はっち!
「……やっと、終わったー!」
俺はようやく安堵の息を吐いた。
「朱理、お前ねぇ……何やってんの?」
黄島彩翔が苦笑いする。退院日にこの状況、俺だって不本意なのだ。むしろ花園に言って欲しい。
「朱理……私も言いたいんだけどさ、本当に何やっているの?」
と海崎が俺の頬を見やる。思わず自分で頬に触れる。まだ少しだけ腫れていて、触れたらジンジン痛んだ――。
「それは花圃ちゃん先生が、お兄ちゃんにパンティーを――」
「……へ?」
「「違うっ」」
俺と、花園が慌てて観月ちゃんの口を塞ごうとして、お互いの手が重なった。
「「あ」」
今度は、お互いの声が重なって。すぐに離せば良いのに、観月ちゃんが次に何を言い出すのか分からなくて、動けないでいた。
「んー、んー、んー!」
「あ、あの花園……」
「あ、秋田君。これは、その……」
「んー、んー、んー!」
「あ、あれだ。きっと。観月ちゃんは、パーティーって、言いたかったんだよな。な、花園?」
「ん。そうそう! きっと、そう! そうです!」
「んー! んー! んー!」
「……あのさ、お兄? 花圃ちゃん先輩? 多分、観月ちゃん、息が苦しいんじゃない……?」
見れば、観月ちゃんの魂が抜けかかっていた。
「ちょ、ちょっと、観月ちゃん? ごめん!」
「ごめん、え? 観月ちゃん、そんなつもりじゃなくて――」
「お兄ちゃんも花圃ちゃん先生も、観月のことをコロすつもりですかー!? 手で塞いだまま、イチャつくとか、ヨソでやってー!」
「「イチャついてないっっ!」」
またしても、花園と俺の声が重なって――黄島と、海崎が目を丸くする。
「花園、配膳するから手伝って」
「はいっ」
コクンと花園は頷いて、俺の後を追いかけてきた。
「お兄、私も手伝うから!」
「私もー!」
便乗しようとする、観月ちゃん――そして栞ちゃんに俺は頭痛を覚えた。この子に限らずだが、好き放題お手伝いをさせてロクなことにならないのは、すでに体験済みだ。そして待ってと言って待ってくれる子ではないのは重々承知している。先手必勝、こちらから先回りするに限る。
「それじゃ、テーブルを拭くのが観月ちゃんで、箸を並べるのが、栞ちゃんでOK?」
「えー、お兄ちゃん、私達を舐めすぎです。舐め回しすぎです。子どもだと思って、甘く見過ぎです。そんな簡単な任務、SS級冒険者に依頼するなど、言語道断です!」
「今後、同伴です!」
ビシッと、二人そろって、指先を突きつける。うん、何から突っ込んだら良いの? 教えて、偉い人?
