じゅーごっ
「
思わず漏れた、その言葉。花園が大きく目を見開いて。そして――俯いた。
やっぱり何も言わなければよかったと、後悔の感情が押し寄せて。そんな感情が沈澱して、さらに積み上がって――口の中がカラカラに乾いて、なんだか苦い。
両手で胸を押えていた、花園が小さく何かを呟く。
「――もう――言――ください――」
その声を聞いて、思わずため息が漏れてしまった。
(……もう言わないでください、か)
予想通りの拒絶。いや、彼女の反応を見ていたら、すぐに分かることじゃないか。花園は、男性に対して忌避感を抱いている。そんな彼女の心情に、俺は土足で入り込んでしまったのだ。
「――君? …………? しゅー君?」
花園の声に目をパチクリさせた。その目が俺を覗きこむ。その距離が近い。もう少しで、鼻と鼻が触れそうなくらい、それくらい二人の間合いは近かった。
「……聞いていましたか?」
「き、聞いてた。うん、ごめん。もう言わない、本当に悪かった――」
「それ絶対、聞いてなかったヤツですよね?」
「……え?」
「もう一回、言ってください、って言ったんですよ」
「え?」
「……そっちじゃないです」
ツンと鼻頭を指ではじかれた。
「名前をもう一回、呼んでくれますか?」
「さっきの、あれ?」
「さっきのあれです」
コクンと花園は容赦なく頷く。
思わず言葉がつまって『花』と呼んでしまった。それをもう一回リクエストする花園の心情がよく分からない。ただ、期待に満ちた感情を、その瞳に宿していのは分かった。
「え、っと……」
「はい」
花園の視線を受け止めながら、俺は小さく息をついた。
拒絶されることには、慣れている。
忌避の視線を向けられることも今さらだ。
また拒絶されたら「花園さん」「秋田君」に戻るだけ。関係が修復できなかったら、今度は黄島の家に転がり込もう。そんなことを思いながら、息を吸って。それから吐いて。観念して、言葉を吐き出した。
「――
決して、大きく声に出したつもりはないのに、プレイルームにやけに反響した。
怖くて、花園の顔が見られない。
沈黙が、長引いて。
耐えられなくなったのは、俺だった。
「……花園?」
視線を向ければ、満面の笑顔で俺を見ている花園が見えた。
「――もう一回」
「へ?」
「だから、もう一回」
「えっと、花?」
「はい。しゅー君」
「うん?」
「もう一回」
「えっと、花?」
「うん。うん」
嬉しそうに花園が頷くので、こっちが面食らってしまう。
「あ、あの、花園――」
途端にぶすっと、頬をふくらます。その言い方は不満だと表情で――体全体で抗議していた。
「だって花園――あ、花は、男に名前を呼ばれるのは、苦手だって……」
だから、そんなに睨むなってば!
「うん、苦手でしたよ」
コクンと頷く。
「だって、あの人を思い出しますから。でも『花』って、呼ばれたら、しゅー君しか頭の中に浮かばなかったんです」
「……そうなんだ」
正直、ほっとして、心の中で胸をなで下ろしたオレだった。
拒絶されることには慣れている。でも、麻痺したワケじゃない。やはり受け入れてもらえたら嬉しいし、安心してしまう。
「しゅー君?」
「花?」
「へへ。呼んだだけです。しゅー君?」
「花?」
「うん、しゅー君」
「花」
「しゅー君」
「花」
「しゅー君っ」
花園――花が、満面の笑顔を咲かせる。学校で見せる、鉄の聖母様でもなくて。保育園で見せた『花圃ちゃん先生』でもなくて。心の底から笑う、そんな花園花圃を見ることができた。そんな気がしたのだ。
「しゅー君」
「ん?」
「しゅー君に聞いて欲しいって思ったんです」
「なにを?」
「……ちょっと、目を閉じていてもらって良いですか?」
意味が分からない。思わず、花に視線を向けて――その目を手のひらで塞がれた。
「絶対、私が良いよって言うまで、目を開けないでください。良いですね? 約束ですからね? 約束を破ったら、絶交ですよ?」
折角、友達になれたのに。そう思うより早く、無意識にコクコクと頷いている俺だった。
俺の思い込みじゃない。
花もそう思ってくれていたのが、本当に嬉しい。黄島や海崎、キャプテン達以外でようやくできた接点。他の人ならどうでも良いと思ってしまうが、花ともっと話をしてみたい。そんな欲求が芽生えている自分に驚く。
素直に、目を閉じた。
瞼の隙間から入り込む、ほんの少しの光を感じながら。
