Fox Tail

パーシー

序章

 目が覚めた。視線の先には真っ白な天井。起き上がり周りを見渡してみる。

 病院の個室。無機質な部屋には驚くほど物が少ない。

 ベッドの脇にテーブルと椅子があるだけで、そのテーブルの上にさえ何も置かれていない。

 身体につながれている点滴や窓の外の景色に視線を移す。

 窓は少し開いていて、カーテンが風でゆらゆらとゆれている。

 夏の終わりのにおいがした。


 長いこと起き上がることができない日々が続いていた。

 こうして起き上がれるようになったのも、つい先日のこと。


 お医者さんが言うには、本来であったら死んでいたらしい。

 それほど大きな事故に遭ったとも。


 事故の時の記憶はないけど、お医者さん達の会話が聞こえてきてわかった。

 心臓にひどい損傷を負ったこと、長時間に及ぶ大変な手術をしたこと、あとは聞いたこともない難しい言葉がたくさん飛び交っていた。

 まとめると、僕は重傷を負っていたが奇跡的に生き永らえたみたいだった。


 今は退院に向けて経過観察をしている。

 起き上がれるようになってからは、お医者さんや看護師さんの巡回も少なくなっていった。


 さっきお医者さんが来てお話をした。

 あと数回身体の検査をして、問題がなければ退院できるらしい。

 お医者さんはもう少しだから頑張ろうねと、僕に笑顔を向けた。


 僕はうまく笑えなかった。

 それは人見知りだとか、まだ上手く会話ができないとかそういうわけではなく、絶対に退院できないんだろうなと思っていたから。


 だって身体の検査をしたら、絶対に異常が見つかる。

 僕の目の前には、たくさんの死体が広がっているんだから。



「なんで早く言わなかったんだい?」

「だって、なんだか、言うのが怖かったから……」

 予想外に、お医者さんはこんな僕の話を茶化さずに聞いてくれた。

 お医者さんの諭すような言葉に、僕は下を向きながら答える。

 視界の範囲を広げると、見たくないものまで見えてしまうのだ。

 僕はついに、異常なものが視えることをお医者さんに打ち明けた。

 この狭い箱みたいな部屋の中だけでもこんなにも怖い。退院するということは部屋から出るということだ。こんな状態で、箱から抜け出して外の世界に行くことは不安だった。変な子供だと思われないか心配だったけど素直に伝えるしかなかった。


 術後、初めて目が覚めた時は違和感はなかった。

 ベッドから起き上がれなかった僕の世界には天井しかなかったし、それ以外は往診に来るお医者さんや、巡回の看護師さんしかいなかったから。それでもたまに、変な影が視界を蝕むようにちらついていたけど。


 起き上がれるようになって初めて、視界に異物のようなものを確認した。

 異物は人の死体の時もあれば、俗にいう妖怪のような形をしている時もあった。

 それらは見える時もあれば、見えない時もあった。

 それらは明らかに死んでいるのに、生きているかのように動いているから、いつもそこにいるわけではなかった。


 僕はただ、気づかないふりをするのに必死だった。

 声にしたら、反応したら、気づかれると思ったから。

 その動き回る死体や妖怪に気づかれたら、嫌なことが起こると思ったから。


「ふむ、人工中枢真核じんこうちゅうすうしんかくの移植の影響か、それとも生死の境界で脳のチャンネルがおかしな開き方をしたか……」

 お医者さんは何か考え込むようにぶつぶつと呟いていた。

 僕にはお医者さんが何を言っているかぜんぜんわからない。



 次の日、初めて見る知らないお医者さんが僕のところにやってきた。

「こんにちはしゅう君、今日の検査は僕が担当するね」

 身体の線が細く髪も乱れていて頼りなさそうな人だった。顔を見ても何歳かわからない。

「じゃあ、今日の検査に行こうか」

 そう言って、お医者さんは僕を外へ連れ出した。


 病院の中で検査すると思っていたから、外に出るといわれたときはひどく動揺した。ずっと狭い箱に閉じこもっていたから、箱から出るのは怖かった。

僕の心境を知ってか知らずか、お医者さんはどんどん外に向かって歩いていく。僕は下を向きながらそのあとに続いた。

 病院の裏には野原が広がっていた。目の前に映るどこまでも続く野原と広い空。

久々に見る外の世界はとても眩しかった。


でもやっぱり、外の世界にも異物は存在していた。

大きな肉塊のようなものが身体を引きずるように這いまわっている姿や、下半身が透けている人のような妖怪が空を漂っているのが視える。箱の内も外も、僕の見える世界は大して変わらなかった。


「どうだい?何かおかしなものが視えるかい?」

返事をしない僕に対して、お医者さんは続けて語り掛ける。

「君が目にしてる死体や妖怪は、総じて怪異かいいと呼ばれる。君が今まで目にしてきたものは意思の疎通もできない、下級のモノだね。もちろん今目の前にいる怪異も下級の存在だ」


「怪異?」

僕は思わず反応した。このお医者さんは僕の見えているモノが分かるのだ。

「そう、怪しい異物と書いて怪異だ。世界は君の知らない秘密や不思議で溢れている。怪異はその中の一つだね。君は事故がきっかけで視えるようになったけれど、本来人の世界はこういった怪異で溢れているんだよ」