「あ、あのね、観月ちゃん、ちょっと聞いてくれる? それから栞ちゃんも」
クスッと花園が微笑んだ。
「朱理お兄ちゃんは、二人だったらきっと完璧にお手伝いをこなしてくれるって信じてくれたんだと思うよ? それにお手伝い、これだけじゃないもんね?」
花園が俺を見て言う。俺は、コクコク、頷くことしかできなかった。そんな風に笑えるじゃんか。何が鉄の聖母だよ、って思う。つい時間を忘れ見惚れてしまう、そんな魅力的な女の子が、目の前にいた。
「朱理お兄ちゃん!」
ビシッと、またしても観月ちゃんが、俺を指さす。花園に見惚れていたことを悟られた――頬が自然と熱くなる。今日は本当にペースをかき回される日だって思う。
「私に惚れたら、ヤケドするぜー?」
キャッキャッ、観月ちゃんが笑う。俺はゲンナリと、肩を落とした。この子達のパワーについていけない、俺だった。
「え? え? これ、朱理と花花ちゃんよね? え? だって、花花ちゃん、男の人が苦手で……え? この短時間で、キミ達、いったい何があったの――?」
海崎が絶句する声が聞こえる。
何があったといわれても……あれからも、俺は散々だったとしか言い様がなかった。
■■■
「とりあえず、唐揚げは俺がやるから、花園はシチューの材料でも用意してもらおうかな? 黄島と海崎だけとは、とても思えない。腹にたまるヤツも用意しておかないと……」
「へ? でも、ルーなんか、ありませんよ?」
「薄力粉あるじゃんか。うちは、ホワイトソースから作るのが主だったからさ」
「ホワイトソース? 作るの?」
花園が目をパチクリさせる。多少、時間はかかるが、そこまで大変なモノでもない。
「……花園ってさ、料理をしたことは?」
「調理実習で、少々」
「却下。家では?」
「うぅ……。秋田君が怖い。秋田君の鬼、スケベ、エッチ!」
「あ、あれは――さっきのことは謝っただろう!」
「もう忘れるって言ったのに、やっぱり憶えてる!」
花園にのぞき込まれて、思わず忘れようとした映像が、瞼の裏に焼き付いてしまう。俺だって男なのだ。女の子のそういうことい興味がないワケじゃない。でも、あからさまにそういう目で、
「だから、ごめんって――」
目をそらした俺をさらにのぞき込むのだから、鉄の聖母様は性根がワルい。だから、お前、距離が近いんだって――。
そっぽ向こうとした俺をさらに視線でおいかけて。それから花園は満面の笑みで微笑んだ。
「……な、なんだよ?」
「秋田君って、紳士だなぁって思って」
「は?」
「だって、他の男の人って、私を見る時まず胸を見ますから。でも、秋田君は、まずしっかり私の目を見て、話してくれるでしょう? そういう話題の時は目をそらすし。そういう対象として、私を見ないようにしてくれているんだなぁって、思ったんです」
「別にそんな意図はないから――」
そっぽを向いても視線が追いかけてくるので、今は鶏肉を漬け込むことに集中することにした。そうこうしていると、甘い匂いが高まっていく。チンと、まるでベルをならすように、音が鳴る。
オーブンレンジで焼いていたシフォンケーキが、完成したのだ。
「……秋田君って、同時進行でやっちゃうんですね。手際が良いというか、なんというか。まるで魔法みたい――」
花園が心底、感心したように言う。普段、朱梨や悪友達以外で褒められることがなかったので、妙にこそばゆいと思ってしまう。
「……慣れたら、こんなものだって」
「慣れても、私には無理です」
シュンと花園が俯く。聖母様は聖母様で、失敗したことに落ち込んでいたらしい。つい、無意識に、花園の頬を――朱梨に、するように指で突いていた。
「ちょ、ちょっと。秋田君?!」
予想外の行動に面食らって、さらに花園は頬をふくらます。
「わ、私は、朱梨ちゃんじゃないからね!?」
「あれ、俺、そこまで妹のことは話してないよね?」
「……朱梨ちゃんが、教えてくれたんです。お兄ちゃんのことを、ね」
「悪かったな、こんな兄で」
どうせ朱梨のことだ。ロクなことは言っていないに違いない。
「悪いことは言ってないかったですよ? ちゃんとお話を聞いてくれるし、いざという時はすぐに行動してくれるし。ただ、時々、こうやって頬を突いてくるのが、ね――」
ツンと、俺の頬を突く。
「嬉しいんですって。なんか、その気持ち、分かっちゃいました」
ニッコリ、花園がそう微笑んだ。その瞬間だった。
「押すな、押すなって!」
「でも、良い匂い!」
「今度こそ、本当に花圃ちゃん先生に怒られるって」
「でも、おなかすいたよー」
「ぐー」
「口で言ってもダメだし」
「もう、こうなったら突撃あるのみだね。獅子は我が夫も千尋の谷にたたき落とす、だよ☆」
「や、やめ、観月ちゃん、僕を押さないで――」
どた、どた、どたん。まるで、雪崩でも起きたかのように、子ども達が押し流れてきたのだった。
とりあえず、一つ言いたい。
今頃の獅子は、サスペンス劇場顔負けで、
「こっちは、園長先生と園長先生代理のお家だから、来ちゃダメって、言ったよね?」
全員、体育座り。お話を聞くポーズだった。なぜか、俺までさせられている。
「だって、美味しそうな匂いが……」
「花圃ちゃん先生だけ、全部食べるのズルいよ!」
「た、食べません!」
花園が真っ赤になっている。流石に彼女一人で食べるには、多過ぎだって思う。フードファイター花園、有りかもしれない。
「あ、そうか」
観月ちゃんが、ポンと手を打った。
「花圃ちゃん先生は、お兄ちゃんに『あ~ん』して欲しいんだ!」
なんてことを言うの、観月ちゃん?!
