第51話・運転台②

 教室へと向かっていると、美春が言いにくそうにおずおずと運転士になったと打ち明けた。夏子が美春の両手を掴み取ると、教科書が床に落ちてパラパラと拍手を送った。

「運転士になれたんやね! 美春ちゃん、おめでとう!」

 しかし美春は固く暗く今にも沈んでしまいそうで、夏子は首を傾げずにはいられなかった。

「お葬式で帰っとる千秋ちゃんと入れ替わりじゃけぇ、素直に喜べんわ……」

「それもあるかも知らんけど、新しい線路が開業すると、運転士が足らんようになるからやで?」


 美春は伏せていた目を見開いて、新線開業の話を記憶の片隅から掘り起こした。

「ほうじゃった。広島駅から宇品うじなまで、真っ直ぐ結ぶ線路を敷くんじゃったわ。うちは開業分の補充かね?」

 夏子が笑顔で頷くと、美春を覆った雲が晴れ、パァッと明るい陽が差した。秋の空よりコロコロ変わる表情は見ているだけで忙しない。

「千秋ちゃんは運転士を続けられるんね!? うちが千秋ちゃんの居場所を取ってしまったんじゃないんね!?」

「電鉄は千秋ちゃんを手放せんわ、優秀な運転士やさかい」

「今度の休みに新しい線路を下見しよう! 千秋ちゃんが帰って来たら、教えてあげるんじゃ!」

「そらええね! すぐ乗ることになっても大丈夫やな!」


 はしゃぐふたりのすぐそばでガラガラッと扉が鳴った。そこから先生がゆらりと現れ、仁王立ちしてふたりを見下ろす。

「休みの前に授業じゃ。教科書拾って、はよう教室に入らんかい」

 美春と夏子は大急ぎで教科書を拾い上げ、同級生の待つ教室へと入っていった。


 *  *  *


 午後、運転士としてはじめての乗務。組む車掌は──

「夏子ちゃんと一緒なんね!? はじめての電車に夏子ちゃんと乗れるなんて、うち嬉しいわ!」

 美春は歓喜のあまり、夏子の両手を掴んで飛び跳ねている。それが乗務員の注目を集めるものだから、はにかむばかりの夏子である。

「そんなに喜ばれると、恥ずかしいわ。はじめは交代からやね」

「一緒に出場するんじゃね! もう今から楽しみじゃ!」


 交代のため停留所に立つと、小さな車体を揺らしながら担当電車がやって来た。扉が開くと同時に前任乗務員をねぎらうと、彼らの視線は夏子に向けられた。

「安田君、ついに運転士になったんか? おめでとう、頑張りや」

 夏子が困った顔をしたので前任者は眉をひそめつつ、どうしたのかと美春に目を向けた。

「うちが運転士です、お疲れ様でした」

「ええっ!? 森島君かいな!?」

「冬先生のお墨付きじゃ、上がってつかぁさい」


 注意を引いたのは、乗務員だけではなかった。ふたり揃って電車に乗って、むくれた美春が運転台に立つと、客室内はヒソヒソとした喧騒に包まれた。

「あんな小さなが運転するんかね」

「見てみい、兎跳びのじゃ」

「あっちのお下げのじゃないんか」

「大丈夫なんかね……」

 怯えた視線が背中にチクチク刺さって、美春は堪らず客室を向いた。

「チビでも今日から運転士じゃ! 安全運転するけぇ、安心してください!」


 見かねた夏子が運転台へと歩み寄り、歯を剥く美春の肩を軽く叩いた。

「美春ちゃん、肩の力を抜いていこうや。安全も信頼も築くものやさかい、運転で見せたらええ」

 美春が強く頷くと、夏子はニッと笑って後ろに戻り、鐘の紐へと手を伸ばす。


 チン、チン。


 前を見据えてブレーキを緩め、コントローラを一段、慎重に投入する。電車は唸りを上げて加速をはじめた。街並みが流れ、留まる景色が小さくなって風を切る。


 ああ……。電車の運転って、こんな気持ちええものじゃったんか……。


「次は大学前です! お降りの方はございませんか!?」

 姿の見えぬ夏子の声が、美春の背中に寄り添った。前だけしか見えていないが決してひとりではない、乗客から美春までを夏子がまるごと抱えている、そう思わせてくれる声だった。

 うちはお客さんから夏子ちゃんまで、まるごと背負っとる。前と後ろが信頼で繋がっとる、これが電車の運転なんじゃ。


 停留所に客がいる。コントローラをオフにして遠め長めにブレーキを掛ける。回る車輪にあらがってブレーキシューが微かに鳴いた。

 目標は停留所の先端、ハンドルを戻して締めたブレーキを少しずつ緩める。

 もう、これ以上は緩められない。美春は右足を浮かせてラチェットを掛け、ブレーキハンドルを固定した。

 電車は、停留所に滑り込むように停止した。

己斐こい行きです」

 扉とともに放たれた夏子の声に、美春は深々と息を吐いた。


 我ながら衝動のない、ええブレーキじゃ。電車もええし、何より車掌が夏子ちゃんっちゅうのがええ。はじめの運転士乗務、ええ日になるわ。


 しかし、すぐさま発車の鐘が鳴らされた。

「美春ちゃん、次の本駅前行きに乗るんやて」

 美春は膝から崩れ落ちそうになっていた。

「幸先悪いのう……まぁ、うちらしいわい」

 ラチェットを外してブレーキを緩め、一段だけと慎重にコントローラを投入した。


 *  *  *


 本社前、夏子が電車から降りて美春に手を振り事務所へ向かう。美春は振り返した手でハンドルを握り、電車を車庫へと仕舞っていった。

「一緒に帰ろうね!」

「うん! 待っとる! 焦らんでええよ!」

 美春の仕事がすぐに済むかも知れないからと、夏子は急いで経理に向かって精算をする。そこへゆらりと現れたのは、冬先生だ。

「どうじゃ、森島君の運転は」

「ええ運転でした、はじめてとは思えません」

 そうか、とだけ呟いた冬先生は顎に手を当て、しばらく黙ってから口を開いた。

「安田君。当分の間、森島君と組んでくれんか」

「構いませんけど、何でですか?」

「また電車を壊されたら堪らんけぇの。お目付け役として、面倒を見てくれ」


 なるほど、そういう意味の組み合わせかと夏子は苦笑するばかりであった。きっと次の乗務も

「今日も夏子ちゃんと一緒じゃ!」

と、美春はわけも分からず飛び跳ねるのだろう。

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