或る獣に、アンダーブルー

井ノ花淵暝

第0話 或る真昼の正午


 雨の止んだ真昼の正午



────或る少年は座りこんでいた。


 辺り一面は花に覆われ、少年は隠れる様に息をしていた。


 この廃棄された大地にはまるでそぐわないその花は、少年を囲うように広がっている。

 赤、赤、赤、または白や黄色、紫。

 まるで綺麗なドレスのよう。でも背伸びしたそのドレスは少年には不恰好だった。

 寒空は快晴。

 雲一見えない真っ青な空に似合わず、雨によって濡れた花弁がキラキラと眩しく火照る。


────少年はただじっと佇んでいた。


 その儚く柔らかい苦味のある匂いは、寒さと汗と鉄の中で釈然と少年に寄り添うように立つ。


────少年はただ、優しくそれを抱きしめていた。


 風は頬を濡らして、無造作に伸びた黒髪は辺りの花弁を微かに撫でた。


 少年は大きく息を吐いて、その分また大きく吸った。日常的に出来ていた呼吸も、忘れてしまったように肩で息をする。

 

 獣性ほんのうには、抗えない。


 忘れた日常を必死に反芻するように執着するように息をしていた。


 そう、毒を呑んでいた。

 薬にもなり得る毒を。

 名前も知らない。

 誰から渡されたのかも不明な、微量な毒を。


 「それでいい」と少年は口に出した。


 すでに濡れていた両頬はもう乾き、跡さえ残っていない。


────少年は


 この廃棄された大地にまるでそぐわないその花のように、


────少年は、ただかすかに笑っていた。



    ◸ ◿


 神殺しの時代。

 それは何世紀も前の話。

 今も尚続く遺産の起源であり、神災じんさいの初まりとも言える。

 神災とは未だこの地に残る神々の遺物から引き起こされる多大な影響を及ぼす災害だ。これは、悪い遺産である。

 またこの地には濃い魔力が残留して、奇跡の力と言われる魔法を扱える。だが、強大な力は人を選び扱えない者も多くいる。だがこれに関して言えば、良い遺産と言えるだろう。

 

 その争いは長々と続いていた。勝敗など虚しく、神々が勝ったとも、人間が勝ったとも言われているが、人智を越える力に叶うはずも無い。誰にでも分かる答えが真実だ。


 今この時代に残っているのは、数えきれないほどの人間と、神々の遺物。下界と上界。そんな時代があったと言う証拠。


 そして今の時代は神々の遺物が全てだ。力の証明であり、象徴だ。

 魔法が人を選ぶ必然的な奇跡であるのなら、神々の遺物は人を選ばない無差別的て無慈悲な奇跡である。

 一つでも手にすることができたのなら国を滅ぼすことができるとか、一生豪遊して暮らせるだとか、気候や季節さえ操れるとも言われている。

 実際にも冒険者、探求者、墜悼者ついとうしゃ、墜悼者協会などと呼ばれる神の遺物を追い求めるものが生まれている。





────廃棄水没地区・番外ロスタ、海女崖あまがけ


 あめよふれ。

 雨よふれ。

 雨よ降れ。


 快晴。雲一つ視界の端にも触れない。


 乾いた花だけが揺蕩う。


 「お久しぶりです。もう見飽きました?」


 崖の上にはお墓と言うにはちっぽけな墓石に見立てた岩が立っている。

 空に花弁を透かす。全く同じ色の花弁を。

 真っ青なヒナゲシの花をその墓石に添えた。


 雨は降らず。


「どんなに美しくても、ずっと見ていれば飽きてしまうものですよね」


 崖の下には広大な海が広がり、境界線がくっきりと見える。風の強いこの町では、崖の上から下を覗き込むだけで身体が投げ出されるだろう。

 ましてその下に美しいと思える景色が広がっていると言うのなら尚更。

 事実この「ロスタ、海女崖」は、観光地だった時は人気があったから運悪く落ちてしまったなんてことがありそうだ。不謹慎なことだが、有り得そうな話だ。

 