「「「「そういうこと?」」」」
「「違うから!」」
それぞれ息がピッタリだった。
「あ、あのさ。花園? この子達もお腹が空いているんじゃないの?」
時刻はまもなく18時。延長保育の時間になって、園児の数は少なくなっている。でも、これだけ全力で遊んでいるのだ。それは、お腹も空くだろうって思う。
「量は多く作っているからさ。多少、シフォンケーキを食べてもらっても良いんじゃ――」
「怖い顔のお兄ちゃん、流石!」
「こらケン君、朱理お兄さんは怖くないよ。笑ったら、とっても可愛いんだからね!」
栞ちゃん、フォローありがとう。その物言い、それはそれで複雑だ。そんな俺の胸中をよそに、子ども達のテンションが上がっていく。
「……ダメですよ」
小さく。でも凜と響く聖母様の言葉に。子ども達の表情はうって変わる。あからさまに、しゅんと落ち込んだのが見てとれた。こういう時の花園は何を言っても、意志を曲げてくれない。それが子ども達を通じて、ひしひしと伝わってくる。
「でもさ、花園――」
「ダメなものはダメなんです、秋田君。保育園でのオヤツは大事な意味があるんです。この子達は、まだ小さいから、普通にご飯食べるだけじゃ栄養が足らないんです。その栄養を補完するものでないとダメだから。それに夕ご飯が家でしっかり食べられるように、そこまで考えないといけません。だから――」
「だったら、栄養価があって、量が適正なら良いの?」
そう言った俺に、花園は目をパチクリさせる。俺はジャガイモを手に取った。
「ふかし芋でも作ろうか?」
■■■
「それでは、我らが秋田朱理の退院を祝って乾杯をしたいと思います。はい、そこの保育園児、ビール缶を持たない。ノンアルコールもダメだからね」
黄島の的確な司会に会場である保育園プレイルームに――特に園児達の声が湧く。
結局、ふかし芋じゃ足りないとダダをこねたチビ達が完全に帰宅ストライキの様相を示した。
お迎えの時間になっても、あの子達の抵抗はまるで衰えることを知らなかったのだから、恐ろしい。あのベテランの守田先生すら、打つ手なし。保育園児のパワーは恐ろしいと思った瞬間だった。阿鼻叫喚てこういう時にも使っていいような気がしてきた。
でも、このまま放ってもおけない。
勝手なことを言っている気がしたが、俺は花園の真似をしてみることにしたのだ。
――お父さんとお母さんの許可が必要なんだけど、さ。今回は、俺の退院祝いらしいんだよね。一緒にお祝いしてくれる?