その瞼の裏側。
ついさっき見た、【花】の笑顔が離れない。
外では、風が吹き抜ける音がして。
しゅるっ、と。
まるで衣擦れの音がした。
「……花?」
「ま、まだですからね! 絶対、今、目を開けたらダメですからね!」
「あ、開けてない。開けてないけど、さ。一体なにが――」
「開けたら目潰しします。変態って大声で叫びますから!」
ムチャクチャだった。
しゅる。しゅるっと、そんな音が響いて。
沈黙が、また続く。
花が息を吸い込む、そんな呼吸音がやけに耳をつく。
「良いですよ、ゆっくり目を開けてください。でも、あんまりじっくり見ないでくださいね。そ、その……やっぱり、恥ずかしいので――」
消え入りそうな声で、そう呟く。
瞼をゆっくり開く。
花は背を向けていた。
白い肌が、視界に飛び込んできた。
恥ずかしそうに俯いて、服でを隠しながら。
「バ、バカ、何をして――」
言いかけた言葉が止まる。息が止まりそうになった。
■■■
花の白い背中につけられた、いくつもの丸い痕。それは火傷のようだった。
それから、大きく切ったのか縫合した痕が痛々しく残っていた。
「花、これって――」
「元、父親につけられました。丸いのは、タバコですね。切り傷は、ビール瓶を投げつけられた時です。普段は、優しい人だったんですが、お酒を飲んだら豹変したんですよね。しゅー君、気持ち悪くないですか?」
「は? 言っている意味がわから――」
「気持ち悪いって、言われたんです。プールの授業の時に男子に。あれ以来、プールの授業だけは欠席をさせてもらってます。でも、私自身もそう思うんですよね。こんな背中、気持ち悪いって――しゅー君?」
首だけ、花が振り返る。
ダメだ、うまく見られない。視界が
「……気持ち悪いなんて、そんなこと思わないから」
「しゅー君? 泣いているんですか?」
「泣いていな、い」
ただ、目にホコリが入っただけだ。でも、自分の声が震えてしまうのが、抑えられない。
「……痛かった、だろ?」
「憶えていません。あの時は、私が悪い子だから、父を怒らせたんだろうってぐらいに思っていました。母は、保育園の仕事でいつも帰りが遅かったから、離婚直前まで知らなかったんですよ」
花は言葉を切る。そして、恐る恐る――すがるように、俺に視線を送った。
「しゅー君は気持ち悪い、って思わないんですか?」
「……別に思わない。ただ、花が痛かったんだろうなぁって。ただ、それだけ」
俺は自分のパーカーを脱いで、花にかけた。
「……優しいですよね。知っていましたけど」
「別に優しくなんか、ないから」
「お兄ちゃんがいたら、こんな感じなんでしょうか」
「花がお姉ちゃんじゃなくて?」
「身長だけで、そういうことを言うの、ちょっとデリカシーがないと思います」
「ん。じゃ、俺が兄で」
「はい。ちょっと、泣き虫なお兄ちゃんですけどね」
「うるさいよ」
「お兄ちゃん」
満面の笑顔で、そんなことを言う。鉄の聖母の面影なんて、今ココにはカケラもなくて。寂しがり屋で、でも美味く甘えられない。そんな女の子が一人いるだけだった。
「花。『お兄ちゃん』って、人前で言うの止めてよ? なんか、俺が言わせているみたいじゃんか」
「どうしましょう? それじゃあ、しゅー君なら良いですか?」
「それもダメの方向で」
「何でですか!」
「だって、普段の花を知っている人はビックリするじゃんか。今日の――クラスの反応、ちゃんと見た? 鉄の聖母様のイメージが、ガラガラ崩れ落ちそうな勢いだったからね?」
「勝手にイメージされても困ります。あ、でもそうですね。【紅い悪魔】と【鉄の聖母】は良い組み合わせですよね」
「むしろ【
「良いかも」
ふふふと、花は嬉しそうに笑う。俺は小さく息をついた。
「――とにかく。花と友達になれて嬉しいって思ってるよ。でも、学校ではちょっと控えようね。人の目って面倒くさいし、花に迷惑をかけたくない」
それは今まで、散々体験して、身にしみたことだった。人は先入観で判断する。この友達にまで、そんな想いをさせたくないと、どうしてもそんなことを思ってしまう。
「別に、良いのに。あ、でも親しい人の前なら良いんですよね?」
「別に止めないけど。まぁ、ほどほどにね」
「はい」
くるっと振り返って、ニッコリと笑う。
嬉しくなったのか、花は俺に手をのばそうとして――俺が、青ざめた。
(花……今の状況、分かっている?)
