花圃ちゃん先生は、秋田君を見ている


 多分、あの時。

 私、花園花圃は冷静じゃなかったんだ。




「花圃……さ、ん」


 絞り出すような声。

 彼が、女の子慣れしていないのは知っていた。


 精一杯の勇気を振り絞ってくれたことは、彼の表情を見ていたら分かるのに。


 私だって、精一杯の勇気を振り絞って名前を呼んだんだ。だから彼が、ココで有耶無耶にせずに勇気を出してくれた。それが本当に嬉しい。


 父だった人はもういない。

 あの人と秋田君は違う。


 大丈夫。だいじょうぶ。

 何回も心のなかで、呟く。


 こんなに近距離でいても、何も感じない。むしろ暖かい。もっと秋田君とお話がしたい。純粋にそう思え――て?



 ――カ、ホ、さ、ん。

 膝が震える。


 どうして、今になってあの人の声が、耳に飛び込んでくるのだろう。身震いをして、耳を塞ぎたくなる衝動をかろうじて抑えた。


 そうだった。

 生唾を飲み込む。

 あの人は、そういう呼び方をするんだった。


 お酒が入っていない時は「花圃さん」と丁寧に。

 お酒が入ったら「花圃」と――。


 血の気が引いていく。

 秋田君が私の名前を呼ぶのが聞こえる。その声すら、父親アイツと入れ替わる。


(大丈夫、だから)


 ダイジョウブ、ダイジョウブ。

 何度も、そう自分に言い聞かせた。


 目の前にいるのは秋田君だ。


 これからもっと仲良くなりたいと思った、唯一の異性の友人。秋田朱理君。しゅー君と呼ぶことを許してもらった。

 目の前にいるのは、しゅー君だ。あの人じゃない。


「花圃――」


 それなのに呼ばれる声は、酒に呑まれた時の父の声で。


 ビール瓶を投げつけられた時の、あの場面がフラッシュバックしていく。ガラスが割れて。破片が雨のように舞って。頬を傷つける。現実リアルじゃないと分かっているのに、思わず頬に触れてしまう。その瞬間だった。血の気が引いて、立つのも難しい。

 ヘナヘナと座り込めば、あの人が私を見る。


「い、イヤ! こ、来ないで!」


 絶叫にも近い声をあげてしまっていた。


「花花ちゃん!」

「花圃ちゃん先輩!」


 この瞬間、湊ちゃんと朱梨ちゃんの声に、私は救われたのだった。





 気付いたら、自分の部屋のベッドに横になっていて、目をパチクリさせてしまう。いつの間に自分の部屋に帰ったのかも憶えていない。目の前では、朱梨ちゃんが、心配そうに私のことを覗きこんでいた。


「……あ、れ?」

「落ち着いた?」


 朱梨ちゃんが安堵の笑みを溢す。


「あ、お祝いは――」

「もう片付けも終了しました。解散になったから大丈夫ですよ、花圃ちゃん先輩」


 安心させるように、朱梨ちゃんは微笑む。

 そっか……と安堵して、また睡魔に誘われそうになる。でも、なんとか唇を噛みしめて、眠気を追い払った。


「……しゅー君に謝らないと」


 立ちあがろうとして、その手を引っ張られる。朱梨ちゃんは、首を横に振った。明確な拒否を感じて、息を呑む。


「……お兄も花圃ちゃん先輩も、今は無理だって思う」

「で、でも! そんなつもりじゃ、なかったのに――」

「分かるなんて、とても言えないけれど。でも、今じゃないよ。花圃ちゃん先輩、無理をしちゃダメだよ」


 朱梨ちゃん――それから湊ちゃんは、私の事情を知る数少ない人だった。


「花圃ちゃん先輩が、パパが帰国するまで居て良いって、そう言ってくれた時は本当に嬉しかったの。それは本当です」

「そんなの当たり前――」


 だって、ずっと知っている朱梨ちゃんだ。彼女が困っているのなら、何かしてあげたい。そして【しゅー君】のことを誤解していたから。ちゃんと、謝りたい。彼の力になりたい。厚かましいと自分でも思うけれど、そんなことを思ってしまったのだ。


「お兄、きっと拒絶されるのは慣れているって言うから。気にするな、って言うと思うの」


 朱梨ちゃんの言葉に、私は次の言葉が見つからない。

 拒絶されるのが、慣れているという意味が分からない。


 確かに【紅い悪魔レッドデビル】【紅鮫レッドシャーク】と言われているしゅー君だ。彼を外見だけで判断して、そういう目を向ける人は多い。実際、私もその一人だったワケで――。


「でもね、花圃ちゃん先輩。それは傷つかないことと、イコールじゃないから、ね?」


 朱梨ちゃんの言葉を聞いて、愕然としてしまう。

 そういうことか、と思ってしまう。


 私は、しゅー君を拒絶してしまったのか。拒絶した人の一人と思われてしまったのかと、口の中に苦い感情ばかり広がっていく。


 せっかく、仲良くなれたと思ったのに。

 やっと、謝るキッカケを作れたのに。

 全部、台無しにしたのは私だった。





■■■





 集中力が切れたので、お茶でも淹れようと作業を中断した。


 別に、私が壁面製作をする必要はまるでない。でも、保育士の退職、産休での休職、母の入院。人では足りない。そして、大半は主婦。その職員構成を考えれば、無理は要求できない。