ぱぁっと、あの子達に笑顔が咲く。今でもそれが目に焼き付いていた。お母さん達まで助かったと言わんばかりに、拍手の渦が巻き起こって。そこからは急ピッチに話は進む。花園保育園保護者会連絡網で、お母さん達が招集され、当初想定していたメニューに
「秋田君、ありがとうございます」
ペコリを花園が頭を下げた。
「へ?」
「私もどうして良いか分からなくなって。でも、勝手なことは言えないし。特に観月ちゃんは、秋田君をお祝いしてあげたい、って。ずっと思っていたみたいだから」
「うん……」
本当は、俺の言葉、そのものが甘やかしだって思う。集団生活を学ぶ場として考えたら、NG以外の何ものでもない。
「みんながお祝いしたいって思ってくれたのは、良かったのかなって思っています。ケーキよりも、ご馳走よりも。みんな、その気持ちがこもっていた気がしましたから」
〈たいーん、おめてどー!〉
ほとんど崩れたような文字で、そんな風に書かれた画用紙。多分、俺を描いてくれたと思われる頭足人のイラスト。延長保育の間に、みんなが描いてくれたと知って、胸が熱くなった。
「それでは、本日の主役を紹介します! 秋田朱理ー!」
と、黄島の声がけに呼応するように、みんなが手拍子を打つ。それから俺の名前が連呼されて。
「しゅり、しゅり、しゅり、しゅり、しゅり!」
いや、それは恥ずかしいから。こそばゆい……。見れば、笑いながら花園まで俺の名前をコールしていた。
「秋田君、そういう顔もするんですね?」
「するよ、メチャクチャ恥ずかしいって――」
「朱理ー!」
いきなり、がばっと、抱きつかれた。いや、その勢い、もはやタックルと言っても良い。
「がっ――キャプテン、何をするの……」
「退院おめでとう! 本当に心配したんだからな! 良かった、本当に良かっ――」
心の底から言ってくれているのが分かって嬉しいが、男に半泣きで泣きつかれても、全然嬉しくない。
「はいはい、キャプテン。邪魔になるから、もろもろは乾杯の後で、ね」
「空君は、まったく。高校生になっても感激屋さんなの、変わらずだよね」
「ちょ、ちょっと――」
バスケ部の面々にあっさりと連れ去られていく。相変わらずだな、とつい笑みが零れた。
と、黄島がまるで指揮者のように、腕を振って――かざした手のひらで、拳を作ってみせる。
まるで、波が引くように声が止まった。
でも。ただ、一人を除いて――。
「朱理――」
凜とした、花園の声が俺の鼓膜を震わせたのだった。
「え?」
俺は目をパチクリさせる。
「あ、え、いや、秋田君、ちが、これは違うからね? その、これ、えっと、あの――」
狼狽している花園を見やりながら、黄島も海崎も、ニヤッと笑っているのが見えた。
「男嫌いの花花ちゃんと何があったのか、後でキッチリ教えてね?」
海崎湊がニヤニヤ笑うが、俺は無視を決め込んだ。いや、正確には言葉にすることができなかったのだ。心臓が早鐘を打つ。言葉にしたくても、言葉にできなくて。花園が男嫌い? 最悪の出会いはさておくとしても。分け隔てなく接してくれる彼女を見れば、意外としか思えない。
でも、って思う。
俺は、花園のことを何も知らないのだ。凍りついたかのように花園の双眸――その瞳から目を離せなくて。一生懸命で、でも不器用で。意外にドジで。鉄の聖母様なんてあだ名が、不釣り合いなくらい彼女は優しくて。今日そう思った。でも、それくらいで。花園のことを、本当に俺は何も知らなくて――。
「グラスの準備は良いですか?」
黄島がグラスを掲げる。
みんな、グラスやコップ、缶をそれぞれ掲げて。
俺も、炭酸飲料が入ったグラスを掲げる。
花園も、同じようにグラスを掲げた。
花園の瞳に、俺が映っている。グラスの中で、小さく泡が弾けるのが見えて。やっぱり、吸い込まれてしまったかのように、目を離すことができなくて。
「乾杯っ!」
一斉に声が重なっていたと思う。でも、周囲の音が無音になってしまったかのように、耳に入ってこない。どこか遠くで唱和している、そんな錯覚すら憶えた。
チン、俺と花園のグラスが鳴った。その音だけが聞こえて――。
――朱理。
未だに花園の声が、俺の鼓膜を震わせ続けていたんだ。
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