 と言うのも、この最南部の地は死の楽園。

 または、最果ての花園。

 ここはポピーの花畑があることで有名で、この花畑は限りなく続き、天上のような美しさで町全体を覆っている。

 それはまるで楽園のよう。

 これは地上だけの話ではなく、海の中も例外ではない。海の中にも花が咲いている。崖の上から海を除いて落ちてしまったという不慮の事故が無いと断言できない美しさだ。

 誰だって美しいものには目がないもので、まして危険が伴うというのは、その美しさに拍車をかけるに違いない。

 海は澄み渡り、水蓮の如くポピーが頭を揺らして水の中を揺蕩っている。

 それに風が強い訳だから。

 その証拠に、今も風のせいで荒ぶる髪の毛が視界を邪魔している。


 赤、赤、赤、または白や黄色、紫。

 地上にもこの崖の下と同じ夕焼けの、または暁色の花々の海がなびいている。


「飽きてもいいですけど、嫌いにはならないでいて。……また気が向いたら、いつか来ます。雨が降っている日にでも」


 快晴。

────でも雨は降らず。



 墓石が置いてあった崖から退きながら、ゆったりと歩く。

 まだ春に入りたてのこの町は寒い。まして今は朝の8時30分で、早起きした目は重く少し眩暈もする。自然に歩くスピードがもっとゆったりになっていく。

 ポピーの根がはる土を踏みしめ、花自体を踏まないように歩く。こんなに大量ならそこらに咲く雑草と変わりないはずなのに、無邪気に美しく揺らいで綺麗であろうとしている。慣れる事は恐ろしい事だ。来るかも分からないいつかに絶望してしまいそうになるから。


 崖の背後には風化し廃れた建物や塔が町を作っている。

 懐かしい風景は、心なしか足を軽くして心音を早める。もうする事はしたんだから、少し暇つぶしでもしていこう。

 

 子供の頃この町は全てが遊び場だった。

 

 水没地区という名を与えられた通り、町の半分は海水に浸かっている。だが、それ故に家の入り口が高い位置にあったり、行き来がしやすいように建物同士を上で繋ぐ橋や歩道が宙にできている。

 そんな場所をどんどんと家から家へ、お店から家へと進む。勿論人の気配など微塵もない。

 チグハグでパズルのようなこの住宅街の景観はなんと秘密基地感のあることか。


 ゆっくりと歩き、ジャンプして進んでいく。

 良いものがあるかと屋内へと侵入してみたりもする。大抵何もいいものなんてないし、瓦礫の下敷きになっているのが大半だ。

 橋から落ちても別に海水があるので怪我はしないが、服が濡れてしまうから気をつけないといけない。

 1番怖いのは建物が崩れる事だ。老化して錆びついた建物や橋は壊れる可能性が大いにある。今だって完璧に本来の形を保っている家はない。窓は割れているし、屋根がないなんて事はザラだ。


 角を曲がると、他の所よりも綺麗に保たれている階段が太陽に照らされて姿を現す。

 眩しい。

 階段の白は、太陽に反射して骨のように真っ白になっている。光の中を進む。

 天井が抜けて、壁一つ剥がれ落ちた綺麗な家だ。


 「月のエアル」


 つい口をついて出た言葉は、随分と丈夫な本棚の中にしまわれていた絵本の題名だ。

 本棚が丈夫であるように、この家はまだ元々の形が残っている方だ。

 坂城エアルの伝説や絵本、小説は多く出ている。『月のエアル』もまたそのうちの一つだ。彼女は皆んなの憧れであり、伝説でもある。だって今の時代の先駆者と言える彼女は、初めの神器と神の遺物の持ち主だから。


