのが本音だった。

 家に戻ると、制服から着替えて、どさりとベッドに横たわる。

 枕からほんの少しだけ祈織の髪の香りがして、それをもっと嗅ぎたくて、枕に顔を突っ込んでしまった。傍から見たら変態だ。


 ──アホな事してないでちょっと仮眠取ろう。


 目覚ましを五時四〇分にセットして、目を瞑った。

 今日の勤務時間は六時から十時までの四時間。バイト先のロイヤルモスト六ヶ峰ろくがみね店までは、徒歩七分だか八分くらい。急げばもう少し早くに着ける。

 平日は四時間働く時が多いが、土日に出勤した時は六時間から八時間働く時もある。大体週三でバイトに入っていれば、月に入ってくるバイト代は四万から五万程度。

 バイトを始めてからは、かなり生活に余裕もできてきた。仕送りだけでやりくりしていた時は、あらゆる欲を我慢して節約していたが、あれは精神衛生上良くない。

 例えば昨日祈織が作ってくれた夕飯の材料費や、今日の学食代なんかはバイトをしていなかったら出せていなかった。

 バイトを始めたのは祈織と付き合う前からだが、付き合う前から始めておいてよかったなと思う。付き合ったはいいが金が無さ過ぎて恋人と何もできない、ではさすがに格好がつかない。

 色々な面で、良太りょうたがバイトを誘ってくれたのには感謝している。しかも、人材不足の時の求人だったので、高校生にしては時給が少し高い。店も徒歩圏内だし、文句がなかった。


 ──全く、何が『家賃や生活費を全部バイトして工面してでも転校はしない』だ。よく言えたもんだ。できるわけねーっての……。


 俺は目を瞑りながら、ぼんやりと昨年親と揉めた時の事を思い出した。

 昨年の夏、父の異動が決まった。異動先は福岡だ。おそらく、年齢的にも最後の転勤となる可能性がある──という事は、俺は福岡を基盤にして、人生設計を考えなければいけない、という事だった。

 俺は生まれてこの方、神奈川県内で生きてきた。今住んでいる六ヶ峰は藤澤ふじさわ市だが、元々の実家は鎌蔵かまくら市だった。

 父の転勤はこれまで何度かあったが、いずれも関東圏で、ぎりぎり家から通える範囲だった。その御蔭で俺は転校を免れていたのだ。

 ただ、高校生になって半年と経たないうちに父の異動が決まって、急遽『福岡に一緒に来い』である。さすがに受け入れられたものではなかった。

 これまで反抗期らしい反抗期はなかったのだが、ここで初めて俺は親に猛反発した。絶対にそんなところには行かない、俺は福岡を基盤に人生設計を見直すなんてごめんだ、と一歩も譲らなかったのだ。

 親は大学進学の時にこっちの大学を受験して戻ってくればいい、と説得を試みたが、俺は頑として首を縦には振らなかった。

 自分が生まれて生活してきた場所を捨てて、全く知らない場所で生きていくのはあまりにリスクが高い。

 親は異動と言っても、勤務地が変わるだけで、所属する組織の母体は同じだ。人間関係は一新されるかもしれないが、その組織での評価や人望、繋がりは引き継がれる。

 しかし、高校生の転校はそうではない。所属する組織も、友達も、全部ゼロの状態になる。高校入学と同時ならまだマシだが、一年の二学期から転入だなんて、冗談じゃない。そのタイミングで転校して環境に馴染めるわけがないのだ。

 最初はただ、俺は地元愛が強いのかな、と思っていた。実際そういうスタンスで親と揉めていたと思う。

 でも、本当は……怖かったのだ。自分の意思とは無関係に、これまでの自分が全く通用しない場所に放り込まれるのが、ただただ怖かったのである。

 俺も引かなかったが、親父も親父で引かなかった。まだ高校生のお前にひとり暮らしなんてさせれるか、生活なんてできるわけがない、と飽く事なく同じ戯言を繰り返した。

 ここで普通なら、『じゃあ親父だけ単身赴任で母子はこっちで残れば良いじゃないか』という話にもなるだろう。

 しかし、この糞親父は愛妻家なのもあって、自分が母さんと離れるという選択肢はなかった。更に言うと、親父は俺よりも家事その他生活能力が遥かに劣るので──米の炊き方どころか風呂のつけ方すらわからない──どのみち親父の単身赴任は不可能だった。

