耽溺

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たんでき

 アルバイト先である古書喫茶から、自宅のアパートへ向かう坂道を下る青年があった。

 街灯により、暗がりが追いやられていく。

 彼は紙袋を右手に垂らしながら、先刻のことを思い出し消沈していた。

「レイ君。魔術を練習するならば、これを読んでみてくれたまえ。初心者にオススメだよ」

 喫茶の主人であるオキが、柔和な笑みとともに紙袋に入った書籍を渡してきた。

 善意を無下にすることはできず、かといって正直に受け取るのも気が引けた。されど出た断りの言葉は弱く、相手の無邪気さに押し切られてしまった。

「魔術なんて、」

 言葉は萎んでいった。

 オキは悪い人ではない。

 レイが魔術を修めていることを察している節がある。だからこそ、魔術を使ってほしいというそこはかとない欲を向ける。

 高校にあがってからアルバイトを始めた。何かと融通してくれているという感謝もある。とても世話になっている人であると感じている。かといって、レイは物わかりの良い青年ではなかった。

 古めかしい外観はこれみよがしにツタが這っている。店内は薄明かりがぼんやりと夢うつつを演出するけれど、中庭を望む窓からは洗濯物がたなびくさまは非日常との境界を想像させるスパイスになっている。持ち家を改装した、如何にも第二の人生を歩んでいますという面構えがその店にはあった。

 喫茶というよりかは好事家の主人がコレクションを展示しているような店。客など常連くらいしか門戸を叩くこともない。

 そのことに胡坐をかいて高校が終われば顔を出して、古書を読む日々に慣れていた。オキは魔術に関連した書籍を多く所有している。

 古いものから、レイが所持することになった『初心者から始める現代魔術』という妙にひょうきんな装丁をした真新しいものまで置かれている。

 昔はこういった幼年向けの指南書はなかったな。とレイは考えた。

 レイには先生がいた。

 レイにとってそれが魔術の全てだった。魔を感じ、操ること。術として行使すること。

 楽しかった。レイは今でも過去を振り返り、その暖かさだけを感じ取ろうと必死になってしまう。だからこそ、オキの欲は理解できた。無下にできない要因だと諦めている。

 オキは魔術を使いたくて仕方がない。けれども才能がないばかりか、魔力を一切内包していないものだから魔術を行使することもできない。本人はまじめに勉強している。おそらく、座学ならば並みの魔術師以上の知識を持っているのではないだろうか。

 彼の努力を知っているからこそ余計に辛くなった。

 見えないように距離を置く。そう行動できるほどレイは強くなかった。

 レイはことのほか、オキという胡散臭い笑顔を張り付けている筋肉質な中年のことを嫌ってはいない。

 人が魔力を持たないことは珍しいのだから、余計に気まずいことになる。

 酷い顔をしている。そう心配してくれたのがオキとの出会いであった。

 レイはあくびを一つ打って空を仰いだ。星空はずいぶんと寂しいものになっている。いつもよりは随分と早い帰宅だった。どうにもオキという主人は芝居じみた行動が好きのようで、仕事が入ったと大仰にのたまい店を閉じることがある。最近は何かと物騒だから早く帰ることを提案されていた。

 夜は嫌いじゃない。逆に言えば、朝は妙に怖い。苦しいことや悲しいことを知るのはいつだって朝陽の後だった。

 星空を眺める。昔はもっと明るかったように思えて寂しい気分になった。十年も立てば見方も立場も、精神だって変わる。

 沈む袋がやけに重く感じられた。

 今更、何さ」

 自嘲を漏らした。そうして、立ち止まった。足元を覗き込んだ。逡巡し目線は泳いだが、結局のところ行き先に向かった。

 アパートに帰ってから何をするべきか。やけに突拍子もないことを考えてみた。夕食はいつも通り賄ですませたのだから、あとは寝るだけだ。勉強をする元気もない。趣味らしい趣味といえばノートに妄想を書き連ねるくらいだ。それだって女々しいだけで本当はやめたいとレイは思っている。

 思うだけで行動しているわけではない。

 レイは坂道を下るが、それはいつもの道とは違う方角に身体を向けてのことだった。


 *


 通学路は閑散としていた。住宅地を抜ける道だ。

 朝はスクールゾーンでもあって自動車だって通行を許可されていない。

 夜中となれば住人だっておいそれと顔を見せることもない世界が伸びている。

 夜に通ることは滅多にない。レイは少しばかり怖気づいた。片側一車線。歩道は緑色に染まり、ガードレールはない。反射板のついたポールが一定の間隔で生えている。目線の切れた先に、レイは向かう気があった。五分とかからない距離を経て、目的地はある。けれども、レイは深呼吸をした。

「消えているさ。だってそうだろ。そういうものだって、本に書いてあった」

 無理くりに笑みを作って足を出す。口は真一文字に閉まった。けれども鼻息は荒い。肩があがった。心臓が妙に張り切っている。レイの顔は薄暗さからか覇気が失せている。

 小さい社がある。何を祀っているのかわからない。けれども誰かが手入れをしているくらいには小奇麗な社。

 その社に門が浮かんでいるのを見つけたのは今日の登校中のことだった。何の変哲もない日常に、小さな魔があった。そこに驚きはない。

 魔は常にある。人間の多くは魔力を持っている。だから、魔物だっている。見えないだけで、そこにあるもの。けれども門は違う。門ができてしまえば、繋がってしまう。放置してしまえば、環境を変える。魔力を吐き出し、魔物が住みやすい世界に貶める。それゆえに、魔術師は存在し、その仕事は門を閉じることだった。

 封印されていたことに気づいたのは全くの偶然であった。レイはその門をしげしげと眺めていたわけではない。登校中の学生らが居たのもあるが、何よりも小ぶりだった。掌に収まりそうなほどに小柄。その姿は朱色の鳥居を模していて、社という存在を前にして実に趣があった。そこに魔力の愛嬌を感じる。きっと源になったのはここを通る学生の感情なのだろうとレイは相貌を崩す余裕があった。けれども、魔力の流れを目ざとく見つけたのは、実にお似合いだといつもより瞳に力が宿っていたからだった。

 門に魔力の奔流があった。とても小さい。けれども確かにあった。

「下手くそ」

 思わず呟いてから、歩を速めた。誰にも見えないものだから、しかし、あまりにも惨めだった。手のひらサイズの魔力門を封印することもできない魔術師が、この町でのうのうと仕事をしているという事実を受け入れたくはなかった。その日の授業の一切が、下手な封印術によって上書きされ、レイは不機嫌な日常を過ごした。

 留飲を下げた一因はアルバイト先の主人であった。つまるところ、陳列されている書籍をいつものように無断で読みふけっていた中で、魔術師は実習として現場で封印術を施すという話に目を通す幸運に出会ったからだった。

 学校、学習塾の普及。幼年期から才能あるものを救い上げる制度が整いつつある。

 担当の魔術師と練習生がペアを組む。あるいは班を組んで行動する。なるほどそれは実に学校の行事らしいとレイは腑に落ちた。それからやっと気を落ち着けることができた。

「大丈夫。当たり前だ。あんな術者が現役なわけがない」

 レイはもはや自分に言い聞かせずにはいられなかった。

 よせばいい。ただ、それは心を締め付けるだけだ。

 決死の覚悟で確認することで、自分の思いは間違っていなかったことを実感したかった。

 解放されたかった。魔術師はやはり常人ではないと安心したかった。時がたてば門は消える。それではダメだった。そんな安心はいらなかった。

 はたして門はあった。朝と変わらずに愛想を振りまくように上下に揺れ動いてもいた。もはや封印術はほつれかかっているといってもよかった。

「なんだよ。それ」

 見せびらかす悪意に気が狂いそうになった。質の悪いいたずらであったのならばどんなに心が平静を保てたかレイにはもはやわからない。脳裏に瞬きが走り、懐かしい声音がレイを刺した。

(ごめんね。私はレイのようになれないの。でも安心して。必ず、私が導いてあげる。レイにはもっと広い世界を見てほしいの)

「やめろ」

 音が口から漏れる。

 指先が震えていた。けれども、動作に澱みはない。習ったことを身体は覚えている。

 魔術師は門を閉じることが大事な役割だから、一番最初に覚える術は大抵が封印術。

(そう。とっても上手。もう、一人前ね……お姉ちゃん、がんばるから。レイにね、立派な魔術師になってほしいから)

 レイの脳裏にこびりついた笑顔が弾けた。

 こんなものが術式であっていいはずはなかった。

(レイは、魔に愛されているね。私は、そうじゃないの。だから、わからない。レイは、何をしているの?知らない、わからないよ)

 術者の施した術式は線を張り巡らせ、色となって造形をなし、魔力を持って具現を散らす。門という事象を損なわせ、そこにあったのは風景であると世界が元に戻る。

 封印された門はやがては溶けて見えなくなる。見える門は開いているのだ。封印されていないのである。

 焦燥と後悔。この先にある結果など、とうにわかっていた。にもかかわらず走ってしまった。あの頃に戻りたいという欲を抑えることができなかった。

 怒りや悲しみ、何よりも苦痛が身体を愛撫する。熱を持って、意志が宿った。

 こんなものが魔術であっていいはずがない。この程度の仕上がりを魔術師の仕事と片付けて良いはずがない。

「どうして、このままで捨て置ける」

 後ろ姿がある。その先に門が見えた。弾む声がノイズとなった。

 ―――何をしている?

