第50話・運転台①

 千秋は女学校で家族と顔を合わせ、翌朝宇品港で小さくなった父と対面し、島根の家へと帰っていった。女学生一同は貴重な授業が手につかないほど心配し、その合間は千秋の話に費やされた。


 いつも一緒の美春と千秋も、重たい枷に掛けられている。千秋自身は大丈夫か、大黒柱を失った家は大丈夫なのか、帰ってきたら何と声を掛ければいいのか、そもそも千秋は家政女学校に帰ってくるのか……。

 考えた末、美春はスクッと立ち上がり鼻息荒く言い放った。

「千秋ちゃんは帰ってくるよ! うちらのことが大好きで、学校も仕事も大好きなんじゃ! 絶対に帰ってくる!」


 授業中だった。


 美春は水を打ったような静寂の中、丸くした目の機銃掃射を浴びている。

「森島君、友達を思いやるのはええことじゃけんど、今はこれを答えてくれんかね?」

 苦虫を噛み潰してうめいた美春は、トボトボと黒板に向かっていった。


 その日の午後、乗務のため出勤すると真っ黒い壁が美春の前に立ちはだかった。恐る恐る見上げると、冷たく鋭い眼光が美春の四肢に突き刺さった。

「今日は吉川君の補充じゃ、宜しく頼む」

 冬先生だ。

 友達と会社が大変なときに、直訴などと言っていられない。今日は時機ではない、日を改めようと断念した。


 千秋ちゃんと比べたら、うちなんかは比べものにならんくらい、ちっぽけな悩みじゃ。今は千秋ちゃんの不安を少しでも払えるよう、うちがしっかりせないかんのじゃ。


 そこへ冬先生が、温度のない声を掛けた。

「森島君、今日も気合いが入っとるのう」

「そりゃあ大事な仕事じゃけぇ! 千秋ちゃんが忌引きびきしとる今こそ、一所懸命やらなぁいかん!」

 冬先生は暖かな眼差しを美春に注いで、薄い肩にそっと触れた。

「森島君はずっと、誰よりも努力しとった。その努力は、しっかり身についとる。意識せんでも、息するように発揮出来るわい」


 美春は、ハッとさせられた。

 兄を電車に乗せたとき、千秋が「普段どおりの姿を見せたって」と言った意味を美春は解した。運転士を目指そうと、兄にいいところを見せようと、見習いの手本にならなければと、誰にも迷惑を掛けまいと、誰よりも劣っているからと……。


 愛おしそうに冬先生が微笑むと、美春の劣等感が砕け散り、姿かたちを自信に変えて、爪の先にまで沁み渡った。


「ええ顔じゃ。行くぞ、森島君」

「はい!」

「まだ固いのぅ、わしを吉川君だと思わんか」

 美春は堪らずプッと吹き出し、腹を抱えてケラケラと笑い出した。

「冬先生を千秋ちゃんだとは思えんわ!」

「うるさいわ! 時間じゃ、ええから行くぞ」


 冬先生がもたらした雪解けは、美春に新しい季節を迎えさせた。何て気持ちいい、何て楽しい、何て自信に満ち溢れた仕事なのだと。


 静寂の夜、美春が客に向けて声を上げる。

「次は本社前、終点でございます!」

 警鐘フートゴングが「チン、チン、チン」と鳴ったので、美春はいぶかしげに運転台へやって来た。

「どうしたん? 冬先生」

 冬先生は停留所に電車を停めると、降りる客の切符を集めた。自分の仕事を鮮やかに奪われて、美春は唇を噛んで立ち尽くすのみである。


 集札を終えた冬先生は、客室の後方へ向かっていった。

「冬先生!? 運転は!?」

「森島君、やってみんさい」

 冬先生は車両側面を確認し、発車の鐘を美春に送った。


 チン、チン。


 みんなから、たくさん教わった。大丈夫じゃ、うちには出来る。


 美春は運転台に立ち、正面を見据えた。

 進路、左右、直下に異常なし。

 ハンドルを回してブレーキを緩め、間髪入れずにコントローラを1ノッチ投入。すぐさまモータが唸りを上げて1ノッチの限界速度に到達する。

 今じゃ、2ノッチ。

「次は本社前、終点でございます」

 冬先生の野太い声が、小さな電車に響き渡る。

 3ノッチ。電車はみるみる速度を上げて、本社前停留所へと迫っていく。


 前面窓に映り込んだ冬先生は車掌の業務に徹しており、運転のすべてを美春に委ねている。ブレーキ操作は、美春の意志がすべてであった。

 ノッチオフ、モータは鳴りやみ惰性で回るだけである。踏みつけたラチェットを外してブレーキハンドルを回していく。

 ブレーキシューが車輪に噛みつき、電車は減速していった。

 速度が下がるとブレーキも効いてくる。緩めなければ、遥か手前で急停車をしてしまう。

 少しずつハンドルを戻し、低下した速度に合わせてブレーキを緩めていく。


 ズズズズズ……──。


 ブレーキへの最後の抵抗と言わんばかりに車輪が鳴いて、電車は停留所に滑り込んだ。美春と冬先生が扉を開けて、乗客をひとりひとり降ろしていった。

 すべての客を降ろし終えると、冬先生は美春にゆっくりと歩み寄った。

「森島君、明日から運転士をやれ」

 美春は言葉を失った。それはありきたりな動揺か、衝撃か、感動なのか、それとも言葉にはない感情なのか、それは美春にさえわからなかった。


 冬先生が精算のため電車を降りた。ひとりきりになった美春は、入り乱れた感情が形を持って、寂しそうに呟いた。

「うちは、千秋ちゃんの運転台を奪ってしまったんかね……こんなん、ちっとも嬉しくないわい」

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