第57話 知らない家に辿り着くのはとても難しい。

「……ここか」

『あ、うん。ろーくん、こっちだよ」

「ああ……」


 四条の家付近まで来た俺は、家の前にいる由佳達を見つけて安心する。

 大体の住所はわかったのだが、やはり知らない家に行くのはそれなりに難しかった。こうして無事に辿り着くことができて、本当に良かったと思う。

 家の前には、四条の家でお泊り会をしていた面々の他に竜太もいた。どうやら、あいつも呼び出されたようである。


「わざわざ悪いね、ろーくん」

「いや、なんということはないさ。どうせ暇だったしな」


 俺が近づくと、まず月宮が少し申し訳なさそうな顔をしながら話しかけてきた。

 確かに突然の呼び出しではあったが、これくらい別に問題はない。というか、今の月宮にはそんなことよりも心配するべきことがある。


「小百合さん……月宮のお母さんはまだ来ていないのか?」

「うん、まだだけど……ああ、いやもう来たみたいだね」

「……ああ」


 月宮の視線は、俺が来た方向とは反対側を向いていた。そちらからは、一台の高級そうな車が来ている。恐らく、それが小百合さんが乗っている車なのだろう。

 俺は一歩下がっておく。ここから先は、月宮の戦いだ。俺にできることは、見届けることだけである。


「ろーくん……」

「由佳……」


 すると由佳が俺の隣に来て、ゆっくりと手を握ってきた。少し驚いたが、俺はその手を握り返す。

 そうしている内に、車は家の前に静かに止まった。その中からは、見知った着物姿の女性が下りてくる。


「千夜……」

「お母さん……」


 月宮と小百合さんは、正面から向き合っていた。もう月宮も逃げたりする気はないようだ。


「……一週間ぶりですね」

「……うん。久し振りだね」

「元気でしたか?」

「元気だったよ?」


 一週間ぶりに再会した二人は、どこか間の抜けたような会話をしていた。

 喧嘩して家出したにしては、とても穏やかな会話だ。それだけ、お互いに冷静になれているということなのだろうか。


「あなたは良い友達に恵まれたようですね……それは母親として、嬉しく思います」

「うん。皆いい人だよ? お母さんは、偏見とか持っているかもしれないけど」

「ええ、そうでしたね……そちらの由佳さんと最初に会った時、私はかなり警戒しました。もちろん、それが誤解であることはすぐにわかりましたが」

「……そっか」


 小百合さんの言葉に、由佳は俺の手を握る力を少し強くした。自分の名前が出たために、緊張してしまったのだろう。

 ただ、小百合さんは由佳に悪い印象を抱いている訳ではない。それがわかったからか、由佳の握る力が弱まっていく。


「許嫁の話ですが、あれはなくなりました」

「……相手の人が断ったの?」

「どうして、そのことを知っているのですか?」

「こっちも色々とあったんだ」


 家出の原因となった話になって、二人の空気は一気に変わった。

 ピリピリとした空気が辺りを包む。それは仕方ないことである。二人はそれでぶつかり合ったのだから、これでも抑えている方だといえるだろう。


「千夜お嬢様、少々よろしいでしょうか?」

「……何?」


 そこで、月宮に一人の男性が話しかけた。

 その男性の顔は見たことがあった。彼は、前に月宮が揉めていた男性である。

 なんとなくわかっていたことではあるが、彼は月宮家の使用人的な人であるらしい。運転席から出てきた訳だし、お抱えの運転手といった所だろうか。


「奥様は、お相手の家に直談判に行ったのです」

「その話は……」

「いいえ、奥様。そこはきちんとお嬢様に伝えるべき点です」


 運転手らしき男性の言葉を、小百合さんは止めようとした。

 しかし彼はそれに怯まず言い返した。固い決意があるようだ。


「奥様は、お嬢様との婚約の話をなかったことにして欲しいとお相手の家に行ったのです。自らが持ち掛けた婚約を取り下げるのがどれだけ無礼なことであるかを理解しながらも、それでも頼もうとしていたのです」