 自問が走った。胸中の答えなど意味もないものばかりだった。

 だって。でも。やろう。ヤダ。

 子供のように駄々をこねくり回す胸中を黙らせるかのように、レイの指先が吊り上がるように門に向かった。不思議だった。誰かに支えてもらってようやく腕を伸ばしているように感じられた。

(ごめんね。レイ。ダメなお姉ちゃんで……ごめんね。でも、きっと幸せになれる。してみせる。だからこんなお姉ちゃんを許してね)

 白いキャンバスに素描が表現されるかのように魔力が走った。門は社へと変貌を遂げる。かとおもえば、朝日のように発光した。すると形は溶けて、薄く、重力に耐えきれないとばかりに垂れていった。

 息が上がった。こんな初歩的な術式で場が崩れた。本物の魔術師ならばこんなことにはならない。ぐちゃぐちゃになった脳内に答えはない。ただ、どういった気持ちで魔を放ったかすら覚束ない。めまいがする。歯茎が熱を持つほどに力んでいた。

「何やっているんだ。俺は」

 不快感が頬を伝う。嗚咽が我慢できずに空気を鳴らす。

 魔力の流れがレイの背中を打った。確認するべくもなく、レイは走った。人払いの術式なんて打ってはいない。

 姉との出来事で何かあった気がする。

 吐く息で泣き声を消した。視野はぼやけた。拭ってもすぐにダメになる。レイはどうしようもなく、生きることが分からなくなっていた。ただ走るだけで、その疲労感が今ひとたびの安寧をもたらすだけだった。

 よすがは消えた。そう信じたところでレイは十年もの間、術を磨いてこなかった。楽観する余裕はない。縁とは厄介なことに些細な事柄ですら否応なくすり寄ってくるのである。

 レイは無我夢中で走った。じくじくと腹部が悲鳴をあげる。喉が痛い。身体は挫けた。一生分の運動をした気分になった。無慈悲なまでな誠実さでレイは未熟な身体能力を自覚した。怠惰にかまけた結果を享受しなければならなかった。足音が迫ったところで、もはや逃げる気力はなかった。

 術者は魔物を払う生業でもあるからして、身体は資本。惰眠を貪る高校生の勝てる程度ではない。けれども、言い知れぬ悔しさがレイの呼吸を過度に乱した。

「追いかけてしまってごめんなさい」

 そよぐ風に乗って声音が弾んだ。疲労の欠片も滲まぬ発声に、レイは顔をしかめた。

 女のようでいて芯のある深い発声は男由来か。となれば若い男のようだと目星はついた。

 安堵が身体を包み込み、それから落胆が重荷となってへばりついた。

 魔力の流れを感じさせるほど無防備な様は、下手くそな封印術の当事者であることをレイに告げていた。

 できうるならば振り向きたくはない。無様に呼吸を整えることしかできない自分が惨めだった。

「貴方の魔力を感じて、思わず追いかけてしまいました」

 感情のままに発散した結果がレイを追い詰めている。後先考えない暴走が今の苦行を生んだのだけれど、幸いなことにレイはそこまで考えを巡らせる余地はなかった。声を出すまでの間に、なんとか、平静を装う努力に邁進した。

「で、何」

 吐き出した言葉は弱く、けれどもしゃがれた声は棘があった。結局のところ、レイは振り返らなかった。

 怖い。誰かを貶めたのだという自覚が、レイを縛った。一般人である自分が出しゃばった。あれは実のところ、何か壮大な作戦だったのかもしれない。背後の人物だって、もしかするととてつもない術者で下手くそな演技をしているのかもしれない。

 都合のいい解釈だけは澱みなく生産された。結局のところ、レイは現実からの逃避が実現することを望みながら、けれどもどうしたって無理なことを認めざるを得なかった。

「……ボクに、魔術を教えてくれませんか」

 視界が瞬く。世界が揺れる。息が詰まる。頭がどうにかなりそうだった。

「ボクは、下手くそです。あなたみたいに魔術を扱えない。けれど、だからこそ、ボクはボクを知りたい。魔術を知りたい」

 一体何をもって、そんなことをのたまうのか理解が追い付かない。

 逡巡があった。なぜだろうか。レイにもわからない。けれども言葉にすることへの躊躇があった。

「嫌だ」

 ふてくされた子供のように吐いた捨て台詞。

 レイは引きずるように歩き出す。背中の気配が動くことはなかった。


 ②


 ツカサという魔術師を知ったのは必然だった。

 レイの通う高校に転校生が来たものだから、レイが知ることになっただけである。クラスは違うけれど、ツカサは初日に随分とかわいい男子がやってきたと学校中で明け透けに言いふらされたかと思えば、翌日からは鳴りを潜めた。

 都合の良い話であるけれど、レイにはそれが魔を扱うからだと納得がついた。とはいえレイには認識の阻害を受けていたという実感はない。それは単に出会っていないからだろうとも察した。その出会いがないことに、レイは少しばかり不審を抱いた。

 十日経つうちに、レイの平穏が乱されることはなかった。それどころかずいぶんと気を使っている素振りを感じた。不自然に凝り固まった魔力の流れがあった。意図して体内に魔力を押しとどめていることが手に取るように分かった。

 魔力を隠す術式も存在するし、魔道具だってあるだろう。けれどもそこまで頭が回らないのか何なのか。

 並みの術者でも気づく。彼に術者としての技量はない。哀れすらにじまない。悪あがきも目に余れば不快なだけだ。けれどもどうしてだろうか。レイは散々になじる言葉を胸中に吐き出したが、彼に気をやってしまう。

 術者とは意図して避けるよう行動していたにも拘らず、とレイも思案した。そこに理由を求めるならば、術者として認めたくないという反感か。あるいは、魔力をため込むという行動にストレスを得てしまう性分ゆえか。

 同年代の術者をレイは知らない。いつだって見本は姉だった。年の離れた血の繋がりのない姉。両親という肩書だけの男女がいたからこそ、余計に姉という役割を押し付けられた女性。

 今にして振り返ると依存していたのではないか。そこまで考えてから、今も影響を受けているのだから、結局のところ子供のころから何一つ変わっていないのだという諦観がすり寄ってきていた。

 自分のせいだと思い込んだ子供時代はとうに過ぎ去り、堕落した自分を慰める材料に落ちぶれている。

 自嘲すら生み出されはしなかった。

 ツカサという存在がより一層と勢いを増すようにレイの脳裏を走り回っていた。


 *


 レイは確かにツカサの願いを断った。感情のままに拒絶した。とはいえ、レイは裏切られた気分になった。その気分が余計と気持ち悪さをもたらしていた。自分から拒絶しておいて、何を今更に落ち込んでいるのか。

 魔術を教えてほしいという甘美な誘惑が、レイから理知を奪おうとする。

 あの言葉は本当だったのか。実のところ、疲労にかまけて自分の都合の良い妄想に浸ったのではないか。そこまで考えてから、馬鹿なことをと脳みそを叱咤した。

 けれども引っ込みがつかない。考えることはツカサという男についてだ。

「本当なのか」

 魔術への気持ちがわからない。

 胸が焼ける。気持ち悪さはない。あるのは緊張だった。

 知りたい。知りたくない。どっちつかずが燻っている。火種なんてとうに捨て去ったと思っていたのに、いまだ心の奥底で息をひそめていたのだ。かといって行動する勇気はなかった。

 魔力の流れを感じたことで、ツカサと縁が繋がったことは十日前の逃走劇ではっきりとしている。泰然と構え気負うことなく生活するよう心掛けた。

 時折、下手くそな術式を見かける。お前には無理だろうと言い切ってしまえるくらいの、しかし、並みの術者ならば当然の現場にそれは残っていることだってあった。

 とても苦しい気持ちになった。手法の変化はある。けれども本質の変化がない。どこまでいってもツカサの術式は急いでる。

 何をそんなに急ぐ。

 魔力の流し方が下手。出力も下手、維持も下手。ただ、垂れ流すこと、漂わせることだけはできている。それは集中力が持続していないのだとレイは考えた。だったらじっくりと腰を据えて作業を行えばいい。

 遅ければ良い仕事ができるなんてのたまうつもりはない。だが、これは訓練であるべきではないか。こんな術者を単独で現場に放り込むほどに現役が少ないのか、というおよそ考えにも思わなかった世知辛い想像にすらレイの考えが飛んでしまった。

 ツカサのかかわる門は小さいものばかりだ。魔物があふれだす心配はない。レイですら魔を感じることはできても、魔物だと断定できないほどに希薄なものばかり。現段階では無害といって差し支えない。

