じゅーろっく
味噌汁をズズズと飲む、そんな音が重なった。
「「「ふーっ」」」
そして、吐息が重なって。どうして、朝の味噌汁ってこんなにほっとするのだろう。今までは、朱梨と二人きりだった。入院中は観月ちゃんがいた。考えてみると、一人で朝食を食べたのは、意外にも昨日ぐらいだったことに驚く。
本当は、今日も同じ
――お兄、私も手伝うよ!
妹に、そう言われたら断りようもない。
――しゅー君、私も手伝いますから!
ぐっとガッツポーズをとる花は、その気持ちだけ受け取りたかったのだが……まぁ、味噌汁に浮かぶ、大きすぎる豆腐程度の被害で、済んだから良しとしよう。
しかし、なんで二丁も使おうと思ったのか。おかげで食い切れない量になったので、スープジャーに詰め込んで、お昼に持っていってもらうことにした。
「本当に美味しい。朝から頭痛で、辛かったので、味噌汁が本当に染み渡ります。でも、体調が悪いワケじゃないのに、なんでかな?」
「「……」」
俺と朱梨は視線を交わす。それは、所謂、二日酔いだ。
品行方正で通る【聖女様】は、すでに飲酒経験済み。そして、当人は知らない、と。
ズズズ。
あぁ、味噌汁が本当に美味い。
「しゅー君」
「ん?」
「学校に行くの、少しだけ待ってくれませんか?」
「へ?」
「今日も早番担当なので。日勤の先生が来るまでは、保育園にいないと、なんですよ」
「……えっと? 花、俺と一緒に登校するつもりなの?」
「ダメですか?」
ぐいっと前に乗り出して、それこそ泣きそうな顔になる。ちょっと、感情に素直すぎないか? クールで冷静。保育に一辺倒な【鉄の聖母様】はドコに行ったのやら――。
「だって、花は海崎と一緒に行っていたろ?」
「はい。どうせなら、しゅー君も一緒に行こうって、朝LINKで湊ちゃんからメッセージが来ました」
「あいつ……自分から、通話を切ったクセに……」
ニマニマ笑顔を浮かべる海崎の顔が目に浮かぶ。
「それに――」
と花が言う。
「しゅー君と、学校に一緒に行きたいって思ってましたから」
ニパッと笑顔を咲かせる。
そんな花を見て、俺は思わず、目が点になる。
ズズズ。
朱梨が、呆れたと言わんばかりの視線を送りつつ、視線を送る。え? 俺、何もしてないよね?
「あ、あのね。花? 俺は、大勢の人がいる所は、苦手で」
この赤髪に、奇異な視線が送られる。もう慣れたと言っても、やはり気持ちの良いものじゃなかった。
「うん」
花がコクンと頷く。
「しゅー君が怖くないように、私が頑張るから」
とんと、自分の胸を叩く。
だから、任せて?
