次元解放〜ナオの物語〜

kei

第1章

第1話 夢

“ハニートラップ”


「絶対ヤバいやつ」と同義語の解釈が、辰巳たつみナオの脳裏に立った。


(ヤバい、ヤバい、絶対ヤバい…)


 ナオは今、ニートだ。

 職なし、家なしのうえに、女に弱すぎて信用もない。…にも関わらず、今、高級ホテルの最上階で、幼なじみの黒髪美人・伽奈かなに押し倒されている。


「好きなの…」


 伽奈は潤んだ瞳を、まっすぐナオに向けて口にした。


 ほんの30秒前、ナオは走って逃げようとした。が、先回りした伽奈にかなわず、焦って転倒。起き上がろうとしたところ、ホテルの上質なカーペットに押し倒された。


 ナオの脳内はパニックを起こしていた。ハニートラップであることは分かる。ここで流されては、おしまいだ。


 しかし、伽奈がサックスブルーのフレアスカートの下、太ももでナオの脚をがっちりガードし、身動きが取れない。


「…」

「聞かせて? ナオの気持ち。本当は私をどう思ってる?」


 伽奈は、至近距離に顔を寄せて聞いた。

 本音を言えば、可愛すぎて、動悸・息切れ・めまいがしている。


 吸い込まれそうな大きな黒目で、上目遣いされ、ふにっとした太もももお尻も密着してるうえに、胸まで触れそうな距離にあってはたまらない。


「…あ~、あのさ。30手前までくると、そういうこと口にするって、すっげぇ恥ずかしいんだよ? 知ってる?」


 ナオは、決定的な言葉をかわすために、愛想笑いをうかべて言った。


「そんなこと知らないわ。私のこと、好き?」


 伽奈からは鋭い返しがきた。


「好き…ってか、あー、好意はあるよ。なんていうかさ、妹みたいに大事って意味で…」

「好きってことでしょう…?」

「…う…」

「うん、じゃなくて。好きなら好きって、ちゃんと言って?」


 伽奈は少しむくれて言った。むくれてても、伽奈はめちゃくちゃ可愛い。確かに惚れてるし、昔から、次元超えてるくらい可愛いと思ってる。けど。けど…。


「あ~のさ…。嫌い、ではない…けど、好きって…」

「私も好き。大好き!」


 伽奈はパッと花のように笑顔で言うと、ナオに有無を言わせず唇を奪った。


「…んぁっ」


 ちゅ、っと小さく音がして、触れ合った伽奈の唇は、柔くて、くらくらした。


「ナオ。好きぃ…」


 伽奈は目をとろんとさせ、ナオの両頬を包んで、さらにキスを重ねてきた。


 ふわっと伽奈から花のような甘い香りがした。あったかくて、ふにっとした感触が気持ちいい。ヤバい。ダメだ。これ以上は。分かってる。でも、惹き込まれて、されるがまま、唇が離せない…。



―――どうしてこうなった?


 こうなることを避けるために、これまでずっと必死で…。必死で、やってきたのに。


 きっかけは…、夢だ。

 あの、昔の夢がトリガーになって、俺を大きな渦へ巻き込んでいったんだ―――



『本当に? 本当にお兄ちゃんは、痛くないの?!』


 ぶかぶかの黒い袴と白い上衣を着て、必死に尋ねた少女がいた。


 弓矢を引く真似事をしていて怪我をした。

 血の滲む小さな腕を、ナオは咄嗟に治療したが、その子は自分の腕ではなくて、ナオの腕のことばかり気にかけていた。


 あれは、いつだったか…。

 痛そうにぼろぼろ涙を流しながら、

『ダメだよ、お兄ちゃんが痛くなるから!』

 首を横に振りながら、俺の能力をひたすら使わせまいとした小さな女の子—。



 辰巳たつみナオはその日、昔の夢をみて目が覚めた。

(何だったかな、あの子の名前。誰も彼も、俺の力を欲して群がってきやがるのに…)

 その夢があまりにリアルで、ナオはしばらく頭がぼんやりしていた。


 視界がハッキリしてきたナオのすぐ左隣では、女が背を向け、ベッドで横になっていた。

 ナオが朝方まで抱きしめていたのは、華奢で色白の、小さな口をした女だった。


 昨夜、コンビニから帰宅する途中の道端で、雨の中傘もささずに、うずくまって泣いていたのを、見かねたナオが部屋に連れてきたのだ。

 泣きはらした彼女は小さな声で、愛香あいかと名乗った。


 ベッド脇、裏返しになった愛香のスマホからは、ひっきりなしに電話がかかってきていた。

 音はないものの、暗がりの中で、わずかなすき間からチカチカと着信を示す光は、一晩中途絶えることがなかった。


 ナオが、そっと愛香の腰に手を回すと、愛香はおおげさなくらい、怯えるように反応した。

 そのあと、ゆっくり顔あげ、心配そうに覗き込むナオの顔を、困ったような、苦しいような顔で見つめていたが、またすぐ、顔を背けてしまった。

 ナオが顔を寄せた背中は柔らかく、少し震えているようだった。


 泣いてる女性を見るのは、苦しい。

 笑っていても、時折そうだけれど…。


 見えない顔に、涙がなければいいと、ナオは思った。


 愛香はしばらく、ナオの手をお腹で抱えるように包んでいたが、その手をシーツの上にそっと戻すと、ベッドから上体を起こした。

 スマホを手に取った愛香は、何度かスクロールしては、無言のまま画面を見つめていた。


 ナオのTシャツは愛香には大きすぎて、丸首の襟から鎖骨から肩近くまではだけていた。ナオはベッド脇のブランケットをとって愛香の肩にかけたが、真顔で画面を見つめたまま、反応は返ってこなかった。


 数分後、観念したように目を伏せて、

「あたし、…かえらなきゃ」

 かすれる声で、愛香は一言つぶやいた。


 薄暗い部屋でも認識できる、愛香の左頬から口元にかけて残る赤紫色のあざが、白い肌に痛々しく浮かんでいた。


 ナオの血筋・辰巳家が古代から受け継ぐ能力は『治癒』であるが、辰巳家当代であるナオでも、このあざは治療できなかった。


「俺、こう見えて医者だからさ。そのあざ、綺麗に治せるよ」

 ナオは昨夜、冗談めかして言ったが、愛香には首を横に振られた。


 優しく微笑んだ、ありがとうのすぐ後で、

「でもいいの、このままで。…治せば、もっと殴られるから」

 と、小さな口で愛香は言った。

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