 けれども、ツカサという術者の稚拙な術式により門が刺激を受けた時、あるいは変質する可能性を否定できない。そちらのほうがよほどに危険ではないか。そのような判断もつかない。いや、それはもはや周囲の人間の落ち度でもあるのではないか。

「死にたがりか?」

 雑な仕事で魔を刺激してしまえば、食いつかれてしまう。魔とは決してそこにあるだけのものではない。


 *


 古書喫茶の主人であるオキという中年男性は趣味の空間を客商売にしている。この場所で夕暮れから夜にかけてレイは時間をつぶす。

 本棚が大小さまざまにあって、それらから好みの本を探すというコンセプトのようだった。本を探すという行動も楽しみの一つとはオキの言葉であり、本屋を散策するのも趣味の一つであるらしかった。

「レイ君の学校に転校生が来ただろう。ずいぶんと佳麗だというじゃないか。一目拝見してみたいものだと思ったのだがね。どういうわけか、今日に至ってはその噂ばかりで女子学生らからはとんと声が届ないのだから不安になってしまったよ」

 オキは喋ることが好きだ。今は語りかけても都合が良いと目ざとく察している。

 いつもの丸テーブルに座り込んで、興味のない顔をしながら本を眺めているだけと看破されたのだ。とはいえ客もいない十八時過ぎのことである。暇と断言できるくらいにゆとりがある。

 オキという人物に対する慣れがレイにはあった。

「さぁ、自分は見ていないのでなんとも。けれども最近は綺麗だとかかっこいい人はどこにもよく目にするでしょう。そういうもので人が慣れるのも早いのではないですかね」

 レイの返答にオキは気色をちりばめた声音を発した。

「確かにそれもあるだろう。現にレイ君も淡麗なものだよ。鋭敏な目つきだって怜悧さよりも切なさを見出すことができるものさ。その危うさが一層な境界を醸している。常人ならざる気配を幻視させる。常々思っていたけれど、その灰銀と呼んで相違ない美しい総髪からしてずいぶんと黄色い声が姦しいと想像しているのだけれどね。だからこそ、私の城を隠れ家として、実に良い環境となっているのではないかという過大な期待もあるのだけれど。そこのところは如何なものかな」

「別段に、そういうことはないですね」

 幸いなことに認識を阻害する術式を用いたことは記憶に残っていない。

「最近の若人は目が肥えているようだ。実にうらやましいとみるべきか勿体ないと嘆くべきか」

 というような雑談に興じながら、客の来ない時間を過ごす日常を、レイはことさらに悪くないと思っていた。

 カラリと音が鳴る。ドアに備わった鈴の音色は来客の知らせだった。珍しいこともあるものだ。およそ喫茶というから飲食店でもある業態にバイトをしている者とは思えない思考回路を繋いでいるレイであったが、主人であるオキですら、「客!」と声をあげているのだから、一見さんもたまらず踵を返したところでなんら不思議はなかった。

「いらっしゃい。さぁ、わが自慢の城へようこそ。お客人」

 オキはこの発言をシラフでこなすのだから、元は劇団員だったのかもしれないとレイは密かに思っている。

「本を、読みに」

「実に結構。お好きな席へどうぞ。飲食をお望みながらお声がけを。嗚呼、気にしないでくれたまえ。私の城で食事は必ずしも伴うものではないのだから」

 軽妙なオキの言葉が救いだった。少なくともレイは平静を保つことに成功した。

 顔をあげなかったのは意地である。その声音は耳にこびりついている。透き通る発声がレイの心をさざ波だたせた。

 ただの一般客として、あるいは置物としてレイはあった。そもそも夜の喫茶店にわざわざ本を読みに来る高校生があるだろうか。それも一見さんの店にである。

「神堂高校の学生かい」

「はい」

「つまるところ、君は転校生かな?私はこう見えても学生たちとは交遊があってね。過分にして君ほどの男子を一目も視野におさめなかったという事実を否定しておきたくてね」

「……はい。先日、転校してきました」

「噂通りの秀麗だ。わが城を彩る一陣の光風かと錯覚したほどだよ」

 オキの頓珍漢な賛美が、場の緩急に一役買っている。レイは興味を飛ばさぬように気をもんでいるので、もはや読みふけっている素振りだけで今のところ、何を読んでいるのかすら理解が追い付いていない。文字がとにかく滑ってしまっていた。

 ツカサは本を選んだのか、席に着く。丸テーブルにランプが鎮座する木製の代物。そこに付属するレイは緊張していた。

 魔力の繋がりがあるのだから当然の帰結だった。やり過ごすことなど土台無理な話である。

「つけたわけじゃない」

 ツカサはうそぶいた。

 オキは営業モードに入ったと表現できるほど存在感が薄くなっていた。腐っても接客業を営んでいるだけはあるのかもしれないとレイは現実から目を背けようとしてみたが、うまくいく様子はなかった。

 ページを捲る。それを返答と思ったのかツカサは一息入れた。

「ありがとう。上書きをしてくれて」

 苦笑交じりの言葉。

「下手でしょ。ボクの術式」

 自嘲の言葉に諦観をにじませたそれに、レイは不快感を覚えた。けれども、彼の放つ魔力の流れは澱み、そこから発する人としての生気はとてもじゃないが、高校生が発散するものではないと感じられた。少なくとも学校に通う多くの学生は、どこにそこまでの力があるのか不思議なほどに生気に溢れているものだから余計と違和が強い。

「ボクは我原ツカサ」

 レイは嘆息を入れた。

 顔をあげて、ツカサを正面にとらえた。栗色の艶やかな髪がランプの色の光を躍らせる。

 目元の影が、彼の悲鳴を表現しているようだった。

 その顔がレイの記憶を刺激する。

「有馬レイ」

「……ありがとう。有馬君」

 律義な男だという印象があった。と同時に、無理をしている気配が痛々しい。

 ただの自意識過剰ではない。

 溜飲が下がることにわずかな安堵が寄り添った。

「改めて言わせてほしい。魔術を教えてください」

 彼は何を思い、頭を下げるのか。レイにはわからない。ただ、頭を下げるという行為は好きではない。その時の顔色が見えない。それはやはり、レイにとって怖いという気持ちが先行する。

「魔術」

 レイは吐いた言葉を飲み込みたい気分になった。

「うん」

「やめないのか」

 どんな顔をして、他人の人生にケチをつけているのだろうか。レイは自分の言葉に対してずいぶんと不思議な、浮遊感を伴った疑問を得た。。

「……やめたく、ないかな」

「そうか」

「有馬君は健全だね」

「ん?」

「術者ではないから。術を授ける立場にありたくはない。それってとても健全で、自分のことをわかっていることだと思う」

「別に、そこまで高潔な性根でもって断ったわけじゃない。ただ、赤の他人に軽々しく教えることはできないと思っただけだ」

「術者に対してでも?」

「むしろ、術者だからこそ」

「悪意を持って術を扱うものは総じて魔人へと堕ちる」

「迷信だと笑うか?」

「その逆だよ。心構えとして正道だと思う」

「なら行動を改めるべきだと思うがね」

 言動の不一致を認めようとせず、ツカサは相貌を崩した。レイはその顔が苦手だった。どうしてそんなに苦しいと主張している身体を持って、他人を騙せていると信じてしまうのか。いっそここで怒鳴り散らして気勢を殺いでしまえば、目の前の頑固者は折れてくれるのだろうか。そのような甘美な妄想に浸りつつあったが、ツカサの言葉がレイに火をくべる。

「理由を聞いても、いい?」

 ―――術者ではないこと。

「ほぼ初対面の人間に自分の情報を軽口で叩けるのか?」

「ボクは家族が好きじゃない」

「おい、まて」

「でも、親の脛を齧っている」

 お金持ちでね。とツカサは小さく笑った。羨ましいなどと短絡的な脳みそであってほしかった。

 レイは強張った顔を解すことはなかった。

 ツカサは視線を店内に向ける。何を思っているのかレイには理解が及ばなかった。けれども、居心地の悪さとともにツカサという存在が妙に心に波紋を打つ。

「勘当されていないのは、きっとボクのこと

 目線はレイに戻ってくる。線が交わると、そこには神経の衰弱を感じさせた。

 ツカサはおもむろに指先をレイに向けた。その先は本に向いている。レイは表紙を眺めた。我原という名字があった。

「業界では名の知れているところなんだ。魔術学校の運営もやっているし、術者認定制度なんてことも仕切っているよ。果ては免許制にしようみたいな話も出ているそうだけれどね」

 履歴書に書けるようになるのかな。

 吐き出すことで均衡をとっているのではないかという邪推を生んだ。

 レイにとって魔術師の世界は、お手本は、目指すべき術者は、たった一人しかいない。外の世界に興味が向くことはなかった。今でこそ本を読みふけるようになったからあれこれと世間体を気にするようになった程度である。

 一般的に魔術は認知されているが、大々的に周知が求められているわけではないことすら、子供時代には知りえなかった。

「君の術を見て思った。ボクは君みたいになりたいって」

「いいもんじゃない」

「うん。有馬君が魔術師ではないことが一つの答えだと思う。けれど、だからこそボクは目指したいと思った。必死に真似をしようとしてみたけれど、どうしたって巧くいかない。あの術に近づくことすらできなかった」

