壁の歌を聴け

渚 孝人

第1話

「風の歌を聴け」と言えば、村上春樹さんのデビュー作である。

でも僕は聴いたのだ、風ではなく壁が歌うのを。


僕が大学生の時に住んでいたのは、築50年のおんぼろアパートだった。雨が降ったらすぐに雨漏りするし、夏にはゴキブリさんたちがこんにちはするようなひどいアパートだったが、親に仕送りをしてもらっている身分である以上文句は言えなかった。


大学生になり、サークルの新入生歓迎会があった夜、僕は先輩たちにしこたま飲まされて、ぐでんぐでんになって帰ってきた。え、ハタチになってないのに酒なんか飲んだらダメだろう!ですって?飲んだのが酒だなんてひとことも書いてませんよ笑


で、僕は帰宅するなり布団へ倒れこんだのだが、

「まあ、風呂ぐらいは入ってから寝るか。」と思い直してよろよろと立ち上がった。


その時、布団の端っこを踏んづけた僕は前につんのめり、壁に思い切り頭をぶつけてしまった。

「いって〜!!!」と言って、僕は体を起こそうとした。しかしその時、壁の奥から何か音がしていることに、気がついた。


何だろう、と思って壁に耳を押し当ててみると、どうやら誰かが歌っているようなのだが、僕の頭がはっきりしていないせいか上手く聞き取れない。壁の方向からしてその歌を歌っているのは、隣に住む西村さんのようだ。


「なんか西村さんのイメージと違うなあ。」と僕はつぶやいた。隣の西村さんは40代半ばぐらいのサラリーマンで、髪を綺麗な73分けにしている真面目そうなおじさんだった。


そんな西村さんが歌を歌っているとなると、どんな歌なのか少し気になってくる。僕は流しで水を飲んで頭をはっきりさせ、もう一度壁に耳をくっつけてみた。その時僕の耳に聞こえてきたのは、人生で一度も聞いたことがないほど変な歌だった。


「おいらは壁だよホホイのホイ!おいらは壁だよホホイのホイ!」

な、何なんだこの歌は、と僕は思った。自分の中で西村さんのキャラが崩壊して行く。おいらは壁だよっておじさんが歌ってると考えると草が生えてしまう。


その後も壁に耳をつけてしばらく聴いていたのだが、西村さんは飽きもせずずっと同じフレーズを歌い続けていた。

すげーな、西村さんてこんな面白い人だったんだ、と僕は思った。ずっとカタブツで冗談が通じない人だと思っていたけど、もしかしたら楽しい人なのかも知れない、と思って、僕はふっと笑ってしまった。




翌日の朝、燃えるゴミを出しにゴミ捨て場へ行くと、ちょうど西村さんもゴミ袋を抱えて出てきた所だった。朝からしっかりスーツを着てネクタイを締めている。


いつもの僕であれば軽く会釈をするだけだったが、その日は話しかけるチャンスだと思い、

「西村さん、おはようございます!」と元気に挨拶した。


西村さんは少し面食らったような顔をして、

「お、おはよう。」と答えた。

僕は少しニヤニヤしながら、

「西村さん、昨日聞いちゃいましたよ〜、面白い歌歌ってるの。」と言った。


「え?」と言って西村さんは固まった。

「なんの話かな?」

僕は相変わらずニヤニヤしながら、

「やだなあ、とぼけないで下さいよ〜。おいらは壁だよホホイのホイ!っていうやつですよー。」と言った。


西村さんはしばらくの間固まったまま、まるで宇宙人でも見るような目つきで僕のことを見ていた。僕も「え、何この空気?」と思いながら西村さんを見つめていた。


約1分が経過した後、西村さんは

「すまんが、ちょっと何言ってるか分からない。」と言って、ゴミを捨てて歩いて行ってしまった。

出た!サンドイッチマンのやつ!と僕は心の中で突っ込んだが、西村さんの話し方はどう考えてもふざけているようには聞こえなかった。

あれは、絶対西村さんの部屋の方から聞こえてきたのに、と僕は思った。




大学の授業を終えて帰宅すると、僕は布団の上であぐらをかいて考え込んだ。昨日のあの歌は一体なんだったのだろう、と僕は思った。可能性は多分次の2つのうちのどちらかだ。

1.西村さんは実際にはあの変な歌を歌っていたのだが、僕の前ではカッコつけて知らないフリをした。

2.あの歌は西村さんが歌ったものではない。


普通に考えれば1が有力だったが、今朝の西村さんは恥ずかしさを誤魔化しているようには見えなかった。むしろ本気で当惑しているような感じだった。とすると2なのか?


