第108話 テストが終わるまで邪な感情は捨てなければならない。
「ろーくん、いいんだよ?」
「いや、いいと言われても……」
由佳は俺に笑顔を見せてくれている。多分、俺が今その胸に飛び込んでも、受け入れてくれるだろう。
しかしやはりそれは躊躇われた。もちろん滅茶苦茶飛び込みたいが、ここは我慢するべき所である。
今はテスト期間であるのだから、そういった雑念は捨てるべきだ。
勉強に集中して、テストを乗り越える。それまでは邪な感情は捨てなければならない。そうしなければ、テストに支障が出る気がする。
「ろーくんはお姉ちゃんに甘えたくないの?」
「いや、甘えたいが……」
「今ならぎゅってしてあげるよ?」
「ぎゅっ……」
由佳の提案は、非常に魅力的な提案だ。当然、ぎゅってしてもらいたいに決まっている。
しかし、辛うじて残っている俺の理性がそうしてはならないと告げてきていた。あそこに飛び込んだらもう引き返すことができないと言ってきているのだ。
今色々と起こってしまってはよくない。やはり、ここは我慢するべきだろう。全てはテストが終わってからだ。
「お姉ちゃんはろーくんのものだよ?」
「俺のもの……」
だがよく考えてみれば、俺はこの一週間随分と勉強を頑張っていた。
テスト範囲は概ね一通り勉強できた訳だし、そんなに気負う必要はないのではないだろうか。
そもそも、こんな状態の由佳の元に飛び込まないという方が彼女に失礼にあたるのではないだろうか。
というか、もう付き合う前のように躊躇う必要があるという訳でもないはずだ。俺は由佳の彼氏なのだし、少しくらい甘えたっていいだろう。
「私に魅力がないのかな?」
「……そんな訳がないだろう」
「でも、ろーくんってあんまり私の胸とか見ないし」
「それは、由佳の顔が好きだからと言っているだろう」
「私に興味がないのかなって思うこともあるんだよ?」
「興味しかない」
俺は段々と由佳に近づいていた。彼女の魅力に、俺は抗えなくなっていた。
というか、これは流石に誘われていると考えてもいいのではないだろうか。ここまで言われて何もしないというのは、男が廃るような気がする。
そんな風に言い訳しながら、俺は由佳の前にやって来た。すると彼女は、少し恥ずかしそうにしながらも笑顔を浮かべてくれる。
「……本当にいいのか?」
「いいって何度も言ってるよ?」
「……そうだな」
由佳の前で、俺は固まっていた。正直、とても緊張している。
だが同時にとても楽しみでもあった。俺は由佳にぎゅってしてもらいたいと強く思っている。彼女の温もりや感触を味わいたかった。それがどのような種類の欲望であるのかは、自分でもまだよくわかっていない。
「し、失礼します」
「なんで敬語なの?」
「……なんでだろうな?」
俺は、ゆっくりとした動作で由佳の胸元に顔を近づけた。
甘い香りがする。由佳の匂いがどんどんと近くなっていく。その事実に、俺は我を忘れてしまいそうになっていた。
しかしなんとか踏み止まった。我を忘れてしまったら、由佳を悲しませることに繋がるからだ。
俺はあくまで、由佳を大切にしたいと思っている。だからそういう風に衝動に任せた行動はしたくないのだ。
「あっ……」
「え?」
次の瞬間、由佳のスマホが大きく震え始めた。どうやら、電話がかかってきているらしい。
それによって、俺は何も言えなくなってしまう。由佳の方もそうだったのか、彼女は少し気まずそうな表情をしている。
「出るね?」
「ああ……」
由佳の言葉に、俺はゆっくりと頷いた。なんというか、非常に残念である。
しかし冷静になってから考えてみると、これで良かったのかもしれない。このような時には、そういうことは避けるべきだろう。
少なくともテストが終わるまでは、毅然とした態度を貫くべきなのかもしれない。それでテストで失敗したら、色々と情けない話である訳だし。
「あ、舞? どうかしたの? え? あ、ううん。全然大丈夫……え? 千夜が逃げ出した? あ、ううん。私の所に連絡は来てないよ?」
由佳に電話してきたのは、四条であるようだ。その会話の内容は、少々不穏である。逃げ出したとは、勉強からということだろうか。
それはなんというか、驚くべき行動である。由佳は四条が心配していたが、やはり月宮は相当勉強が嫌いなようだ。
「え? あ、うん。それはそうかもしれないね。千夜ってそういうことには案外気を遣ってくれるタイプだし……え? あ、そうなの? それは……涼音は心配だよね」
「……うん?」
そこで俺は、自分のスマホも震え始めているということに気付いた。
手に取って画面を見てみると、そこには水原の名前が表示されている。どうやら、こちらにも同じ用件の連絡が届いたようだ。
俺は、とりあえず一度深呼吸する。先程までのおかしなテンションで水原と話す訳にはいかないからだ。
これだけ落ち着くことができれば、多分大丈夫だろう。いつも通りの俺で話せるはずだ。
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