「試行錯誤を現場で行うのはどうかと思う。俺は挑発されている気分になったのもあるが、危険なのはわかっているはずだ」

 ―――その気は少しあったよ。

 はにかむような笑みを作る。レイは顔をしかめた。そういう表情で取り繕っているのではないか。

「でも、魔術師としての仕事をこなす必要があったのは事実なんだ。ボクは腐っていても、どうしようもないほどに我原の人間で、それは外の人からすると絶対的な認識なんだ。下手だとか無能なんて関係がない。名前が全てなんだ」

 縛られているのだろうか。その名前を捨てることすらかなわないほどに。術として名で縛ることはある。

 レイは手元の文字列に目を落とす。著者は実名のようだ。つまり、名を使われることを想定してなおのこと、実名であろうと問題がないという自信があるのだ。

「誰も、ボクを見ていない。下手だという評価すらもらえないんだ」

 ならば、家人を縛ることは造作もないのではないか。

「馬鹿みたいな話だけれど、有馬君の言葉に、ボクはかっとなった。でも、その感覚がすごい充実感を持って身体を熱くしたんだ」

 レイは目線をあげる。ツカサはずっとレイを眺めている。

「ボクは、もう期待されることがないと思っていた。誰かがすごいという話を聞いて、そのことに嫉妬することもなくなっていた。他人と自分は違うと線引きして違うことは悪いことじゃないと納得していた」

 言葉が躍る。されど、ツカサの面は唇を揺らすばかりに思えてならなかった。

「だから有馬君に会えてよかったと思っている。ボクを知らないから、仲良くなってくれるかもしれないという期待もあったよ。でも、それ以上に有馬君の魔術に惚れてしまったんだ。ボクはやっぱり、命を賭して魔術を覚える覚悟を持つ必要がある。君の存在が―――」

「お前さ」

「うん」

「命をすぐに賭けるとか、言うものじゃない」

「ボクは覚悟を言ったまでだよ」

「言葉は魔を宿す。その言葉に魔を得て、何になる。お前はお前の言葉に命を吸われてもいいというのか」

「それで、魔術が扱えるのなら」

「死んだら意味がない」

「……兄がいるんだ。とても優秀な人でね。家を背負って立っている。それなのに親の七光りとかも言われていない。すべて自分の実力で黙らせている」

 焦っている理由はなんだ。訝しむものの、態度を豹変するわけにはいかない。

「うん」

「ボクは、黙らされたままで居たくない。ボクは有馬君の魔術を見て、すごいと思った。けれど、すごいままで終わりたくないんだ」

「あのさ」

「あ、ごめん」

「ツカサって呼んでいい?」

「あ、うん。我原は、好きじゃないから」

「俺も有馬じゃなくていいよ」

「ありがとう、レイ君。

「呼び捨てでいい。君づけって慣れないから」

「解ったよ。レイ」

 ―――嬉しいな。

 同級生らしい空気をやっと吸い込めた気分だった。

「門の封印をいくつか見た」

「うん!」

「下手くそだよな」

 苦笑と落胆が、ツカサを仰け反らせたようだった。

「早いんだよ締めるのが。もっと満たせ。染めただけで満足してすぐ次に行くな」

「えっ?」

「ごちゃごちゃしすぎなんだよ」

「ごちゃごちゃ……」

「術には人の感情が乗る。表層じゃない。奥底だ。わかるだろ」

 自分は何を言っているのだろうか。レイはふと思った。どういう立場で話をしているのか。

「うん」

 ツカサはどうしてこんな男のことを素直に聞くのか。素直さは美徳かもしれないが、魔を扱う者としては不用心だ。

「あれは俺だ。恥ずかしいけれど、あれこそが俺の一つだ」

 ツカサはどうしてこんなにも無条件に誰かを信用できるのか。レイにはそれが理解できなかった。そして、そんなツカサに対して、気分を良くしている自分を気持ち悪いと感じていた。

「だったら、ツカサ。お前の術はすべてお前なんだよ」

「ボク」

「ただ頑張ればできる。お前は大嫌いな家族を見て、そう思えるのか?」

 ツカサの瞳に鈍い光沢が走った気がした。

 レイは気づいた。自分はまだ、姉の存在を美化しているのだ。

 ツカサは姉の代わりになるのか。そんな不健全な思考回路に嫌気がさした。


 ③


 布団に潜り込んで、何であんなことを言ったのか。という羞恥に悶え苦しんだレイだったが、幸いにも一夜で折り合いをつけることに成功した。

 接点ができてしまったことに後悔するつもりはなかった。

 他者とのつながりを強く意識することになった。

 子供のころと違って明確に誰かを意識したのは初めてかもしれない。心のありようの変化に、レイは純粋な疑問を浮かべた。答えはでない。答えを導く道程が足りない。それは焦燥になってレイをじらす。

 姉という存在がよぎる。けれども記憶に陰がさした。瞳だけが朧気に浮かんだと思えば、どこかに飛んでいく。突飛もない記憶の混乱にめまいを覚える。けれども印象は残った。

 欲に染まった視線を受けていたことを思い出す。どうしてだか、今の自分にそっくりではないかという同調が覆いかぶさってきた。それは生活に支障をきたすほどレイを億劫にさせた。

 どうにも落ち着かない。日常は一変したけれど、それは内面の変化が色濃いものだった。

 ツカサは、オキという趣味に生きる中年よりよほどに潔癖な人である印象を与えた。生真面目という言葉も付随する。

 オキの店へ足しげく通うことになったツカサ。対してレイも思うところはあったけれど、さすがに客として来店していることをツカサは良く存じていた。そこに同じ学校に通う学友らしい軽い言葉の応酬はない。けれどもオキとの会話は堪能し、実にオキが好みそうな伝言をレイに聞かせる。レイも嘆息を我慢しては慣れてしまった。

 つまりはツカサが施した仕事内容はレイの知るところになった。そうして、知ってしまえば足を向けてしまう。レイにとってツカサの術式にそこまでの価値があるというわけではない。けれども、いまだに未練がましく魔術を追いかけていることに対しての女々しさが薄らいでいたことは事実である。

 レイはツカサという存在に救いを得た。人生のどん詰まりを意識していた高校生活の中で、誘蛾灯に集うがごとく、レイはもはや言い訳の言葉を並べ立てることも忘れて、へたくそな魔術を品評するという行為に趣味を見出していたのであった。

 時折、話をするときがあれば、何がダメだという話ばかりで、褒めるという恥ずかしい行為を意図して避けていた。ツカサはそれでも嬉々として改善を施した。

 魔術は喜色と熱意がこねくり回されて実践へと投入されていく。

 その結果を眺めた。

 次第に不信感を募らせていく自分に、もはや違和を求めることもなかった。

 異常なことがあった。

 最初のアドバイスをしてしまってから十四日間がたった。

 目障りを通り越していた。もはや心配になるほどの仕事をこなしている。

 ツカサに気圧されることになるとは思ってもみなかった。

 魔術狂い。と評するべきはその腕前からして悩むところだった。しかし、これだけの現場に挑むことは異様である。

「こなせば巧くなると思っているのか」

 実戦練習とはいかにも楽観的な言葉に思えてならない。封印術の練習は門を封印するだけではない。

 魔力を上書きする練習方法は様々にある。

 不愉快だった。けれどもその考えはすぐに引っ込む。ツカサという男は確かに下手くそな術者であるけれど、人の意見は素直に聞き入れる愚直さを持っている。

 町中にはびこる稚拙な作品の数々を望めば、なるほど、確かにアドバイスを咀嚼して実践しようともがいているなという意見を持つ。けれどもそれ以上の進歩がないことにレイは落胆し、やはり忠告するべきではなかったという後悔の念を抱いた。

「俺のせいか」

 自分が生半可な助言をしたから、ツカサは躍起になったのではないか。効率をあげてしまった原因は自分にある。それは術式の完成度が示している。

 ツカサという人物を見誤っていた。

「馬鹿だよな俺は」

 自分より物事を考えていると思った。

 落ち着いている。自分の意見を持っているし発言できる。

 相手のことを少しは慮ることもできる。

 レイはツカサが術者として上等な人間性を有していると思った。

 結局のところ、レイは自分が可愛いのである。誰かに助言をし、その結果、その誰かしらに不幸が訪れること。その人の目指すべき道が閉ざされてしまうこと。

 他人の人生を揺るがす存在、原因になることを恐れている。

 ―――姉さんは、どうだったんだろう。

 今まで考えたこともなかった。レイは唐突に自分の師匠でもあり、尊敬する姉のことを思った。それから、オキの店に走った。

 姉のことを思い出して、途端に恐ろしくなった。姉との記憶が曖昧になっている。それくらいの時間が過ぎているのだという理解と、大好きで、尊敬もしているのに、何故、どうして。という驚きがレイを襲った。