いやいや、じゃあ誰が歌ってたっていうんだよ?と僕は自分に問いかけた。あれは絶対に空耳なんかではない。僕は腕組みをして、例の壁をにらみつけ、ごくりとツバを飲み込んだ。改めてみても、何の変哲もない普通の壁である。


僕は昨日のように、壁にそっと耳を押し当てた。その時聞こえてきたのは、昨日とはまた違う、摩訶不思議な歌だった。


「かーべ〜、かべかべかべ〜、かべかべ〜、かべかべ〜!」


いや、これ有名なサッカーの応援歌のパクリじゃねえか!と僕は思った。しかし一番重要なのは、これは西村さんが歌っているのではない、という間違えようのない事実だった。西村さんはいつも残業をしているので、7時以降にならないと帰宅してこない。僕は気味が悪くなって、壁から離れて後ずさりした。


一体全体、この奇妙な歌を歌っているのは何者なんだ?

「ま、まさか...」と僕はつぶやいた。

昨日の歌も今日の歌も、共通しているのはやたら壁を押してくる、という事だった。とすると、まさかのまさかだが、歌っているのは壁そのものなのか!?


いやいやあり得ない、落ち着けタクマ、と僕は自分に言い聞かせた。壁が歌を歌う?そんな話は聞いたことがない。では一体誰なのだろう。


僕はしばらく考えて、本人に聞いてみればいいじゃないか、という結論に至った。向こうの歌が聞こえるということは、つまりこちらの声も向こうに聞こえるということである。僕は壁に口を押し当てて、

「あのー、歌っているところ申し訳ありませんが、ちょっとよろしいでしょうか?」と言ってみた。


すると、サッカーのパクリソングはぴたりと止まり、その誰かは沈黙した。そりゃそうだろうな、と僕は思った。一人で気持ち良く歌っている時に誰かに聞かれていたら、誰だって恥ずかしくなってしまう。


やがてその誰かは、

「ま、まさか私の歌を聴いていたのかい?」と僕に尋ねた。声を聞いてみると、やはり西村さんとは違うようで、深みのあるダンディーな声だった。


「そうなんです、昨日の夜偶然あなたの歌を聞いてしまいまして。あなたは一体全体何者なんですか?」と僕は思い切って聞いてみた。

「私は壁だが、どうかしたかね?」と声は普通に言った。


えーーーーー!!!!!