そう、にっこり笑う。
「いや、だからね。そういうことじゃなくて――」
「かほちゃん先生ー! あかりん先生! お兄ちゃんー!」
聞き慣れたギャングの声に、俺の懸命の訴えは、すべて奪われてしまった。
「ちょっと待ちなさい、こっちは園長先生のお宅だから、ダメって、何度言ったら……」
主任の守田先生。
かわいそうに、観月ちゃんに翻弄されて、息が切れ切れである。
「あ、もうこんな時間! 守田先生、ごめんなさい!」
慌てて、立ち上がって。それから、食器を見やる。
片付けを手伝わなくちゃ。そう思っていたのを、ひしひしと感じる。
「大丈夫、こっちは俺がやっておくから――」
そう言いかけた瞬間だった。
弾丸が飛び込むかの如く、俺の下腹部よりちょっと下に、運悪く、観月ちゃんの頭が激突する。思わず、放り投げてしまった食器を、すべてキャッチした朱梨、ナイスだった。
「良い頭突きだぜ」
「それ……ぶつかった張本人が言う台詞じゃないから……な」
悶絶する。痛すぎて、次の言葉が出てこなかった。
■■■
「へぇー。へぇー。へぇー」
海崎がニヤニヤするのを尻目に、俺は学校に急ごうと――して、その手が引っ張られた。
「な?!」
行こうとする力と、引き寄せる力が拮抗すれば、反発するしかないワケで。結果、俺はバランスを崩して、倒れそうになる。
「しゅー君!」
慌てた花が、俺を抱き止めてくれた。
「あ……あの、ありがとう?」
「どういたしまして」
ニッコリ、花が笑う。
なんと言うか、男前に受け止めてくれたな、って思う。こういうトコが、人間関係は距離を置くクセに、男女から人気の理由なんだと思う。思うのだが――。
「そういうことは、保育園でやってくれよ。あぁ、保育園じゃ足りなから、今なのか」
黄島彩翔がニヤニヤしながら、言う。その言葉の意味に気付いたのか、花が顔を赤くして慌てて――離れなかった。
「花?」
「誰に、なんて言われても、しゅー君を突き放すことはしません。私、そう決めましたから」
「え? あ、うん……うん?」
その、友達として近くにいてくれることは有り難いけれど、ちょっと距離が近いから。近すぎるから。でも、花は自分の決意を確認するかのように、なお俺を抱きしめる。
ちょっと、本当に近い。押し当てなくて良いから。本当に、当てなくて良い! 良いけど。その良いじゃない、花、落ち着いて。俺が落ちつかな――。
「昨日は朱理が抱っこしたから、今度は花花ちゃんの番なワケね」
「へ?」
今度は、花が固まる番だった。
「な、な、な、湊ちゃん! 何を言ってるんですか、私はそんな……。なんで、私が見た夢を知ってるんですか。湊ちゃん、エスパーですか?」
あぁ、なるほど。昨日の出来事は、花のなかで「夢」として整理したのか。そりゃ、飲酒して記憶が混濁していたら、そうも思いたくもなる。
「さぁ、ね。仮に夢だとしても、花花ちゃんは、そういう願望があるってコトだもんね」
「ち、違います! 私はただ――」
「ただ?」
「おい、海崎。もう花、いっぱいいっぱいだから、あまりからかわないで――」
「しゅー君は私の大事な人です!」
間髪、入れず花が発した言葉は、通学路を静寂で攫うのに十分だった。
「な、な、な、花、何を言って――」
「な、な、な、な、何も言ってません! ごく当たり前のことしか言ってません! しゅー君は私のお友達で、お兄さんのような存在で! だから、私の大切な人なんです!」
言い切った。むしろ、大きな声で言い切らないで欲しい。
そして、何よりも、だよ……。
海崎。自分で、この話を振っておいて、嘔吐しそうなその顔ヤメろ。
とんとん。
黄島が、海崎の肩を叩いた。
「
「カップルじゃない!」
「カップルじゃありません!」
同時に花と声が重なる。
「「おぉ。仲良しだね」」
「仲良しです!」
花の啖呵だけが響いて――怪訝そうに俺を覗きこんできた。
「へ?」
「なんで、しゅー君は言ってくれないんですか?」
「え?」
「しゅー君は、私と仲良くしたくないんですか?」
仲良しとハモらなかったことに、どうやら聖女様はご立腹らしい。いや、そこまで一緒に声を合わさなくても、と思ってしまうんだけれど。
「いやぁ、本当に仲良しだよね」
ニマニマ笑って、海崎が言う。ヤメて、海崎、それはもう一回、ハモらせられるフラグとしか思えない。
