さんじゅーよ、んっ
「秋田ー! 迎えに来たよー!」
ぶんぶんと手を振る、藩宮さん。その一方で、玄関先で明らかに不機嫌を隠さない花。対比的な二人を見るだけで、胃が痛い。
ついにきてしまった、家庭科校外実習、当日――。
この実習の目的は、保育や育児に触れること。体験を通して社会的な課題と向き合い、少子高齢化社会における自分なりの現段階の答えを導き出すこと。
お題目は立派だが、家庭科担当、凉野月子先生をねらう学年主任の邪な思惑に踊らされている気がする。
でも、そこは産休代理ながら、スマートにフォローしてくれた夏目先生が頼もしかった。
――火花のバカが、のらりくらりで家庭訪問に応じなかったからね。今回は徹底的にやるよ!
ふんすと鼻息荒く、夏目先生はそんなことを言う。
うん、生徒にバカはないよね。そこは、ちょっと冷静になろうか。ただ、本当に夏目先生には感謝をしている。校外実習の組み分けが最悪だった。火花チーム、総勢15名が花園保育園に押しかける形になったのだ。どう考えたって、迷惑しかない。
そこから夏目先生のジャッジが入り、湊も花園保育園へ。そして、俺と藩宮さんと彩翔は、
当初は俺一人が火花の保育園に割り振られる予定だから、どうしようかと思っていたから。俺はほっと胸を撫で下ろ――す、余裕はないらしい。見るからにますます、花が不機嫌になっていく。
「あ、あの……花さ、ん?」
「しゅー君のえっち!」
言うに事欠いて、いきなり冤罪過ぎませんか?
「なんで、だよ!?」
「朝から鼻の下のばして、本当にえっち。変態っ。スケベデビル、エロシャークっ」
そのネーミングを正式採用にするの、本当に止めてくれない?
「へぇ……秋田も男の子だね。私でも意識しちゃう感じ?」
藩宮さんが――ニッと嬉しそうに笑むから、ますます花が不機嫌になっていく。藩宮さん、ワザと言ってない?
「お兄ちゃん、ドコかへお出かけ?」
「がっこうに決まってるよ、観月ちゃん」
「あぁぁぁっ! まだプレイルームから出ちゃダメっ! 日勤の
観月ちゃんと栞ちゃん。そして早番の守田先生、早朝保育――そして延長保育のお馴染みのメンバーだった。朝からあのパワーはキつい。いつもは登校前まで、俺と花がヘルプに入るのだが、今日は校外実習。どうにもならなかった。
「……しゅー君はね、他の保育園に浮気するんだって」
「ちょっと、言い方がひどくない?!」
「お兄ちゃん、それどういうこと?!」
花の一言は、まるで火に油を注ぐようで。俺、言ったよね? 他の保育園の運営方法を見るチャンスだね、って。これほど、公然とできるスパイ活動、なかなか無いと思うんだけれど。見れば、観月ちゃんが、目を潤ませる。
「あ、あのね……これは、あくまで実習……お勉強だから、ね?」
「ひどいよ、お兄ちゃん! 花圃ちゃん先生とリリィ先生を毒牙をかけたクセに――」
言い方がいちいち酷い!
「リリィって呼ぶなし!」
藩宮さんが苦情を言うが、園長先生退院記念パーティー時の、魔法少女マジカル・リリィのインパクトはすさまじかった。未だに園児達の伝説となっているリリィ。火花に立ち向かった、紅白の大玉転がし作戦すら、リリィの魔法ということになっている。
――そんなワケあるか!