決して怖がる必要はないんだ、とお医者さんは言った。


「事故のせいで僕はおかしくなったから怪異が見えるの?」

「いいや、おかしくなんてなってない。本来の形に戻ったんだ。怪異は昔から人と寄り添って生きてきたんだよ。いつからか視えなくなってしまっただけで、ずっと人間の近くにいたんだ」

医者は野原に座って言葉を続ける。僕もその横に座った。


「怪異は視えないのであればよほど人体に影響のない存在だ。たまに暇つぶしに人を驚かすくらいのことしかしない。特例として、人に危害を加える存在もいるけどね。ただ、視えてしまっているなら話は別だ。気づかれれば怪異は人に干渉してくる。今日はそのための対処法を教えに来たんだよ」

医者は優しい声で僕を見つめる。

「治す方法があるの?」

「治すんじゃなくて、適切な対応、処置方法があるってことだよ。もしかすると治す方法もあるかもしれないけどね。まずはすぐにできる対処法を知るほうが大事だと思う。手段を知っているだけで結果は変わってくるからね。知らないことがあればそれを知ればいいんだ。だが僕も時間がなくてね、明日にはここを発たなくてはならない」

申し訳なさそうにお医者さんは言った。


「基本的には無視をすることだ。それだけでいい。君は、見えるようになってから今日までずっとそうしてきたんだろう? 君はずっと正しい対処法をしていたんだ。だがそれだけじゃ足りない。奇跡的に今日まで見てきた怪異は下級ばかりだが、中には意志をもって接触してくる怪異もいる。その場合は違う対処法が必要だ。ちなみに、君が怪異を視認しているように僕にも怪異が視えているんだよ。意志を持った怪異にも遭ったことがある。びっくりしたかい?」

 お医者さんは何か思い出すかのように遠くを見ている。


「無視を続けていても怪異に気付かれた場合。まずは下級の怪異のパターンだと、逃げるか退治するかのどちらかしかない。意志を持った怪異に気付かれた場合はさらに対話という選択肢が増える。怪異にも善い怪異と悪い怪異がいる。人間と同じだね。僕はいい人だよ、どう見える? ごめん、話を戻そうか」

「逃げるか、戦うか、話し合うってこと?」

「そうそう、理解が早いね。君、実は頭がいいな? まずは逃げることについて話そう。正直にいうと逃げることはオススメしない。逃げても追いかけられるからね。捕まったら結局は戦うしかなくなる。怪異は逃げるモノに容赦しないんだ」

 加えて、怪異のスタミナは無尽蔵だから人じゃ勝てない、ズルいよね。みたいなことをお医者さんは言った。


「次は戦う、だね。今の君には実感がわかないだろうけど、この世界には怪異と戦うことを生業にしている人たちがいるんだ。そういうお仕事があるんだよ。君もこの先の人生で戦うという選択をする時が来るかもしれない。その時になったら必然と戦う意味や理由、意義を知ることになるだろう。残念ながら今の僕ではまだ子供の君に戦う方法は教えられない。できれば、君には平穏な日々が訪れるようにと祈っているよ」

 お医者さんは居住まいを正した。


「最後に話し合い、対話だね。これも基本的にはオススメしない。彼らに人の価値観や倫理観、道徳心はない。対話をしてもまともに言葉の応酬が成立する保証はない。足を止めて怪異と向き合うというのは自殺行為に近いんだ。対話の内容を間違えれば一生憑きまとわれることもある。油断して話していると殺される時もある。信用に足る相手だと騙されて裏切られる場合もある。そもそも人間と生きている世界や見えているもの、存在の次元が根本的に違うんだ。常識が通用しない」

「逃げるのも、戦うのも、話し合うのもダメ?」

 お医者さんが言った内容は、つまるところ全て推奨されないものだった。


「基本は無視をすることだからね。続けていけばそのうち怪異を俯瞰ふかんで視れるようになって、自分の意志で視る視ないを選択できるようになる。まずはその状態を目指そう。君は才能がありそうだから、すぐできるようになるよ」

 お医者さんは立ち上がった。

「怪異と関わってしまうと君の人生は大きく変わってしまう。だが関わっちゃいけないなんてこともない。これは君の人生だ、今日のことをよく覚えておいて、自分で決めて行動するんだ」

「結局どうすればいいの、全然わかんないよ。こんなんじゃ、僕は生きていけないよ」

 立ち去ろうとするお医者さんを、ぼくは弱気な発言で引き留める。


「ダメだよ、君は頭がいい。今のやり取りで身の振り方はだいたい伝わったと僕は思っているけど、違ったかな?」

 だったら僕はがっかりだ、とお医者さんは大げさに肩を落とす。冗談めいて見えるけれど、お医者さんは本気でそう思っているんだろうというのがわかる。これ以上、僕に何も話してくれないんだと悟った。

「僕は君が幸せな人生を送れることを願っているよ、せっかく助かった命だからね。そして君が大人になったらどんな人生だったか、僕に教えてくれると嬉しいかな」

 お医者さんは僕の視線に合わせるかのように、しゃがんで口にした。

 その最後の一言が、僕の生きる意味の一つになった。

 夏の終わりの風が吹いた。


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