シンフォニー・シグナス

 遠く、はくちょう座の方からヴァイオリンとホルンの音色が零れ落ちては聴こえてきます。蜂飼いはふと顔を上げ、蜂たちと共にその音色に耳を傾けておりました。


「運命の主題、だね。慰め、ひとすじの光……いや、希望はない、そう遙か遠くで巨匠はノートに記したそうだ」


 遠い昔、楽団にいた蜂飼いはそのメロディもしっかりと覚えておりました。しかし相棒のチェロは今もう此処にはおりません。仲間たちが幾度も幾度も彼を呼び戻しに訪れるのですが、その度に蜂飼いはのらりくらりとその誘いを断るのです。


「いらっしゃい、ぼくは蜂飼い」


 その音に引き寄せられたのでしょうか。川沿いにひとりの女性がぼんやりと佇んでおりました。黒と薄く水色の入った白のチュールが何層にもなった膝丈のチュチュを纏い、翼のような両の腕をだらんと下げております。

 まるで、自分がどうして此処にいるのかも理解できないというような表情です。いえ、此処へやってくるニンゲンはたいていがなぜやってきたのかも知らないのですが、彼女の表情はいつもの彼らのその何倍も、要領を得ていないといった有様のように見えました。

 雪のような真っ白な頬は、少しやつれ気味に見えます。力なく彼女が蜂飼いに目を合わせると、彼女のお腹がぐぅ〜っとなったのが聞こえてきました。


「あゝ、命の音だね。きみはようやく、ありのままに生きてゆけるんだ」


 そうして、少しばかりもぞもぞと恥ずかしがる様子を見せた彼女に微笑むと、金色と青色に光る小さなふたつの飴を彼女に差し出しました。けれども、彼女はそれを掴んでいいものかどうか、迷い戸惑っているようでした。


「アルビレオの飴だよ、きみの失った声をきっと取り戻してくれる」


 そっと蜂飼いは目配せをして、彼女の口元までふたつの飴を持ってゆきます。翼になった腕では、飴を掴むことが叶わなかったからです。

 軽やかにほろほろと溶ける優しい甘さに、彼女の口元がふわりととろけました。


「おいしい……」

「そうだよ、ほら、もう食べることも何も、怖くはないでしょう?」


 蜂飼いの言葉に、どうしてだかわかりませんが彼女ははらはらと涙を零しました。覚えていないけれど、とても苦しくて、何も口にすることができず、ひたすら怖かったような記憶だけが頭の隅にこびりついているようなのです。


「だいじょうぶ、きみはとても美しいよ。主役をもらうデネブの輝きは皆の憧れだけれど、いのちの輝きにまさるものはないのさ」


 蜂飼いがそっとその翼になった腕をとると、まるで羽のような軽さでした。彼女は何も想い出せないままに、けれどなんだか胸のつかえが解けていったような気持ちで声を上げて泣きました。

 これまで出すことができなかったぶんを、それはもう大声で泣きあげたのです。

 蜂たちは、その彼女の溢れでる涙をそっと集めては、めいめいに抱えて巣箱へと運んでゆきました。


「どう? 食べられそう?」

「ええ、なんだかとってもお腹が空いちゃった」

「いいこといいこと、ではぼくがこんばんはとびっきりをご馳走してあげよう。ついておいで」


 ちょうど炉座にいつもはかまえている、粉もん屋の屋台が火星の裏にまでやってきていたのです。


「こんばんは、蜂飼い。おや、今夜はどうにも美人さんがやってきたね」

「やあ粉もん屋、とっておきにうまいのを頼むよ」

「まかせなって。どうかな美人さん、うどんとそば玉があるけれども」

「どちらも初めて聴くお名前だわ、おすすめはどちらかしら」

「ではそば玉でいこう。食べたことないってんならより気合が入るなぁ」


 粉もん屋は嬉しそうに、目の前の熱々の鉄板にキャベツやもやし、そば玉にお肉を広げて炒めます。そこに山芋と出汁を練り込んだ生地、そして艶々の卵を割り入れました。へらを器用に手早く動かしていけば、じゃっじゃっ、じゅううという音と、ふんわりした香ばしい香りが広がりました。


「へい、お待ちよ」

「いただきます」「いただきます」

「モダン焼きさ、サービスで牡蠣も入れたんだ」

「おいしい、なんだかとっても悪いことをしているみたい」

「何にも、悪くなんてないんだよ」


 ふわふわのキャベツとお出汁のしみた生地に、そばのボリュームとたっぷりかかったソゥスの風味が食欲をそそります。おどる鰹節まではぐっと口にふくんでは、美味しい美味しいと彼女は夢中で食べました。蜂飼いも嬉しそうにそれを眺めてはモダン焼きを口に運んでおります。

 もうずっとこんな美味しいものは食べたことがないような気分でした。そしてまた彼女は、きゅうっと胸が苦しいような変な気持ちになって、少しばかり涙を流しておりました。


「ひどく悩み苦しむきみの己へのきびしさ。美しいとの賞賛から、もう羽ばたいていいんだよ。これからは好きにお食べ」


 彼女の瞳にはアルビレオの輝きが宿っておりました。

 

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