「お母さんが……?」

「ええ、それが奥様の決断だったのです。結果的に、あちら側も事情が変わってなかったことにしたかったため話はまとまりましたが、奥様は泥沼を覚悟した上で話をしに行ったのです」

「……」


 月宮は、ゆっくりと顔を母親の方に向ける。それに対して小百合さんは、目をそらす。なんというか、とても気まずそうだ。


「……どうして何も言ってくれないの?」

「……」

「……いつもそうだよね? 私の意見なんてちっとも聞かないで勝手に全部決めて、理由とか事情とか何にも話してくれない」

「……千夜?」


 後ろにいるため、俺には月宮の顔が見えない。

 だが、それでもわかった。地面に落ちていく雫が、彼女の感情を俺達に教えてくれたのだ。


「そうですね……確かに、私はいつも全てを一人で決めていました。あなたの意見も聞かずに、ただ月宮の家の伝統に従って……」

「お母さん……」

「あなたが辛い思いをしていると知っていながら、私は自分のやり方を改められませんでした。私は、弱い人間です」


 そんな月宮に対して、小百合さんはゆっくりとそう言った。

 その口調は、とても優しい。どうやら、小百合さんは今まで厳しい口調だったようだ。それが初めてわかるくらい、彼女の声色は一変した。


「かつて、一人の少女がいました。その少女はずっと、家の方針に疑問を持っていました。でも彼女は母親に逆らおうとはしませんでした。怖かったのです。反発した結果、追い出されたら一人では生きていけないことを少女は理解していたのです」

「……」

「その少女は母親になってから、かつて自分がされたことを自分の娘に繰り返しました。その女性は、それを正しいことだと信じ込んでいたのです。自分に勇気がなかったことから目をそらして……」


 まるで小さな子供に言い聞かせるようなゆっくりとした口調で、小百合さんは語っていた。

 それが誰のことを言っているかなんて考えるまでもない。だから月宮も、敢えて指摘はせず黙っているのだろう。


「ですが彼女の娘は母親と違い、勇気を持っていました。鳥籠の中から抜け出す勇気を持っていたのです。そして母親は理解しました。自分が自分自身の弱い部分から目をそらすために、自分の母と同じことをしていただけに過ぎないのだと……」

「……」

「……もしかしたら、その女性の母親も同じだったのかもしれません。伝統という因果に、きっと私達は囚われてきたのです。でも、あなたは違う。あなたは月宮の家なんてちっぽけな場所に収まる器ではありません。どこまでも羽ばたいていける可能性を秘めているのです」

「お母さん……」


 小百合さんは、ゆっくりと月宮を抱きしめた。そのまま彼女は、愛おしそうに月宮の頭を撫でる。


「……私は、そんなにすごい人間じゃないよ」

「……」

「勇気なんて別にあった訳じゃない。ただ私には……頼りになる友達がいたから」


 小百合さんの言葉に応えるように、月宮もゆっくりと語り始めた。

 その声は明るい。それで彼女がどれだけ友達を大切にしているかというかが理解できた。


「受け止めてくれる人がいたんだよ。だから飛び出せた。絶対大丈夫だってわかっているんだもん。勇気なんてなくたっていくらでも飛び出せるよ。だから、私なんて特別じゃない。頼れる人がいたってだけ……」

「千夜……ごめんなさい。私は……」

「謝らなくていいよ? だってお祖母ちゃん、滅茶苦茶怖いし」

「……ふふっ、あなたという人は……」


 月宮の呆気らかんとした態度に、小百合さんは笑っていた。

 本当に心底楽しそうに笑っている。その笑顔はなんとも、月宮にそっくりだ。


「私の方こそごめん。家を飛び出したりしちゃって……」

「いいえ、それこそ謝る必要がないことです」

「そっか……それじゃあ、今回のことはこれで終わりにしよ?」

「そういう訳には……いえ、そうですね」


 月宮は否定の言葉を口にしようとした小百合さんの唇に、自分の指をあてた。

 多分、今彼女は笑っているだろう。いつもの悪戯っ子のような笑顔で。

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