第11話 【雑音心臓とエビフライ】


僕の心臓に聴診器を当てると、雑音が聴こえるらしい。


直接耳で聴いた事はないからどんな音かはわからない。


心臓弁膜症。


心臓の弁が馬鹿になってて、静脈と動脈が混ざり、血液がうまく循環しない。


そんな不安定な音が鳴る。


命に危険がある病気だと診断されて、生まれてすぐに大学病院に入院した。


その時期の記憶はほとんどない。


ただなぜかはっきりと憶えている出来事がいくつかある。


面会に来た母親が帰った夜、小児病棟の廊下の窓に張りつき、夜景を眺めながら、走り去る電車を見つけて大泣きした。


そして母親不在の不安と苛立ちで眠れず、隣のベッドで寝ている同じ病気の子の腕を強く噛んだ。


そんな記憶がある。


母親に会いたくて、病院から脱走しようとした記憶もある。


みんなで過ごすベビールームから廊下へ出て、知らない大人と一緒にエレベーターに乗った。


小さい僕にとって、大学病院は恐ろしく広い迷路のようだった。


病院の外にはまだ一度も出た事がない。


とにかく一番下の階まで行けば外に出られると思った。


大学病院の廊下には赤、青、緑、黄色、白の五色のラインが引いてあった。


どこに行くのかわからないけど、なんとなく青いラインを辿っていった。


全面ガラス張りの窓の向こうから日の光が燦々と降り注いでいた。


そこから一歩出れば外の世界。


でも出口が見つからない。


白衣を着た人たちを見かける度に、連れ戻される気がしたからすぐに隠れた。


ラインを辿り、階段を見つけたら、どんどん下の階に降りた。


全面ガラス張りの窓の外に花が咲いていた。


廊下を回って外に出られそうな場所を探した。


そしてようやく扉を見つけて外に出た。


そこは大学病院の中庭だった。


花を植えた花壇と、水が流れている池とベンチがある。


「ここで何してるの?」


中庭をうろうろしていたら、白衣を着ている人に声をかけられた。


「一人?」


頷いたら、元の病棟に連れ戻された。


大学病院には何歳くらいまで入院していたのか正確にはわからない。


それから年に一回、春休みになると必ず大学病院へ検診に行った。


春休みの病院は人がいっぱいだった。


検診は半日くらいかかる。


祖母を一人だけ家に残し、朝早くから車に乗って家族みんなで行く。


兄と妹は、家族でのお出かけだから、いつもはしゃいでいる。


検診が終わったらみんなでご飯を食べて、デパートで買い物したり、どこかのイベントを観に行ったりする。


僕は午前中いっぱい精密検査を受けるから、朝から一人緊張していて、大学病院に着くと、病人である事を過剰に意識して、ずっと大人しくしている。


兄と妹は父親と一緒に病院内を散策して、適当に時間を潰す。


僕と母親は検診を待つ長い列に並んで待った。


待合室は自分と同じ病気の子供と親で溢れていて、とにかく待ち時間が長い。


待合室の絵本や玩具で遊んで時間を潰してもすぐに飽きる。


僕も兄や妹と一緒に病院内を散策したかったけど、いつ呼ばれるか分からないので、検査が終わるまでは待合室を離れる事が出来ない。


たまに散策に飽きた兄と妹が待合室に来て、「検査終わった?」と急かして来る。


急かされる度に、「僕の検査がなければ、丸一日家族で楽しい場所へ行って遊べるのにな」と、申し訳ない気持ちになった。


ようやく検査室に呼ばれ、身体にいろんな器具をつけられると、まるで改造人間にでもなったような気がして、鬱屈として来る。


先生も両親も重い病気だとは言うけど、この年に一回の検査がなければ、僕自身がそれを実感する事はない。


激しい運動をしたり、興奮したりすると多少心臓に負担がかかる。


でも生まれた時からそれが当たり前の状態になると、自分では何が大変なのかよくわからない。


たまに心臓が誰かに掴まれるような圧迫感を覚えるような時もあるけど、すぐに治まるし、意識を失って倒れたりした事もない。


検査さえなかったら、僕自身は僕が心臓の病気である事など意識しなくて済む。


もう毎年こんな大袈裟な検査しなくてもいいでしょ?


そう思っても、先生や両親は「治らない病気だから、毎年一回は念のために検査が必要だ」と、僕を病人扱いする。


だから僕はこの日だけ、検査が終わるまでちゃんと病人でいないといけない。


大人しく具合が悪そうな顔して、憂鬱でいなければいけない。


そして両親に僕を病気で産んだ事を後悔させ、罪の意識を植え付けないといけない。


両親は両親でこの日は僕に過剰に気を遣い、献身的に振る舞う事で、その後悔と罪の意識を払拭する。


そういう家族劇を毎年一回やっている。


この日は兄と妹のワガママよりも、僕のワガママが最優先される。


憂鬱な検査を無事に終えたら、両親は僕がお昼に食べたい物を聞き、行きたい場所に連れていってくれる。


「やっと終わったな、何食べたい?」


全ての検査が終わるのは、だいたいいつも午後の1時を過ぎたくらいで、みんな腹が減っている。


大学病院の中には、売店や喫茶店やレストランもある。


兄と妹は病院で過ごす時間に飽き飽きしているから、「外で美味しい物食べたい!」と騒ぎ出すけど、僕はそれを遮って「また病院のレストランのエビフライがいい!」と、両親の手を引っ張ってレストランに向かう。


タルタルソースがかかったエビフライ。


母親が作るエビフライはそんなに好きではなかったけど、僕は大学病院のレストランにあるこのエビフライが大好物だった。


検査が終わると、解放感で気持ちがはしゃぎ、みんながメニューを見ながら何を食べるか迷っている間、王様のように椅子にふんぞり返って「早く決めて!」と、両親と兄妹をわざと急かす。


僕がここでワガママを言わないと、両親はもっと気を遣うし心配する。


そんな気持ちでほぼ毎年この大学病院でタルタルソースのエビフライを食べた。


でも高校くらいに1人で検査に行くようになってからは、まったく食べなくなった。


地元を離れてからは検査にも行かなくなった。


検査しても治らないなら行かなくても変わらない。


両親も兄妹も、いつからか僕の病気の事にはまったく触れなくなった。


たぶん忘れている。


健康診断の問診で聴診器から雑音が聞こえて来ない限り、僕自身も忘れている。


でもタルタルソースのエビフライを食べるとすぐに思い出す。


だから好きだけどあまり食べなくなった。

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