 結果、私が壁面や、お便り、行事の計画を担うことが増え、それが当たり前になっている。


 子ども達の笑顔を見れば、報われる。

 それに、あの人の夢ばかり見る。

 それなら、まだ壁面製作をしていた方が気が紛れた。

 台所に行こうとして――廊下に出れば、


「焼きおにぎり?」

 思わず、目を丸くする。


 廊下に、ラップで覆われた皿が鎮座していて。ちょうど、電灯に当たる位置で。否が応でも、視界に飛び込んでくる。


 朱梨ちゃんは、私の部屋で、すーすー寝息をたてて寝ていたのは確認済みだ。

 こんなことを、してくれるのは――。


「しゅー君?」


 がんばれ、と言ってもらった気がして。

 自分のことを見てもらった気がした。


 双眸から熱い感情が溢れてくる。でも、止めることができない。

 私、しゅー君に酷いことをしてしまったのに。


(……都合が良い解釈してる――)


 でも、口いっぱいに頬張って。美味しいって思ってしまった。

 考えてみれば、今日のお祝いのメニューだって。子ども達に振る舞った、ふかし芋も。どれも、本当に美味しかったんだ。


「……美味しい」


 美味しいけれど。もっと、欲が出てしまう。しゅー君と一緒に食べたい。しゅー君の料理をお手伝いしたい。しゅー君に美味しいと伝えたい。そんな欲が生まれてくる。


 きっと私、作業の足手まといになっていたと思う。女の子なら、もっと料理ができた方が良い。どうしても、そう思ってしまう。


 ――料理、なめんな。


 彼の呆れた顔を思い出す。でも、私を否定しないしゅー君につい見惚れてしまったのだ。


 ――聖母様って料理が上手いでしょう? 

 ――保育士さんって憧れるよね。

 ――花園さんの彼氏になる人、本当に幸せだよね。


 耳を塞ぎたくなる言葉ばかり、クラスのみんなは並べてくる。

 私は、それを、ヘラヘラ笑って。ただ曖昧に頷いてみせる。


 全然、嬉しくなかった。


 だから、しゅー君の言葉が嬉しかった。しゅー君と一緒に食べたご飯が、本当に美味しかった。


 ――嬉しかった。


 しゅー君は、聖母様を望まない。

 この焼きおにぎりも、本当に美味しい。


(――いっしょに、一緒に食べたいよ)


 焼きおにぎりが、少ししょっぱいと感じてしまったのは、きっと私のせいで。

 一人で食べることには、慣れていたはずなのに。無性に、しゅー君と食べたい。そんなことを思ってしまったんだ。





■■■




 朝起きたら、ご飯が食卓に並ぶ。


 こんな光景を見る日が来るなんて、思いもしなかった。お母さんの入院前も、私達はパンを囓って。それから現場に出る。それが当たり前だったから。

 唖然としている間も、しゅー君はめまぐるしく動いていた。


「しゅ……秋田君も、一緒にご飯食べられる?」

「あ、ごめん。今、二人のお弁当を作っていたから。先に食べていて。俺は適当に済ますから」


「あ、あの。秋田君、昨日は――」

「ごめん、花園」


 しゅー君の呼びかけに、どうしてか泣きそうになるのをぐっとこらえた。


「朱梨を起こしてきてくれない? あいつ、昔から朝が弱いんだよね。あ、知ってるか」


 苦笑して、そう言う。それから、すぐに彼は作業に没頭してしまう。盗み見して、本当に調理の手際が魔法のようだと思ってしまう。


(お昼、しゅー君のお弁当が食べられるんだ)


 そう思うだけで、頬が緩んでしまう。

 早く、朱梨ちゃんを起こして。それから、しゅー君にちゃんと謝ろう。お話をしよう。


 たくさん、たくさん、お話をするんだ。そんなことを思った――私はすっかりと失念していたんだ。




 朱梨ちゃんの寝起きが、最悪だったことを。






■■■





 分かっていたことなのに、歯がゆい。

 今日は、早番の保育士さんがいない。


 人手がまるで足りないのだ。


 常勤職員は、8時間労働。非常勤は概ね6時間。でも、保育園は7時~19時まで開園している。その19時までに保護者が、迎えに来られないことだってある。当然シフトで勤務を回すが、まるで手が足りていない。結果、私が園長代理として頑張るしかないわけで。

 しゅー君とお話をする時間は、根こそぎ奪われてしまったのだ。


「花圃ちゃん先生? だいじょうぶ?」


 声をかけてきたのは、栞ちゃんで。つい先ほどまで、観月ちゃんと「昨日は楽しかったね」と言い合っていたのに。気付けば、心配そうに、二人が私の方を見上げ、視線を送ってくる。