「……それにしても、しゅー君ねぇ。良いじゃん」
黄島までニヤニヤ笑うのだから、本当に手がつけられない。
「良いと思うよ。そろそろさ、朱理も私達を名前で呼んでくれても良いと思うんだけど」
「はぁ?」
冗談にしてもキツい。黄島はともかく、人の彼女を呼び捨てで呼ぶ度胸なんて無い。まして、こいつらが俺と仲良くしたいと思えば思うほど、他の生徒はきっと面白くない。そんな感情を抱いているヤツがいることを俺は知っているのだ。人気者t仲良くなりたい、それは当然の感情だから。
(だから、距離は適度に空けた方が楽なんだって――)
情けないなって思うけれど。
こいつらの好意を、いつも踏みにじるようで申し訳ないけれど。これは、俺の防衛手段だった。
「名前で呼ぶのは良いですけれど、湊ちゃんが【しゅー君】って呼んじゃダメです」
予想外の花の言葉に、俺は目を丸くする。花は俺から、視線を逸らした。
「……だって、心が狭いと思われるかもしれないですけれど。その呼び方は、私だけですから。他の人がそう呼ぶのは、イヤです……」
「あ、あの? 花?」
「イヤなんです」
「ん、うん。うん」
「絶対にイヤなんです」
「うん。うん、分かった。分かったから。それじゃ、一応、
「はい、しゅー君」
にっこり花が笑う。その視線に満幅の信頼を寄せて。もう言い逃れはできないなって思ってしまう。
「じゃ、私のこと、ちゃんと【湊】って呼んでね?」
ニッコリ笑う、海崎にゲンナリしてしまう。
「いや、流石に、それは――」
「あぁ朱理、心配しなくて良いから。俺は
にっこり笑うけれどさ。
「ちなみに私は【あー君】って呼んでいるけれど――理由は、あー君と以下同文で良いかな?」
「むしろ、バカップルの呼び合い方なんか、どうでもいいわ」
俺は吐き捨てるが、むしろ黄島と海崎は、呆れたように俺を見る。
「無自覚というか……」
「鈍感というか……」
「兄妹とかムリがあるからね」
「花花ちゃんに、あんな顔させておいて、ねぇ」
なんだか分からないが、
「あ、あの……。私は、今まで通りで良いですか? その、やっぱり、しゅー君以外の男性は、やっぱり苦手で……」
花のその言葉に、黄島はにっこり笑んでみせる。
「もちろん。ただ、湊の友達はやっぱり、俺も友達って思いたいから。だから、ね。少しずつ、仲良くさせてもらえたら嬉しいかな?」
黄島は、そういうことを照れもなく、ストレートに言えるヤツだ。花も、コクンと頷く。
さり気なく言えて。さり気なく行動できる。そして、彼女に一途。黄島絢翔が、学内で人気が高いのも、頷けるというものだった。
「朱理、ほのぼのしている場合じゃないからね?」
海崎になぜか、睨まれる。
「へ?」
「なにが『へ?』なのかなぁ。名前だよ。私達を名前で呼んでって言ってるんじゃん」
海崎がニヤニヤ笑って、そんなことを言う。
「……別にからかっているワケじゃなくて、さ。バスケ部に朱理が在籍していた時と同じようにね。俺も湊も名前で呼びたいって思ったダケなんだけどね。朱理、ダメかな?」
ため息が漏れた。
だから、そういうことを照れもなく言ってくるから。本当に、黄島にはかなわないって思ってしまう。
別にノスタルジックになったつもりはないけれど。
遠くで、バスケットボールが弾む。そんな音が聞こえた気がした。
登校の時も、バカみたいにバスケットボールを持っていたっけ。
名前。確かに、名前でみんなを呼んでいた。
しゅっ。
バスケットボールが、ゴールに入る。そんな感覚を憶える。気付けば、自然と唇から、声が漏れていた。
「花、彩翔、湊――」
その言葉に、それぞれが呆けたような顔をする。
(言わなければ良かった……)
そう一瞬で後悔する。でも、その刹那だった。
「はいっ」
「おぅ」
「うん」
三人が笑む。心底、嬉しそうに。俺はそんな三人の反応に目を丸くする。つられて笑みが零れ――そうになって、慌ててその感情を飲み込んだ。
火花煌が俺を見ていた。
取り巻きに囲まれながら。
キラキラと、高校生活を満喫しているように見えるのに、どこか仄暗ささえ感じてしまったのは、どうしてか。
決して好意的じゃない視線を、火花は俺に向けて投げ放ってきたのだった。
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