 どこまでも過去形になってしまう気持ちに、どうしようもないくらい自分自身の変化を意識してしまった。


 *


 ツカサがいなかったことへの安堵がレイに重くのしかかった。

「おや、レイ君。どうかしたかい?」

 オキの軽妙な声音。

「いや、別に」

「そうかい。君がそこまで怯えているというのも中々に珍しいことだから驚いてしまったよ」

 嘆息をいれた。オキの言葉から、ツカサのことを知った気になっていたのだと確信に及んだ。

「わかるものなんですね」

「レイ君は思った以上に態度が分かりやすいものだから、私としてはとても好人物だという評価をしているよ」

「ありがとうございます。改善します」

「しかし、レイ君。実に都合が良い」

「なんです?」

「さて、まずは良い話をしよう。中庭を覗いてみたまえ」

 店内から中庭に抜ける扉がある。オキは解放した。

 風が戦ぐ。魔力の残り香をレイは感じ取った。

「あれは」

「彼、ツカサ君が仕事をしたのだよ」

 レイは、それに近寄る。中庭の中央部に薄っすらと輝く門だったものがある。

 姿は樹木だった。桜の木のようだとレイは思った。

「私は何も見えなかった。ただ彼がじっとして、けれども何かをしているのだろうなと思うくらいに集中していたことを観察していたのだけれど」

 珍しくオキは言葉を詰まらせた。

「ところで、レイ君。君はどう思う」

「下手ですよ」

「そうか。けれども君からは言葉以上の悪評はなさそうだね」

 レイは薄れゆく門に触れていた。無造作に、魔に触れることに対する警戒感を捨ててしまっていた。

 門の変化はあった。レイには解った。その時の面もちは、下手くそという言葉に喜楽を混ぜてしまっていたことにすら気づいていない。

「集中力はある。なのに、制御がおぼつかないのは、深い集中が続いていないからか。だから魔力がブレる。出たり入ったり、忙しくしている。常に一定であれというわけじゃない。そこに乗せる魔力は後で調整だってできる。即効性を持たせる必要性がない仕事だからもっと大味に全体に魔を張り巡らせてからでいいんだ。それをしないで、とにかく魔力を押し当てながら……。せっかく調整した魔力をただ強引に押し付けているだけだ。全然風景になっていない」

「君の楽しそうな姿を見ることができて私も嬉しいよ」

 人の頑張る結果をなぞる。その行動が、レイにとっては幸せと感じることができた。

 馬鹿みたいに魔術が好きなのだ。どうしてだろう。わからない。ただ、自分が魔術を使うことに対する忌避が薄まりつつあることを実感していた。

 望んでいたことかもしれない。意固地になってやたらめったら魔術を否定した気になっていた。けれども、それはただ逃げているだけだ。理解しているのに、レイは認めることが中々にできずにいた。

 あっけなく、その足掻きは消し飛ばされていた。下手くそな魔術が、馬鹿みたいに真正面からレイに立ち向かってきたのである。

 苦しみながら魔術を施すツカサという男が、魔の残り香に染みついていた。

 どうしようもないほどに、子供の自分と重ねてしまう。と考えてから、実のところこれは誘われているのではないかという疑念を発生させた。

 その思いに怒りは生まれてこなかった。心の奥底で出会ったのは安心感だった。

「ありがとう。オキさん」

 レイはそういって振り返った。

「私は君のことが大好きさ。だからこそ、お願いしたいことがある」

「何ですか。改まって」

「ツカサ君を頼むよ」

 悪い話になったとレイは顔をしかめた。

「何かあったんですか」

「悪い話をしよう。彼がここで仕事をしたとき、もう一人いたのだよ。彼は名家の出だろう。だからこそお目付け役というものだろうかと考えたけれど。どうにも腑に落ちない。年は三十代の男だ。ツカサ君に対しての悪意を見た。これは、具合のよろしくないことかもしれないと思ってね」

「口出しとかは?」

「暴言ばかりだよ。この程度のこともできないのかとののしられていたけれど、ツカサ君の立ち振る舞いに変化はなかった。悲しいことだけれど、あれは受け入れているといっても相違ないものだったね」

「家の繋がり……嘘をついていた?」

「私が求めることはただ一つ。ツカサ君は少しばかりレイ君に似ている。寄り添って、いっそ友達になってしまえば互いにメリットがあると思ってね。私も探すことはするけれども、あいにくと仕事が佳境を迎えているものだから、安直な行動はとれないのだよ。物騒な世間に未成年を走らせてしまうことは私的ながら実に業腹ではあるけれど、唯一の救い、光明とは君たちが魔術を扱う術者で、私の読みが正しければ、レイ君は実力を伴っているということだろう」

「無理だよ」

「その意識は大事さ。無鉄砲に生き急ぐ性分ではないことが、レイ君の強みだ。今、君が考えていることは正しい。できることを理解し、その最大限を実現しようと思案していることも評価に値する。だからこそ、君に頼みたいと思ったのだよ。君ならば無茶はしない。その信頼を君に押し付けてしまう私をどうか許してほしい。けれども、私は見たいという我欲を抑えることができない。レイ君。君が普通であろうと抑圧されていることを私は知っている。わかってしまっている。察している。どう取り繕ったところで、それは他人の言葉さ。だから曝け出すとするならば、見たいのだよ。才能というものを。私ですら視認できるという魔術を期待したい。君は私を重く思うだろうけれど、そうあっても、私は君に魔術をしてほしいのさ。きっとツカサ君も似たような思いを抱いている。だから私が先んじて語らせてもらったよ。二人目からの期待なら重荷と分かっていても身構えておけるだろう?」

「勝手すぎる」

「私は我儘でね。これまでそう生きてたのだから、これからもそう生きるだろうね。たとえ君が私と縁を切ろうとしても、私はどうするだろうな」

「怖いことをいわないでください」

 レイは頭を掻きむしる。それから一旦目を閉じた。

「オキさん」

 開いた瞳にオキが映る。

「ん?」

「ありがとう」

「こちらこそ、だよ。ありがとう。レイ君。そしてお願いするよ。こちらもひと段落したのちに加勢するさ」

「ここ以外にどこか当てがあればいいんだけれど」

「大丈夫さ。君たちは縁がある。魔力とはそういうものだ、というのを君から教えてもらったからね」


 *


「なんで知っているかな」

 一冊の本をオキからもらった。何の変哲もない魔術に関する指南書。けれども、この状況で渡された意味は重い。

 しかし、レイはオキに不審を抱くことはなかった。彼ならば、説明してくれるだろう。それこそ嬉々として、などという楽観があった。


 *


 町中をさまようことを考えていた。

 行き先に当てなどありはしない。けれども早々に事態は好転する。

 一体の魔物が、レイを待っていた。店を出てから不思議と足が向かった先が社の前であって、その魔物はやはり既知のものだった。

 見てくれは人の影としか表現ができない。けれども、幼さを見分けることはできた。

 レイは知っている。そうして魔物は、その影はレイを誘導した。

 魔物に心を通わせる可笑しさに胸の高鳴りを覚えた。

 魔の繋がりに充足感を得た。

 レイにとって、この縁を大切にしたいという素直さが身体を突き動かしている。

 息が上がった。それでも見失うことをさせないエスコートを頼りにたどり着いた先は、大通りに面した公園だった。日中だけではない。夜でもジョギングする人々の活気が流れている場所で、街灯も多い。だからこそ異様さはすぐにわかる。およそ人の気配が死んでいる。

 妙な、それこそ魔力の一切を感じない。おぼろげにたゆたう未知のベールがあった。

 手を伸ばし触れても反応はない。それはとても薄いという情報だけをレイに伝えた。

 魔物は消えていた。役目を終えたのか。主のもとに帰ったのか。できうるならば後者であることをレイは願った。

 レイは中へと入る。

 躊躇ってしまえば、臆病が顔を出してくる。勢いをつけてなりふり構わず、進めるだけ進む。

 開放感に焦燥が追い付いてこれないためか、レイは颯爽と未知へ挑戦していった。

 果たしてそこは空間が違っていた。

 総毛立つ変調が異質さを現実のものと決めてかかっている。

 レイは不思議な気分だった。

 高揚感に包まれていた。いまだかつて経験したことのないテンションの高鳴りが身を焼いていく。

 魔の流れが見える。見慣れたものだった。

 鋭敏になっていく意識。何歩先かが見えるような感覚。樹木を縫うように伸びるアスファルト。丁字を右手に折れてみる。

 ツカサが倒れていた。

 魔術の残り香がある。

 ツカサと別の誰か。そうして異物が三つある。

 ツカサの栗毛を捕まえている指先。

 深緑に皺が走っているように見えた。

 薄暗いのだからそう感じたと思えば、全身を人間の服装で偽装している化け物であった。

 フードをかぶっている。人でいう頭部は顔のみがわずかに見える。そこは蜷局を巻いた蛇が鎮座しているようだった。

 触手が幾本も顔から垂れている。胸当たりまであるそれは、先端部の球体があった。

 不気味に蠢くその姿から、生命の力強さを視認させる。

 ツカサとは別の男。レイはあまり関心を向けなかった。それでも、姿ばかりは視界に入る。黒いスーツの男。血を流して倒れている様子から、しかし、生きていることは察することができた。

