夏。麦わら帽子。

染谷市太郎

夏。

 夏。姉の娘を預かることになった。


 暑さと湿度が、鬱陶しい日だった。


「あや子」


 名前を呼ぶ。

 子供の視線が、こちらを向く。目は、合わない。

 

 玄関に立つ子供。

 この家に、子供は不釣り合いだった。


 新築の一軒家。大人が住んでいた形跡しかない。

 先日、父が亡くなったため、場所だけは余っていた。 

 子供はうつむきがちに、立っている。


 子供など、どう接すればいいのか。私には正解が見つからない。

 私だって、昔、子供だったはずだ。

 だが、どう育ったのか。具体的な記憶を、即座に浮上させることはできなかった。


 この家に、子供のころの記憶はない。記録も、ない。

 服も、食器も、落書きも、写真も、全てない。全て、流されてしまった。


 じめじめと暑い。水分が飽和した空気。

 思い出してしまう。

 八月の暑さを引きずった九月。


 雨が降った。

 川があふれた。

 茶色い濁流が街を覆った。

 木と、石と、車と、家と、人。全部飲み込んだ。飲み込んで流れた。

 流されてしまった。


 私の手は、ちっぽけだった。

 

 ゆっくりと、瞬きを三回する。

 忘れたい記憶は残って。思い出は思い出せない。


 意識を、玄関に立つ子供へ戻す。


「あや子」


 呼べば、子供は黙って付いてきた。


 子供に部屋を与える。

 必要最低限を整えた、簡素な部屋。

 どんなものが必要なのか、分からなかった。

 子供は小さな荷物を部屋の隅に置く。


 ぱちんっと、体育館の隅で暮らした記憶が、脳を横断した。


 ぎゅっと、目をつむり、こめかみを抑える。

 子供がこちらをうかがっている。


 接し方が分からない。

 適切な言葉が分からない。

 沈黙が長引くほど、あいまいな空気が重しに変わる。

 こんな場所に、長居はできなかった。


 私は黙って、部屋を後にした。


 子供など手に余る。

 がらんどうの私には。

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