 話合いはずっと平行線のままだった。

 終盤は毎晩怒鳴り合いになっていたと思う。その時に俺が言った言葉が、さっきの『家賃や生活費を全部バイトして工面してでも転校はしない』だった。

 終盤は親父も頭に血が上っていたのだろう。俺に仕送りする金がない、生活を保障できないから福岡に来い、と言ってきたので、『金の問題なら俺が全部工面すりゃいいだろ!』と啖呵を切ったのだ。生活費の仕送りを理由にしていた親父は、こう返されてはぐうの音も出ない。

 話の流れが変わったのは、この時だった。俺がそれを言った時──ずっと静観していた母さんが、何と俺の肩を持ってくれたのである。

 唐突に『この子にそんな思いをさせるなら、神奈川に残って私が働きます』と親父に言い放ったのだ。うちはどちらかと言うと亭主関白ので、母さんが親父に意見したのは驚きだった。

 そうなると、一気に立場が弱くなるのは親父の方だ。自分一人では家事のの字もできない男である。愛妻家でもあるし、母さんが福岡に来ないという選択肢もなかっただろう。まさかの腹心からの裏切りに、親父は見事に折れた。

 結局母さんに福岡に来てもらう代わりに、俺のひとり暮らしも認められた。もちろん、成績が著しく下がったり、学校の出席状態が著しく悪くなったりすれば転校させる、という条件は付いてはいるが、それはこっちに残る以上は当たり前の事だと思っている。朝に弱いのが難点なのだけれど、まあ何とかするしかない。

 この時親父が白状したのだが、どうやら金の問題ではなかったらしい。実際のところは、家賃と生活費の仕送りも可能だったのである。心配だったというのもあるだろうし、子供を服従させたい、という親の意地もあったのだろう。

 母さんは母さんで親父のそういったところを見抜いた上で、行動を起こしたそうだ。


『お金を理由にし出したら、私がこっちに残るって言ってやろうと思ってたのよ』


 母さんは後日、俺にそう言った。

 母さんももちろんうちの家計の事は知っている。仕送りができない状態ではない事も知っていた。

 それなのにお金を理由にするのは、親としては禁じ手・卑怯である、というのが母さんの考えだった。お金を理由にされると子供は何も言えなくなるからだ。それは対話の放棄であり、力で暴力的に服従させているのと同じ、と彼女は言っていた。

 この時、全くどうして母さんはあんな糞親父なんかと結婚したのだろうか、と首を傾げたものだった。明らかに母さんの教養と親父のそれが釣り合っていない。

 ただ、もしかすると──普段自由に泳いでいる様に見えた親父は、本当のところはだけで、裏で母さんがずっと舵を取っていたのかもしれない。何となくそんな事を思わされた瞬間でもあった。

 ちなみに、このあたりの転校引っ越し騒動については、全て祈織にも話してある。

 いざ付き合ってみると、その男はひとり暮らしでした、というのでは、一体どんな家庭環境なのだろう、と不安にさせてしまうと思ったからだ。

 彼女がお弁当を作ってくれたり、俺の遅刻を気にしてわざわざ朝に起こしに来てくれるのは、こういった事情を知っているからなのである。今のところ、祈織の御蔭で遅刻は大分防げているし、食生活もかなり安定している。祈織の方に足を向けて眠れない程、もう頭が上がらないのだ。


 ──あれ? もしかして、これって……親父と一緒なんじゃ?


 何となく今の親父と母さんの関係が、俺と祈織の関係の延長線上にある気がしてならない。


 ──まさか、な……?


 何となく祈織を思い浮かべてみるも、彼女になら操られても良いかと思っている自分がいた。

 そしてきっと、それは親父も同じなのかもしれないと思うと、親子だなぁとも思うのだった。


 ──そう言えば、今日は店に祈織が来るんだっけか……ミスれないなぁ。


 彼女の事を思い浮かべていると、それだけで頬が緩んでしまう。そんな自分に呆れながら、意識を睡魔に預けた。

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