 奇妙な光景だった。一体の化け物が、男を介抱しているようにレイには見えた。処置をしている最中だったようで、何か、トランクケースのようなものを開けて、あれこれとケーブルが伸びている。そうして男の頭部や腕、胸付近だろうか。とにかく張り付けられているようだった。

 まるで救急救命をしている姿に、レイは意図を察した。彼らにとっても人の死は望ましくはないのだ。つまり、ツカサとて用途を持って攫うのだろう。

 魔術師を狙っていた可能性が電気信号を伴ってレイの頭を駆け巡る。騒ぎ出した感情は煮えたぎる溶岩のように熱量を持って魔力へと溶けていく。

 常人には見えない。けれども魔術師ながら即座に対処するべき事象だった。そして化け物らに焦りはない。

 つまり、これはオキと同じく魔力を内包していないからこそ、魔を感知できていないという予測がたつ。

 三体の化け物は、敵対行動というよりかは動揺を見せた。右往左往しているように見て取れた。

 空気の鋭い音が轟く。圧縮された空気が排出されたようだとレイは思った。それくらいの余裕を持った。

 一体が威嚇だろうか。腕と思わしき部位から触手が伸びて鞭のようにしならせ、地面を穿つ。

 レイは魔力を通した。

 全身に巡る魔力に、火傷しそうなほどの熱を感じた。

 所持している書籍に、魔は集約される。

 書籍は浮かぶ。ページが躍る。一枚一枚に分離し、白雪のように舞いながら発光する。

 どこまで力を使うことができるのかわからない。けれども手探りで魔術を使うほどレイは慎重な人間ではなかった。

 笑う。怒りに塗れながら、獰猛さを隠すように笑顔を張り付けた。

 ツカサに殺到する白光に、化け物は意識を向けた。

 魔力を乗せすぎた弊害に視認を許した。けれどももはやレイにはどうでも良かった。

 魔術を行使した。その事実に酔った。幸福に包まれた。

 男に関しては放置だった。あれが人を殺す処置に見えなかった。という体の良い言い訳がある。わざわざ用意してくれていたことに感謝した。

 男に何かをしていた化け物が触手を伸ばしてきていた。

 レイは魔力の刃を紙吹雪にまとわせて迎撃し、残った紙で防御する。

 ツカサを掴んでいた腕に紙吹雪の一部を殺到させ切断させるとともに、ツカサを覆い、魔力を手繰り寄せるようにレイは背後に移した。

 相手は触手をくねらせるとステンレスのような光沢を放つ道具を持ちだした。

 人間でいうところの銃だとレイは思った。

 レイは魔術による防御を施している。

 道具の先端から、質量ではなく閃光が飛んだ。

 刹那のうちに、紙吹雪を焼いた。

 そこに驚きはない。

 魔物相手などと、この期に及んで考えているわけではない。

 例外は先ほど体験しているとはいえ、魔物との戦いを想定するほど愚かではない。

 鼓動がうるさいとレイは感じた。まるで鼓舞されている気分になった。

 場に魔を散らす。

 仮称レーザーが照射される。

 紙吹雪とは別に蛍のように舞い踊る魔力の粒子が、光源を歪曲させた。

 戦える。事実を受け止めながら、しかし、血気盛んとなるわけでもなかった。

 戦えるだけで、この場を切り抜けることができるなどと楽観はしない。

 逃げる隙がレイには掴めなかった。

 魔術を扱うことの快楽に溺れてしまいたい。

 誘惑にかられるけれど、焦れる感情は痒みを連想させた。

 無駄に浪費した時間が、まるで清算を求めるかのように身体を蝕む。

 ジリ貧だぞ、と脳みそが対応を求めてくる。

 レイは構わないと思った。

 幼年期より大分マシだと前向きにとらえた。

 生きることを実感している。命を守る行動をしている。危機的な状況下であると判断できる。けれども何故か、愉快な気持ちになる。

 ツカサの命がかかっている。その事実に窒息してしまいそうな息苦しさと、言い知れぬ興奮を覚えた。深呼吸をして命の香りを吸い込みたいという突飛もない妄想に思考が飛んでいく。

 快楽に叫びだしそうになっていた。

 どうしようもないほどに、楽しい。今になって理解が追い付いた。

 両親だった人々がどうして恐怖を持って接触を持たないよう立ち回っていたのか。

 姉だった女性はレイを魔術師に仕立てようとした。

 結果、レイは魔術師になるべきだと信じた。

 レイは姉が居なくなったとき、次はどうしようと悩んでいた。

 何をすればいいのかわからなくなった。

 その時、両親という肩書は、魔術をやめるよう言った。

 レイは言葉通りにした。一先ず、身近な人の言葉を鵜呑みにした。

 そうして、もがき苦しむことになった。

 今になって、何故こんなことを思い出すのか。

 答えは自分の中にあるのだけれど、レイは知らないふりをした。

 もういらない記憶だ。

 消してくれ。

 目の前の出来事に集中させてくれ。

 レイはこの期に及んで、ようやく生きることを考えていた。大学に行こうか。いやでもやっぱり魔術を勉強したい。

 ―――嗚呼、やはりツカサを放ってはおけない。

 どうしようもなく、将来に思いを馳せる。

 世界が艶やかに染まった。

 レイの足掻きに呼応するかのように、世界が揺れ動く。事態の好転を目ざとく察知したレイは気を抜いた。

 誰の仕業か。およそに理解がついた。


 *


 赤い流星の瞬ぎがレイを照らした。

「レイ君か」

 オキが地面を抉って立っていた。足元から煙があがる。

「助かりました」

 化け物たちが座り込んでいる。身動きを取ろうともがいているが、微動だにしていない。レイの目からはそれらは自分で触手を身体に巻き付けて座り込んでいるようにしか見えなかった。