藩宮さんのご意見、ごもっとも。
なお、これをネタにからかうと、本当に藩宮さんに半殺しにされかねないので、俺はお勧めしない。
「私と結婚の約束したじゃない!」
「どういうこと?!」
「それ昨日のおままごとの設定だよね?!」
花、お願いだから、保育園児の言動にいちいち反応しないで。
「子どもは100人産むって、お兄ちゃん言ったもん!」
うん、色々おかしいよね。どうして俺が産む設定になっているのかな? 昆虫の卵じゃないんだから――想像しただけで、気持ち悪くなった。
「観月ちゃん、あんまりお兄さんを困らせたらダメだよ?」
そう助け船を出してくれたのは、栞ちゃんだった。こういう時の栞ちゃんは本当に天使だって思う。
「お兄さん」
栞ちゃんが、にっこり微笑んでそれから俺へ手招きした。内緒のお話――そう言わんばかりに、栞ちゃんは自分の口元に手を添える。
「お兄さん、お勉強頑張ってね」
チュッ。
栞ちゃんに向けて屈めば、頬の暖かい感触が触れ――。
満足そうに、栞ちゃんが微笑んだ。
「はぁぁぁぁっ!」
「なぁぁぁぁっ?!」
「栞ちゃん?!」
上から、花。そして藩宮さん、観月さんの順で、奇声が花園保育園中に響き渡った。
「良いもんっ、良いもんっ」
何故か、観月ちゃんが拗ねる。
「私だって、お兄ちゃんにお布団でトントンしてもらったもん!」
意味不明発言に目を剥くのは、花と藩宮さんだった。
「……しゅー君?!」
「しゅー君、どういうこと?!」
「秋田、こんな小さい子になんてことを――」
「……お昼寝の寝かしつけの話だよね?!」
何の勘違いをしたのやら。最近、花と藩宮さん、朱梨は仲が良い。それは良いことだ。でも、花にいらない知識を植え付けている気もして。手ツンお歳暮様から鉄屑の聖母様にアップデートするの、本当に勘弁してほしい。
――秋田君。その選択、花圃さんは本当に納得してくれるのかしら?
ふと、職員室で話した松竹梅ネットワークの一人、竹さんの声が、脳裏に響いたのだった。
■■■
あの日――職員室で。
言葉を尽くして、納得してもらったと思っていたけれど――今、思えば。花が無理に笑っていた気がする。
「しゅー君? 私は冷蔵庫に食材収めてくるね?」
「ハムがまだあったの、手前に置いてくれる?」
「わかってます〜」
軽くじゃれ合って。最近、そんなやり取りが恒例行事になっていた。
「夫婦かな?」
松さんに呆れられるが、俺は知らんぷりを決め込む。花が俺に兄を見るような感情を持っていることは知っている。だから、勘違いしないように姿勢を正す。
お世話になっている身で、邪な感情は抱けない。まして、花は男性に対して恐怖心がある。ようやく得た信頼関係を、自分の一方的な片想いで台無しにしたくない。
「あのね、婿君」
花奈さんが珍しく、渋い顔を浮かべる。
「校外実習の件は、蹴ってよかったんだぞ?」
「……でも、それだと火花がしつこく花に言い寄ってきませんか?」
今回、懸念した点はソコだ。顔合わせに遅刻したうえで、この件の相談になったらさらに遅くなった。
――受けましょう。
そう言ったのは、俺だ。
――お前だけ、花園保育園でボランティアって、狡くねぇ?
聖母様親衛隊の羨望と嫉妬。そこに火花と火花応援団が絡んだ。
――火花君と聖母様の恋を応援する絶好のタイミングだよね!