ぽろっと、抱えていた服が落ちて。
目の前に、白い肌が晒されてしまう。
まるで、時が止まったかのようだった。いや、凍りついたと言うべきか。
俺は
「あ――」
「いや、しゅー君、見ないで、見ちゃイヤ、イヤです――」
「あ、いや、え、俺どうしたら――」
「いやぁぁぁぁぁぁ!」
花の叫び声が、断末魔の叫びのように、保育園中に響き渡ったのだった。
■■■
「えっと……二人は、何をしていたのかな?」
ジトっと、
俺と花はプレイルームで、二人そろって正座をさせられていた。何をしていたのかと問われたら、花としっかりお話ができわけだけれど。でも、今は何を言っても、朱梨の逆鱗に触れそうだった。
「……確かに、お兄と花圃ちゃん先輩が進展してくれたらって思ったよ? 思ったけどさ、これはちょっと、ステップを飛ばしすぎなんじゃない?」
「いや、あのさ。これは理由があってさ――」
「やかましい、スケベ」
ほら、やっぱり何を言っても怒るんじゃん。
「あのね、
「お黙りなさい、痴女ちゃん先輩」
花に対しても、容赦がない
「……うぅ、そんな意図はなくて。ただ、しゅー君に、私のことをちゃんとお話がしたくて」
「ものには限度でモノがあるでしょう! お兄だったら、話だけで納得してくれるって。本当にそういうトコ【
「スプラッタなんて、ひどい!」
「スクラップって言ってるでしょう! 花圃ちゃん先輩、そういうトコ、本当にポンコツだよ!」
朱梨、かなりお
「あ、あのさ。
不毛な議論に思えて、思わず口を出す。何にしても、配慮が足りなかった
と、朱梨の目が、大きく見開かれた。
「……お兄、今なんて言ったの?」
「え?」
「今、『はな?』って、言った? それって、花圃ちゃん先輩のこと?」
「あ、うん。しゅー君に呼ばれるのは、全然イヤじゃないと言うか。私に、お兄ちゃんがいたらきっと、しゅー君みたいな感じなんじゃないかなぁ、って思ってしまって」
「お兄、ちょっと、これどういうこと!」
「え? どういうことと言われても――」
「妹の座はゆずらないよ?!」
そこ?
「
「何の安心?! 妹に見下ろされる姉とか、そんなの絶対にイヤだよ!」
「まぁ、年齢も花の方が上だから、年上の妹。年下の姉になるのか」
「お兄! そもそも前提がおかしいからね!」
「じゃあ、友達ってことで。ね、花」
「そうですね、しゅー君」
「えっと……? 仲良くなってくれたらって、そりゃ思っていたけど、思っていたよ? でも、え? え?」
朱梨は目を丸くする。いや、俺もそう思うよ。でも花園が――花も仲良くなりたいとって思ってくれた。その事実がやっぱり、なんど思い返しても嬉しい。そう思うと、やっぱり自然と頬が緩んでしまう。
「……あのね、しゅー君?」
「ん?」
「もう一回、花って呼んでくれますか? 鉄の聖母様とか、そんな呼び名じゃなくて、しゅー君に『花』って呼んで欲しいんです」
満面の笑顔で友達にお願いされたら、断る理由なんかなかった。
「うん」
コクンと花にうなずいて見せる。
「花」
「しゅー君、もう一回」
「花」
「はい。しゅー君」
「うん、花」
「しゅー君」
「はな――」
「い、い、い、……」
プルプルと
「いい加減にしろーっ!」
なぜか、
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