 そこに魔力の流れはない。

「ナノマシンの応用だよ―――」

 レイはその名称は知っている。あいにくと専門的な知識は持ち合わせていない。

 そのため、ひとまず朗々と説明しようとするオキの機先を制することに注力した。

「夜の仕事の意味を知りましたよ」

 警戒を解いたわけではなかった。ひとまずに周囲を魔力で観察する。これは戦いを経験したことをさっそく実践したまでのことである。

 化け物は魔力への対処が乏しいことに起因する。これはレイにとって大きなアドバンテージだった。

「私は保安官なのさ。しかし、今回はずいぶんとてこずってしまった。何せ、植物人間だからね」

 ―――勝手に地球の植生を変えよってからに。

 オキは嘆息を入れた。

 植物人間らは拘束されて這いずり回ることもできないようだった。空気の排出音だけが悲しげに漂ってくる。


 *


 ふと、ツカサの魔力に変化があった。背中を押される。またか、というレイの思いは踏みにじられる。

 振り返ることを許さず、魔が刹那の一跨ぎに地面を貶めた。

「オキさん!」

 影が広がった。

 間に合わない。根源を辿ることは諦めた。

 身体は魔力を通して干渉を相殺する。けれども、オキはそうもいかなかった。

「む」

 オキは跳躍したようだった。

 あいにくとレイには確認する余裕はなかった。

 ツカサの感情が走る。門があった。消えていたはずのそれは確かに息づいている。

「おぉ、これが魔というものか!」

 感嘆の大声にレイは思わず笑ってしまった。

 オキは足を掴まれている。

 陰から黒い手が伸びていた。

 人を模したそれに、オキは何か攻撃をしているようだが効果は見えない。

 するとオキは腕を巨大化させて殴り飛ばした。これは効果が目に見えた。しかし、次々と手が殺到する。どうにも、オキはずいぶんと好かれているようだった。

 とにかく、レイは魔術を展開した。紙吹雪を散らす。魔物だけあって、とおりは格別だった。

 ふと、地面に転がっていた植物人間たちはどうなったのだろうかと目を向ける。そこには影が伸びており何も残っていなかった。

 オキが好かれる原因はそれかもしれない。

「ありがとう」

 オキは空中に佇んでいた。

 飛べるんだ。というちょっとした羨望を向けたがすぐに意識を離す。

 濃紺のスーツに革靴。髪の毛はセットされてオールバック。平時のオキだった。

 レイの手前に着陸する。

「ふむ。限定装備では対処に難しい。何せ我々はいまだ魔力を確認できないのだからね。だからこそ、私は今感動を禁じ得ないのだ。わかるかいレイ君!」

「見えるほどに密度があるということですから、すでに魔界化が顕在化していますよ。早々に対処しないともっと大ごとになります」

 楽しそうなオキに水を差すレイであったが、気分はずいぶんと楽だった。

 目的ははっきりとした。原因も理解できた。ならば行動するだけだ、とレイは覚悟を決めた。

「レイ君」

 ツカサの姿は門に溶けた。

 魔力に取り込まれた。

 時間とともに溶け切ってしまうことだろう。

 魔とはそういうものである。魔物とは人を好む。感情を餌にする。その延長上に人を食う魔がいるだけだ。

「門を閉じます。可能性があるとするならば供給源を断つことですから」

「簡潔にありがとう」

 影が凝縮されていく。巨大な人型だったそれはやがて、別の姿に落ち着く。

 ムカデのような異形になった。人の手が足となって実に不愉快な造形であるとレイは顔をしかめた。

 黒い魔物は手を伸ばしてくる。

 先ほどまではオキに好意を向けるように殺到していた。今度はレイに向かってくる。

 オキは殴打でそれらを無残にも消し飛ばした。

 腕が幾本にも見えるほどの殴打。と思ったら本当に腕が増えていた。もはやレイはそこに驚きはなかった。

 頼もしい限りである。

「ふむ。こちらは良いか。解析はできていないが仕方がない。有効打を得たことは僥倖。ならば、私がオフェンスに回ろう」

「任せます」

「頼ってくれたまえ。けれどもね。レイ君」

「はい」

「いや、今の君ならば存分にやってくれるだろう。不満があるとするならば、レイ君の仕事を拝見することがかなわないことか」

「いずれは」

 その返答に、オキは顔を崩した。

 余裕ある大人の笑みか。たとえ未知なる生命体であろうとも、オキはオキであった。

「ならば、気合をいれて頑張るとしよう」

 レイは目を閉じて魔力を流す。

 線となって門であった影に落としこむ。

 不思議と妨害はなかった。

「ツカサ君。私はやはり思うのだよ。君たちは似ているとね」

 オキの言葉がレイの耳をくすぐった。


 ④


 やりたいことはわかる。

 これはお前が仕事を受け持つ中でそこそこにでかい。だから気合を入れているのが分かる。

 魔力の乗りが強い。でもそれだけだ。

 出力も制御も甘い。

 やりきったと思って開放的になっているのか。

 一度で仕上げていないだけまだ進歩しているが、最低でももう一度くらいは上書きするべきだった。

 まだまだ焦って色がついたから完成したと思い込んでいる。

 どこまで行ってもお前は生き急いでいるように見えるな。

 もっと足元を見てみろよ。

 立ち止まったっていい。

 振り返ってもいいだろう。

 やりきった、頑張った。だから、それはもう終わったことになっている。

 違うんだよ、ツカサ。

 魔術はそこからだ。

 終わりはない。

 門は消える。けれど消えただけなんだ。そこにある。いつだって自分とともにある。お前は残り続けるぞ。

 もっと自分を活かせ。

 お前は難しく考えることができない。

 その代わり素直だ。

 その素直さは武器になる。


 *


 魔力にはその人物が映される。

 いつか読んだ書籍には、術者の多くは感情を殺すことを練習すると記載があった。

 レイにとって、それは悲しいことだと思っていた。

 姉もそうだったのか。

 そう考えてみて、やはり違うのではないかと思い直す。

 それはきっと、手を差し伸べる人だったからだと考えた。だからこそ、レイはツカサを捕まえた。

 魔風にあてられたような寒気はあれど、その魔力はどこまでレイの手元から逃れようとはしない。

 知ってほしいのではないか。

 レイは嘆息を吐露する。認識の上では人の体を有しているものだから、自然と人間らしい行いを意識した。

 無防備だらけの身体は外部の振動を感じる。

 世界は騒音に震えている。けれども、レイは信頼の熱に身体を燃やされている。

 気持ちが良く、けれども焦らされはしない。

 説教をのたまう気概を持つくらいに、レイはゆとりを持っていた。

 苦難も待ち受けてはいない。ただ、泰然と、ツカサの感情と接することができた。


 *


 どうしてこんなことをしたのだろうと考えてみたけれど、やっぱりあなたのせいだと思わせてください。

 物心のついたころから、ボクのことを誰も知らなかった。

 誰も見てはくれなかった。

 魔術を扱うことだけが唯一、周りの人々の反応が返ってきた。だからボクは魔術を使っていた。

 魔術が下手くそでも、下手だからこそ誰かが反応してくれて、嗚呼、ボクはここに居るんだって思いました。でも、それが間違いだと気づいてしまいました。

 あなたのせいです。

 レイ。

 あなたがボクの前に現れたから、ボクはボクがおかしいことを知ってしまった。

 あなたが、あなたのお姉さんとともに現れなければ。

 覚えていないでしょう。レイはお姉さんしか見えていなかった。

 ボクが魔術を使っても、まるでそこに存在していないことのようだった。それが当たり前のようだった。けれどね、レイの魔術は本当の魔術だった。

 色々な言葉を思ってみたけれど、どれも正しくないように思えた。だけど、その魔術は、生きていた。

 命があった。それだけはボクにもはっきりと認識できた。

 羨ましい。それが初めての感情。

 ボクの魔の源。

 レイが欲しいと思った。

 ボクを見てほしいと強く思った。

 あなたが、ボクを見てくれなかったから、ボクは生きていることができるようになった。

 誰からの言葉も暴力も、ボクには響くことがなかったけれど、あなたの出会いを経て全てが変貌した。

 ボクにとってあなたの魔術が、あなたという存在が全てになった。

 ボクは、あなたに見つけてほしい。

 ボクを見てほしい。

 反応してほしい。

 ボクという存在が、あなたの心にほんのちょっぴりでいいから、入り込みたい。

 あなたのことを調べた。

 すぐに所在はわかった。でも、あなたに会いに行くことはしなかった。

 なんでだろう。

 もしかすると、違った人生を歩むことができるかもしれなかった。けれど、ボクには辛すぎた。

 あなたが、ボク以外に目を向けていることを理解したくなかった。

 ボクはあなたに見つけてほしいと努力を始めた。

 スタートが違うから当たり前だけれど、だからといってボクはその事実を受け止めることができるほどの器量はなかった。

 あなたの姉が、ボクは嫌いだった。

 どういう性格だったのかすらわからない。

 わかりたくない。だけど、あなたのそばにいて、あなたの感情を一心に受ける女性にボクは好意的な感情を向けることはできなかった。

 狂いそうだった。

 あなたのことを考えるとあの女の影がちらつく。

 ボク以外の人が、光を浴びて気持ちよさそうに生きている。

 ボクはとたんに惨めになった。

 考えたくないと思って、だけれど魔術だけがボクを生かしていることだけはわかっていたから離れることもできなかった。

 なのにどうしてだろう。

 あの女はボクにすり寄ってきた。

 気持ち悪かった。

 こんな欲望に身体を囚われている人間のことを、どうしてあなたは信頼しているのか不思議でならなかった。けれども、ボクはこの機会を逃したくはなかった。

 女の理想は、ボクにも理解できてしまった。

 虫唾が走るほどの嫌悪感に苛まれながら、ボクはあの女の夢を応援することにした。

 サプライズだったんだ。

 それはとても甘美な話でもあった。

 だからボクも必死になったよ。

 養子縁組の話。

 我原家にあなたを迎え入れる。

 その見返りにボクは我原を離れ、籍を外す。

 一般人として生活を保障される。

 そういう空論にあの女は染まっていた。無理なことを承知していなかった。どうしてあそこまで楽観的な考えに浸れたのか。今でも不思議でならない。だけど、それだってきっと、あなたのせいだよ。あなたが眩しいから、近づく人たちが眩んでしまう。そうして、届かなくて、無理をして、墜ちてしまう。

 愛されていることに嫉妬はなかった。

 むしろその事実をしったとき、あの女に初めて好意を抱いたよ。けれども、ボクであってほしいという欲は、やっぱりボクの中に潜んでいた。

 もうどうしようもなかった。

 この女を殺すことは確定していた。けれど時期を見なければならなかった。

 だって、あなたの人生を壊すことになってしまうことはわかったから。そして、その代償として我原に入り、魔術に傾倒してほしかったから。

 名前だけもらえば、魔術学校に入ることも簡単だろうし、家庭教師だって雇ってもらえるだろうから、あの女はそれを見込んでいたのだろうね。貴方の世界は狭すぎる。その意見には同意したよ。それにしたって、次は箱庭に押し込むつもりなのだから、結局、誰だって見えていなかった。

 ボクという協力者を得て喜んでいたよ。

 ボクはひどい仕打ちを受けていた。

 傍から見ると虐待だからね。だから、あの女は善意で武装していた。

 可笑しいくらいに善良な女を演じていた。

 滑稽で、惨めで、だけれど、とても羨ましくて、イライラして、叫び散らして、もうどうにかなってしまいそうだった。

 ボクが、あの女を殺したといっても、きっとあなたは許してくれる。

 あなたはとてもやさしい人だから、出会って、会話をしてあなたの姿を認めるたびに、確信した。

 あなたは術者に向いていない。

 その才能を発揮するたびに、あなたは傷つき、あなたは壊れていく。でも、とても美しいから、ボクはあなたが術者になることを望む。だって、命を削って、自分と戦いながら、つねに苦しみ、悲しみ、それでも魔術が大好きだから、苦痛から逃れることもできず、かといって泣き言を垂れ流すほどに世界を無価値だとは思えない理性を持っている。

 そんなあなたが大好きで、そんなあなたにボクが入り込みたいんだ。だから幸福に溺れてしまいそうになった。だって、あなたに魔術を教わってわかってしまった。絶対にあなたは私を切り捨てない。