少しだけ、耳を澄ませば、こんな会話が聞こえてくる。こいつらを拒絶し続けたら、ロクなことにはならない気がする。どこかでガス抜きは必要なのだ。
花園保育園に火花達が確定。それなら打てる手を打つ。それも
結果論だけれど、花園保育園の実習に、湊もいる。それがこんなに心強いとは。
本当に感謝しかない。
「理由は、お伝えしたと思いますけど?」
「ついでに、
コクンと俺は頷く。向こうがどういうスタンスなのか、知るチャンスだ。
そもそも、こうやってお手伝いをしていながら、俺は保育園経営には、当然だけれど無知。安芸市で7保育園を運営し、県保育連絡協議会の役員を務めるの、火花の母親。真っ向勝負をするには、あまりに分が悪い――それは父さんにも言われたことでもあった。
「理由はもっとも。でも、秋田君。その選択、花圃さんは本当に納得してくれるのかしら?」
竹さんの言葉に、思わず俺は言葉が詰まる。
「騎士が敵地に果敢に攻め込むのは良いわ。でも、虎視眈々と悪の王子が姫を攫おうとしているのが分かっていて、あえて距離を置くのはどうしてでしょうか?」
「い、言い方――」
「今回はウチらがフォローするけどさ。男なら覚悟を決めるんだね。怖がってちゃ、何にも前に進めないよ?」
松さんに言われて、二の句が継げず――口をパクパクさせり。
図星だった。
後ろ指をさされるのは慣れている。最近、俺と花が一緒にいる時間が長い。だから、花まで陰口を言われているのが、どうしても聞こえてくる。本人はまるで頓着していないけれど。
「……それに、ストーカーまがいのヤツも気になるね」
「ストーカー……?」
松さんの言葉に俺は目をパチクリさせた。
「あれ? 気付いてなかったのかい? 朱理坊が花圃を守るように寄り添っていたから、てっきり警戒していたのかと思ったよ」
そう梅さんに言われて――腑に落ちた。
ねっとりとした視線を時々感じていたんだ。
振り向けば誰もいない。
その繰り返しで――。
「まぁ、私ら松竹梅ネットワークが最大の警戒はするさ。でもね、朱理坊」
じっと梅さんが俺を見る。
「変に距離を置こうとするんじゃないよ? 何気にそっちの方が辛いんだからね」
梅さんの言葉が、俺の胸を突き刺す。
でも、俺はいつかココを出る。
花の足枷にはなりたくない。
ただ、あの子が当たり前のように笑ってくれたらそれで――。
そんな、とりとめの無い思考がグルングルンと回る。
あの時の俺は、ただコクコクと頷くことしかできなかった。
■■■
不安そうな花の視線を受けて、我に返る。
思わず、手が伸びる。
気付けば、花の髪を優しく撫でていた。
(バカか、俺――)
花との距離感が近すぎるから。それが当たり前になっていたけれど、不用意に異性の髪を撫でることは、セクハラでしかない。手を引っ込めようとしたら、
まるで、引かれるように――花の髪を撫でてしまう。
「……ちゃんと、帰ってきてくださいね?」
消え入りそうな声で、花が呟く。俺はコクンコクンと頷く。そうか、と今さらながら気付く。花は、保育士さんが離職していくように、
(俺、しっかり花と話していなかった――)
花と、花園保育園にとってプラスになると思って、ずっと行動していたけれど。
「もちろん」
そう微笑んで、彼女の髪を撫でる。
花にとって、俺はやっぱりお兄ちゃんなんだって思う。
それなら、妹にとって頼りになるお兄ちゃんにならないと、って。そう思ったら、少しだけ、気持ちが楽になった気がする。
「帰ったら、夕食を一緒に作ろうね?」
にっこり、ちゃんと笑えた。
燻る想いなら、なんとか胸の奥底に飲み込んで――。
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「あぁぁぁっ! 花圃ちゃん先生ばかりズルい! 観月もー!」
「観月ちゃん、今ジャマしたらお兄さんが悲しむかもね?」
「栞ちゃんは、お兄ちゃんにチューしたから、そんなにヨユーなんだ! ズルだよっ! ズルッ!」
「えへへ。〝せんてひっしょう〟だよね♪」
「観月もお兄ちゃんにチューするっ!」
「こんなに騒いでいても、きっと秋田の耳には届いていないんだよねぇ。やっぱり敵わないなぁ」
「……朝からなにやってんだか」
「まぁ、朱理だもんねぇ」
いつの間にきたのか。
半ば呆れた湊と彩翔の声が、俺の耳に飛びこんできて――。
長い1日が始まる、まるで
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