 その絵本を読み聞かせされながら子供の頃は眠りについていた。その記憶を思い出してもとより来ていた眠気が更に大きくなる。

 あくびをする。

 外に比べて家の中は少し暖かい。

 もう抑えが効かないほどの眠気に襲われて汚い床に故意に倒れ込む。太陽に照らされていた床は熱を持っている。

 その熱を流すまいと、冷たくなった手足、頬を擦り合わせる。そうしているうちに、穴が空いている壁と目があう。


 壁の穴からは、ポピーが入りきらないと言うように風に揺られせめぎ合っている風景が見える。もう見飽きたポピーから目を背けるように目を瞑る。

 ただ寒いと言う感覚が鈍り、太陽の日が差し込み柔らかく身体を照らす。


 死んでいるかのように浅く呼吸をする。

 その様は無機質で土の上で栄養になるのを待つ死骸。

 無人で人の気配一つない、この町はまるで死んでしまったんじゃないだろうか。人が居なくなれば、町も土地も死んでしまうのだろうか。

 死ぬことはこんなにも心地のいいものなのだろうか?

 ただ目を瞑る。

 風が花を揺らして花弁同士が触れ合う音が心地良く、家の中でも耳に届く。

 柔らかく騒めき、まるで自分のことなど見向きもしないように。

 心地の良い疎外感。

 身体が軽くなる。


 雨は降らず。

 雨音は一粒も聴こえない。

 だだその代わりにポピーが鳴っている。







 カーンカーンカーンカーン


 ゆっくりと瞼を開けて、瞬きをする。

 お昼の鐘がなる。

 それは太陽が真上を通過する頃だった。ここで俺は自分が何時間も寝てしまっていたことに気がついた。

 だが今は、そんな事よりも何で鐘が鳴ってるんだ? という疑問が何よりも重大だった。

 少し固まって、慌てて身体を起こす。

 急に起こした身体は立ちくらみと耳鳴りがしていたがそんなことを気にしている暇などない。

 この町の時計塔の鐘が鳴ったのだ。今や無人となったここの鐘が鳴ることは無いはずなのに。まして、立入禁止区域に指定されてからは観光する人など居ない。いるとしたら相当な阿呆だ。

 だが今はそんな思考は頭に無く、もしかしたら「鐘守り役の人が鐘を鳴らしているんじゃないか」という考えだけで身体が動いていた。


 そんな訳あるはずがないのに。

 期待が足を速めて、胸をうずうずさせる。


 こんなに全力で走るのは久しぶりで、今までに無いほど全力疾走で、塔の上までは魔法で浮きながら上がって行く。




「……」


「……」

 

「……阿良夜あらや坊ちゃん」


「……」


 見たことがある顔がそこにはあった。

 何故コイツがここに?

 阿良夜と呼ばれた青年は無言で見つめ返すだけで何も言わない。坊ちゃんと呼んだのはあまりお気に召さなかったらしい。

 そして自分自身も言葉が詰まっていた。


「……阿良夜?」


「……走ってくる必要はあったか」


 無表情でまるで興味など無いと突き放すような声色で、阿良夜は背を向け時計塔の端まで歩きながら言った。……嫌味ったらしく。


「なんだ、坊ちゃんって呼ばれるの睨むほど嫌なのか?」


 坊ちゃんと呼ばれ少し不機嫌そうな阿良夜が面白くてからかってしまう。からかいながらも時計塔の端に立つ阿良夜が危なっかしくて手が引ける距離まで近づく。


けい


 先程より低い声音だった。下に見えるポピーが阿良夜と写り、相まってそれは美しい絵画のようで息を呑んだ。見飽きたポピーも捨てたものではないな、と思う。


「……聞いてるか、景」


「なんだよ。てか廃棄区域である海女崖あまがけに居るだなんて、なんの用だよ」


「協会からの依頼の帰りだ。……近くを通ったから。明日は魔法学園ウラノスの試験だろう? 迎えに来たんだ、忘れていると思って」

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