 優しい人だから。

 けれども、ボクはこんなにも欲深いなんてわからなかった。

 あなたに出会わなければ、こんなに苦しくて死にそうになるほど悩むこともなかった。

 それなのに、だからこそ、あなたはボクを忘れないでほしいと願った。

 望外の出来事だったけれど、満足しているよ。

 きっとあなたはボクを見つけてくれる。

 ボクのために怒ってくれる。

 何よりも、嬉しいことがある。

 あなたは絶対に、ボクのために魔術を使ってくれる。

 そうしてボクの思いを知ってくれる。

 ボクのことを嫌ってくれない。けれど、恨んではくれる。

 ボクが望んだから、ボクが強く望んだから、あの女はきっと死んでくれたから。ボクには才能がない。けれども、きっとそんな力があるんだ。

 ボクの命を賭した願いは叶う。

 だから安心しているんだ。

 あなたは、ボクのために泣いてくれる人だから。


 *


「泣く分けないだろ。すべてが間違っているんだからな。お前の考えはわからないし理解もできない。同情くらいはしてやる。それだけだ。お前が死ぬことを許すつもりもない。俺がここに居るのが答えだ。ツカサ、お前はまだ嘘をついた。もしかすると自覚がないのかもしれないがな。ここに連れてきたのはお前自身だ。お前は死にたくないと思っている。助けてほしいと思っている。過去にどんなことがあったかはわからない。姉さんのことも本当かどうかなんて今の俺には調べることもできない。だから、お前を助ける。助けて調べて、そして、この思念が事実であったのならば、そのときはその時に考える。先のことばかり考えていたところで、俺にはどうすればいいのかわからない。だから、今のツカサ。お前をなんとかする。馬鹿野郎を助けるだけだ。見捨てるわけがないだろう。何度だって、お前の魔術を直すよ。本当は巧くなりたいって。それは事実だから。魔力には自分が乗る。ツカサが今まで施してきた術式には確かに息づいていた。それを見つけてきたから、俺は理解しているつもりだ。下手が上手くなりたいって思うことはそんなに悪いことじゃない。俺は、羨ましかったよ。嫉妬した。下手くそなのに魔術を使って我が物顔で闊歩する馬鹿だって貶したほどだ。だからこそ、ツカサと出会って、魔術を教えて、少しずつ前進している術式を見て、少しだけ救われた。努力が実る様子は儚げで、危なげで、けれど、嬉しいものだから。自己満足だった。怖かったという気持ちを埋める手段をあれこれ悩んで、結局、下手くそが高望みしないならば、それでいいと諦めていたくらいには考えた。自分がどうやれば傷をつけずに済むかを考えて、そんなことを思う自分が嫌になった。そして、ツカサという存在によって魔術を使ってもいいんじゃないかという甘えが出てきて、それがたまらなく焦らした。そのうっ憤をぶつけて、発散させていた。それだけだ。結局、俺も自分の欲を誰かにぶつけてただけ。何も変わらない。だから、もっと見せてみろよ。お前の下手くそを。お前の魔術の熱を俺にくれ。俺が奪い取ってやるよ。お前の欲を。俺は俺の生きたいように生きる。今はとにかく、お前を助ける。そうしないと魔界化が進むからな。だから、とっとと戻ってこい馬鹿野郎」


 *


 意識を戻す。

 周囲から音が止んでいる。

 視界の先に、オキが佇んでいた。

 興味深そうに門を見つめている。

「歪んでいるな……お前は」

 仰向けになっているツカサに言葉を落とす。

 ―――俺もか。

 それからレイは座り込んだ。足を延ばし、手をついて空を眺めた。

「ありがとう」

 ツカサは目を閉じたまま言った。

 拍手がなった。オキである。

 レイは苦笑をもらした。場を和ませようとしているのか、シラフでやっているのか判断に困った。

「無事のようでなによりだよ。二人とも実に素晴らしい友情を得たようで私も安心している。これで君の姉君が抱いていた悩みも解決するだろう」

「はっ?」

 そういって、ツカサが目を開ける。

 顔をオキに向け、起き上がろうとするも力が抜けていくようだった。

 レイは手を伸ばし、ツカサの栗毛をなでた。

 くせ毛が、レイの手のひらで遊ばれている。

 それだけで、ツカサはおとなしくなった。

 オキはレイを一瞥した。

 レイは視線を合わせる。そこに驚きはなかった。ただ少し嘆息を入れて肩をすくめた。

 オキは少し驚いていたが、ツカサに顔を戻した。

「レイ君の姉君のことは我々も悔やんでいる。彼女の命を救うことができなかった。しかし、最後の遺言でレイ君を頼むという言伝を預かっていたのだよ」

「何を言って……」

「ようするに、今回のような化け物が姉さんの失踪に関与していた。そして、オキのような存在が助けようとしてくれた。そうだろ?」

「うむ。姉君は我々の同胞を守ってくれたのだ。我々は人に擬態して行動しているのだけれど、姉君の一件から、我々は子供に擬態することを禁止としている」

「まったく、姉さんらしい」

「嘘だよ」

「ツカサ君。なぜそう思うんだい?」

「だって、ボクは願ったんだ。魔力は感情を源にしている。ボクに魔力がまったくないのは使い切ったから。ボクの強い願いの代償だから……でも、だからこそボクは今ここに居て、それが正しいことだって。だから―――」

「ツカサ」

「待って、レイ。忘れないで。ボクは、ボクは」

「身体魔力のほうが適正がありそうだよな。お前」

「えっ?」

「そっち方面でやっていくか」

「何を」

「中々に良いのではないか。華奢な男子が実はステゴロに強い。ギャップが良い」

「それは、まぁ、どうなのかはわからないけど」

 レイはツカサの首筋を指で撫でた。

「それ」

 ツカサはその指に触れ、それから首の違和を認識したようだった。

 オキはしげしげと見分する。

「首から何か……術式か。それも、これは。いやはや大胆なことをするね、レイ君」

「こいつ、自殺して俺の心に傷つけようとか平気で考えそうだからな」

「何、したの」

「縛った。お前の人生を」

「ボクの?」

「いらないならくれよ。お前の人生を俺に」

 正直なところレイにはわからないという感想を抱いている。衝動的だという自覚もあった。

「煽った立場として聊かに不甲斐ないのだがね。大丈夫なのかい?」

 何故だろうか。そうしたほうがとても具合が良いと思った。

「後悔は絶対すると思う。けど、これ以外にすっきりする方法も浮かばなかった。これが俺の中で一番、良いと思ったんです」

 オキは満足そうに何度も頷いた。

「鬱屈を晴らすというのは爽快なものさ。私もいる。何でも相談してくれたまえ。私はできうる限り君たちの味方だよ。そのほうが面白いからね。やはり人間は素晴らしい。感情というエネルギーを生産し、消費しながらもその力を十全に扱うこともできず、けれども振り回され続ける生命体というわけでもない。見ていて飽きないよ。だからこそ、我々は感情を得たともいえる。嗚呼、とても愉快だ。やはり私は間違っていなかった」

 朗々と語るオキを無視して、レイはツカサを見下ろす。

「ツカサ。そういうことだから、諦めろ」

 ツカサは見上げていた。

 レイではない。

 夜空を見ていた。

 視点は揺れ動いている。

「うまく、飲み込めないよ。こんなの」

「まぁ、そうだろうな」

「こんなに良いの?」

「ん?」

「熱くて、でも気持ちが良くて、それでも胸が苦しくて、辛くて。なのに、どうしても不安なんだ。こんなにもいろんなものを貰って、いいの?」

「あげるわけじゃない。貸すだけだ。後で返してもらう。お前が術者として仕事をする限り、俺はお前から借りを取り立てていく」

「いいね。いいよ。レイ君。それは素晴らしい!」

「ちょっと興奮しないでくださいよ」

「嗚呼、だからこそ人は素晴らしい」

「ツカサ」

 レイは笑った。

 今の笑顔、心の底から笑えたな、などと他人事のように思った。

「ツカサ君、何を我慢しているかね!」

「ちょっとオキさん」

「泣きたまえ。君には感情があるのだから、存分に発散し、それから生きる糧を探せばいいのさ」

 この人はまったくどうしてこう、物好きというか。お節介というか。レイは顔をしかめた。

「レイ」

「ん」

「ありがとう」

 これからのことはわからない。けれども、今までよりは遥かに生きている実感を持っていけるかもしれない。

 感謝したい。けれども、レイは言葉には出せなかった。

 勝手に期待して勝手に落胆する。それでも今までより、大分マシな人生を送れるのではないか。

 それも期待か。

 レイは自嘲を飲み込み、ツカサを乱雑に撫でた。

「オキさん」

「何かね?」

「もう一人、いたよね。それに、姉さんのこと。わざと黙っていましたよね」

 レイの言葉に、オキは笑みを深めた。

 考えるのはやめよう。

 レイは意識から切り離した。

 具体的なことは何もない。けれどもどうしてだか、とても楽しい気分がレイを満たした。

 これから、どうしようか。



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