「え? あ……うん。大丈夫、大丈夫」


 から元気。から笑いを浮かべるが、こういう時の子ども達の洞察力って、本当に鋭いと思う。


「花圃、ごめん、遅くなった。いつも頼って本当にごめんね。ココからは私たちで頑張るから!」


 駆け込むようにやってきたのは、主任の守田穂乃香先生。彼女が出勤したらもう安心、だ。思わず、胸を撫で下ろした。


「「おはようございます!」」


 この間も容赦なく、保護者と園児達がやってくる。でも守田先生とバトンタッチをしたら、しゅー君と学校で話せる時間があるかも。


 そんな一抹の望みは、押し寄せる園児達のパワーに、かき消されてしまった。むしろ、遅刻を心配しないといけない時間になっている。


「はい、おはようございます」


 なんとか、笑顔を作って、言うことができたと思う。


「ところで、花圃ちゃん先生?」

「はい?」


 お母さんが、興味津々と言わんばかりに、私を見やるむ。


「昨日から、高校生の子が来ているんでしょう?」

「あぁ、朱梨ちゃんのお兄ちゃんですね。縁があって、しばらくの間、お手伝いをしてもらうことになったんで」

「その子、確か……【紅い悪魔レツドデビル】って呼ばれているって、聞いたんだけれど――」 


 背筋が凍りついた瞬間だった。

 そして、納得してしまう。


 こういうことなんだ、って思う。好意的な噂ならまだ良い。でも、外見と噂だけで勝手に評価をされたら。それが続いたら、きっとイヤになる。まして、拒否的態度を示されたら、なおさらに。


(でも……私だけは、しゅー君の味方になる)

 ぐっ、と拳を固めた。


 どの口が、って言われるかもしれない。


 一度どころか、二度も彼を裏切ったようなものだ。お前が言うな、って話だ。でも、だからこそ。今度こそしゅー君の味方になる、そう決めたのだ。誰になんと言われても。どう揶揄されても。この友達を悲しませるより、よっぽど良い。もっと強くなる。そう決めたんだ。


「あの子、格好良いわよねぇ」

「え?」


 予想外の言葉に、私は目を丸くした。それから、なぜだろう。胸にチクチクと、突き刺さるような感情が芽生えたのは。


「浮き世離れって言ったら良いのかなぁ? 彼、ハリウッド映画とかに、出演してそうじゃない?」


 しゅー君は、日本人の父親とアイルランド人の母親とのハーフだ。紅い髪と目つき鋭さのイメージが先行しているけれど。


 でも私は、まるで陶磁器の人形のようだと思ってしまう。綺麗で。でも、落としたらすぐに壊れてしまいそうで。


 それが、しゅー君が冷たく思われる理由なんだと思う。でも実際に話せば、優しいし、人に対して配慮ができる。何より、人との距離を測って、それ以上踏み込まない。


 口を開けば、彼女が欲しいとか。視線を向けたかと思えば、人の胸ばかり見る男子とは大違いだと思ってしまう。


 でも、そのしゅー君の良さを一番最初に知ったのは、私だ。私なんだ。どうしても、そう思ってしまう。

 と、見れば観月ちゃんと栞ちゃんが、ニヤニヤしていた。


「あれは、ヤキモチだね」

「あれは、ヤキモチですね」

「は?!」


 いきなり、何を言い出すの? この子達?!


「あぁ。昨日、秋田君と花圃、仲良かったもんねぇ。そういうことか」

「ちが、違う! 守田先生、それは違うから――」


「花圃ちゃん先生は、朱理お兄ちゃんとアッツアツ~」

「アッチッチ~」

「ちが、違う! 違うから!」


「やっき、もち~」

「もち、やっき~」

「アツアツでも、ヤキモチでもないから!」

「ヤキモチ?」


 聞き慣れた声に、思わず振り向く。私は絶望のどん底にたたき落とされた気分だった。なんで、このタイミングで来るの、湊ちゃん?


「おー。相変わらず賑やかだねぇ、君たち」

「アッツアツ~」

「やっき、もち~」


 観月ちゃんと、栞ちゃんに合わせて、子ども達が大合唱。もう、収拾がつかない。いち早く登校した朱梨ちゃんが恨めしい――。


「餅? うんうん、お姉ちゃんはきなこ餅が好きかな?」


 違う、湊ちゃん。そういうことじゃない! そういうことじゃないの!

 でも、ココで絶叫したら負けだ。耐えるの、花圃。私は大人、ココは抑えて――。


「お兄ちゃんと、花圃ちゃん先生で相合い傘〜。ラブ、ちゅっちゅっ」

「ラブ、ちゅー、ぶちゅー」

「しないから! しゅー君とは友達! ただの友達だから!」

「「「しゅー君?」」」


 今度はお母さん達が反応して――私は頭を抱えてしまう。





 悩ましい一日は、まだ始まったばかりだった。

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