第二話

「……という訳なのですが」

 少年を連れ帰る事をかたくなに訴えていたメガネの男――エリオット・ターナーが、クリスの両肩に手を置いて目の前の男の言葉を待っている。

 目の前の机にひじをついてクリスの方を見ているのは、男たちの上司である代理業社社長――ダグラス・アーサーだ。

 この会社は様々な組織や国家からの依頼を請け負い、裏工作や情報提供、作戦立案などを行う企業である。

 後暗い仕事も沢山あり、当然、子供に出来る仕事など何もない。

「ここは孤児院や保育園じゃないんだぞ」

 ダグラスの貫禄のある重厚な声が執務室に響く。

「けれど……」

 何かを言いかけて、エリオットが言葉を止めた。

 ダグラスはクリスを一瞥いちべつし、その格好に眉をひそめる。

「とりあえず、風呂に入れて新しい服を着させてやれ。話はその後だ」


 クリスがシャワーを浴びている間に、エリオットは急いで服を買いに行った。

 しかし、測ってもいないので寸法など分かるはずもない。

 エリオットはとりあえず小さいと困るだろうと、大きめのサイズを買う事にした。

 そして、服は一応会社の中なので、あまりラフな格好ではまずいだろうと、無難に白いシャツと黒いパンツを選ぶ。

 エリオットは、クリスが着る服がないのも不便だろうと、シャワーが終わる前に持って行きたいと帰路を急いだ。


 エリオットが戻った時には、クリスはシャワーを終えて、頭をタオルで乾かしている所だった。

 クリスは服を着ておらず、怪我をしてはいたが抜けるような白い肌が目に入って来る。

 エリオットは見てはいけない気がして、思わずクリスから目をそむけた。

「服を買って来たよ。サイズが合うといいんだけど」

 そう言うと、エリオットは目をそらしたまま、手に持った衣服を差し出した。


「着替え終わったよ」

 クリスの声にエリオットは振り向いた。

 そして、エリオットは魅入みいられたように、クリスの姿をまじまじと見る。

 クリスは、着替えただけで見違えるほど変わっていた。

 濡れた前髪が顔に張り付くのが邪魔だったのか、軽く上になでつけている。

 黒い髪、黒い瞳。

 そして、透けるように白い肌。

 恐ろしく綺麗な子だった。

 しかし、その瞳を覗き込もうとして、エリオットは背筋に恐怖にも似たゾワゾワしたものを感じ、思わず目をそらす。

 その瞳には全く何も感じられないのだ。

 諦めも、恐怖も、絶望も、憎しみも、そしてもちろん喜びさえも……。

 まるで感情がごっそりと削ぎ取られているように見えた。

「行こう」

 エリオットは目をそらしたまま声をかけると、クリスをうながして部屋を出た。


「ほう。化けたな」

 クリスを見るなり、ダグラスはデスクから立ち上がった。

 そして、ダグラスはクリスのあごを取り、顔をまじまじと見つめる。

「名前は?」

「クリス」

「フルネームは分かるか?」

「クリストファー・ラングレー」

 クリスは感情のない瞳で、真っ直ぐにダグラスを見返す。

「歳は?」

「八歳」

「読み書きは出来るか?」

「簡単なものなら」

「計算はどうだ?」

「お金を数えるくらいは」

 ダグラスは質問を終えると、クリスから手を離し、軽く後ろに押した。

「面白い。この少年を引き取る事にしよう。これくらいの歳から教育していけば優秀な人材に育つかもしれないしな」

 そう言って目を細める。

「まあ。ものにならなかったとしても、使い道は色々ありそうだ」

 ダグラスは近くに控える男を指で呼んだ。

「御用でしょうか?」

「明日からすぐに、働くのに必要な全ての授業を受けさせろ。学業にも問題がありそうなので、追加でそちらの授業も忘れずにな」

 その言葉に、男は戸惑いがちに尋ねた。

「全部と言いますと?」

「全部だよ。君もここに入った時に一通り受けただろう?」

「分かりました」

 男はゾワゾワとした気持ちを覚えつつ答えた。

「では、連れて行け」

 男はダグラスに促され、クリスを連れて部屋を出た。


 ここに来て、エリオットは自分のした事がどういう事なのかを理解した。

 おそらく、クリスを待っているは想像を絶する地獄だ。

「それは、拷問の訓練もという事ですか?」

 エリオットは声が震えるのを抑えられなかった。

 エリオットの心を占めているのは、後悔と罪悪感だ。

「そう聞こえなかったか?」

 ダグラスは言葉を返しながら、デスクに戻り椅子に腰かけた。

 拷問の授業とは、敵などに捕まり拷問を受けた際に、口を割らないよう耐性をつけるための授業だ。

「まだあんなに幼い子供ですよ?」

 エリオットには、クリスが耐えられるとはとても思えなかった。

 ダグラスは、まだなにか続けようとするエリオットを一瞥すると低い声で告げる。

「君はいつ私に意見が出来るほど偉くなったんだ?」

 エリオットは言いかけた言葉を飲み込んだ。

「うちの業務内容は国家規模の機密を扱う事も少なくない」

 ダグラスはデスクをコツコツと指で二回叩いた。

「ここに来た時点で、もうあの子の運命は二つしかなかったんだよ。殺されるか、地獄を味わうか……」

 エリオットは返す言葉も見つからなかった。

 ダグラスは、エリオットを嘲笑あざわらうように続けた。

「君のちっぽけな偽善心を満たすために、あの少年はどれだけつらい思いをするんだろうな」


 男はクリスを小さな部屋に通した。

 ベッド、サイドテーブル、シャワールーム、トイレ。

 そこには生活に必要と思われる全ての物が揃っていた。

 逆に言うと、それ以外には何もない部屋だった。

「今日はこれから身体検査と健康診断だ」

 男はクリスと目を合わせないようにして告げた。

「着替えの衣類は明日までには用意しておく。必要な物があればそこに書いておけ」

 そう言って、筆記具の置かれたサイドテーブルを指さした。

「それが終わったら、今日はゆっくり休め」

 男は部屋を出ると、外から鍵をかける。

 カチリ、とロックのかかる音を、クリスは部屋の中から聞いた。

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