マジで壁なのかよ、と僕は驚愕した。これはきっと人類史上(壁史上かも知れない)最大の発見だ。壁が話すなんてみたことも聞いたこともない。僕は興奮が止まらなくなった。


「ほ、本当ですか?」

「ウソなんてつかんよ。かれこれ50年はここに住んでいる。」

50年というと、確かにこのアパートが建ってからの年月と一致する。となるとこの壁は結構おじさんなのか、と僕は思った。


「あの、お名前はなんていうんですか?」

「うーん、決まった名前はないが、あだ名であれば色々あるぞ。おかべとか、かべっちとか、ジョージ・ウォールとかな。」


いやおやじギャグかよ、と僕は思ったが、

「そしたらかべっちで呼ばせてもらってもいいですか?おかべはクラスメイトでいるし、ジョージ・ウォールはなんかカッコ良すぎるんで。」と聞いてみた。

すると声は、

「お、大丈夫だよ。あと敬語も使わんでよろしい。我々の世界には上下関係は存在しないからな。」と言ってくれた。

「あ、じゃあ遠慮なく。」と言ってから、僕は少し不思議に思い、

「あだ名があるってことは、壁の世界にも友達がいるってこと?」と尋ねてみた。

かべっちはさも当たり前だと言わんばかりに、

「そりゃそうだよ君、一人で50年も生きていたら暇でしょうがない。」と言った。


「まあ確かにそーだけど、連絡はどうやって取るの?かべっちはここから動けないでしょ?」

「実は壁の世界には人間界よりずっと前からインターネットのようなものがあってな、実際に会わなくても意思疎通が出来る仕組みがあるんだよ。」とかべっちは教えてくれた。


ほえ〜、すげえ!!と僕は思った。壁の世界って、もしかしたら想像よりずっと進んでいるのかも知れない。

「壁ってすごいんだなあ。」と僕は思わずつぶやた。

かべっちは誇らしげに、

「まあだてに50年も生きとらんよ。分からんことがあったら、何でも私に聞いてくれ。」と言った。

そしてこのようにして、僕とかべっちの不思議な共同生活が始まったのだった。




僕はいつも朝寝坊で、目覚ましを止めて2度寝してしまうのだが、そんな時はいつもかべっちが、

「おいタクマ、いつまで寝とるんだ。はよ起きなさい!」と言ってくれた。

「え~、もーちょっと寝かせてよ~。」と言いながら僕は渋々起きて時計を確認し、

「やっべ、あと15分しかない!」と慌てて準備を始める。

トーストを口にくわえたまま、

「じゃあ、かべっち行ってくるわ!」と僕が言うと

「気をつけてな。」とかべっちは優しく送り出してくれる。


春は窓から2人(?)で桜を見ながら、だんごを食べてのんびりとした。

かべっちは壁の世界の情報網で桜の穴場スポットをたくさん知っていたので、サークルの花見会で僕がとびきりのスポットを確保したら、先輩たちに驚かれた。

「ワタナベよくこんな場所知ってたな!桜はすごい綺麗だし人は居ないし本当に最高だなここ。」

「いやー、実はアパートの隣人にここら辺に詳しいおじさんがいましてね、その人が色々教えてくれるんですよ。」と言って僕は頭をかいた。


夏になると前にも書いたようにそのおんぼろアパートにはゴキブリさんがたくさん登場したが、そんな時はかべっちと僕の連携プレーだ。

「かべっち!見失っちゃったよどうしよう。」

「うーん、今タンスの後ろに隠れとるから少し待ちたまえ。ゴキブリホイホイをそこに置いておけばよろしい。」てな感じで、被害を最小限に食い止めることが出来た。


汗をかいた後は、2人で窓から打ち上げ花火を見て楽しんだ。

僕がビールを飲んでいると、かべっちも飲みたいというのでかべにビールをぶっかけて飲ませてあげた。

かべっちは20年ぶりに飲んだと言ってとても喜んでくれて、僕らは一緒に壁の歌を歌っておおはしゃぎした。しかし調子に乗ってビールをかけすぎたせいで西村さんの部屋の壁までしみてしまい、翌日大家さんに大目玉を食らうことになってしまった。


秋には読書の秋ということで、僕の買ってきた本を声に出して読みながら2人で満月を眺めた。

かべっちは博識で、小説の作者に関する生い立ちとかエピソードとかを教えてくれた。おかげで飲み会の時に豆知識を披露することができるようになった。


冬には外は雪が降り積もり、僕たちは部屋でヒーターに当たりながらミカンをむいた。

壁にみかんを押し当てると、

「おお、この感触は久しぶりだな。」と言ってかべっちは喜んでくれた。

そんな風にして、季節は過ぎて行った。


僕は大学を卒業したが、アパートから引っ越したくなかったので、そのまま同じ土地の企業に就職した。

かべっちは、

「タクマの人生なんだから、タクマが働きたい会社で働きなさい。もっと大企業とかの方がいいんじゃないのかい?」と言ってくれたのだが、

「いや、俺はここのアパートでかべっちと話してるのが好きだから、いいんだよ。」と僕は笑顔で答えた。




月日は流れ、僕は25歳になっていた。

ある朝僕が寝ている時に、それは突然起こった。

ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ


「タクマ、起きなさい!地震だ、早く逃げるんだ!」というかべっちの声がして、僕は飛び起きた。

「か、かべっちはどうするの?」と僕が寝ぼけたまま尋ねると、

「私は大丈夫だから、早くこのアパートから出るんだ!」とかべっちは叫んだ。


1階まで降りて外に出てみると、そこには西村さんを始めとしたアパートの住人たちが命からがら逃げだしてきていた。

「おお、ワタナベ君、無事だったか。」と西村さんに言われ、僕は青くなってうなずいた。

そんなことより、まだ中にかべっちがいるのに・・・という、それだけしか考えられなかった。


それから、わずか30秒後の事だった。

2階の部屋から火が出て、みるみるうちに燃え広がっていく。恐らく誰かが火をつけっぱなしにしたまま逃げ出してしまったのだろう。

「あーーーー!!!!!」

「嘘だろ・・・」

アパートから逃げ出してきた住人たちから、絶望の声がもれる。


僕はとっさに、自分の部屋へ駆け戻ろうとした。

かべっちが、まだかべっちが中にいるんだ!!と僕は思った。

だがその時、誰かが僕の腕を後ろからつかんだ。

振り返るとそれは西村さんだった。


「西村さん、行かせて下さい!僕はあの部屋に戻らなくちゃいけないんです!」と僕は叫んだ。

「ダメだ!」と西村さんも叫び返した。

「もしここで君を行かせたら、僕は君の家族や友人に会わせる顔がない!絶対に行かせないからな!」

僕は泣き叫び、そんな僕を西村さんは後ろから抱き止めた。

そこへ消防隊が到着し、決死の消火活動が開始されたが、勢いを増す火は燃え盛るばかりだった。

約1時間後、決死の消火もむなしく、僕の住んでいたおんぼろアパートは全焼した。




それから1か月が過ぎ、僕はかつておんぼろアパートがあった場所へ通りかかった。

街はすでに復興に向けて歩み始め、にぎわいを取り戻しつつあった。しかしその場所にはかつてのアパートの残骸が残ったままだ。

僕も新しいアパートでの生活を始めていたが、僕の心は、ずっと立ち止まったままだった。あの時かべっちを置きざりにしてしまった事が、まるで鋭いトゲのように刺さっていたのだった。


「ごめんなあ、かべっち。」と僕はアパートの残骸を見ながらつぶやいた。

「あんなにお世話になったのに、かべっちを置いて逃げるなんて、本当にひどい奴だよな。」

東の方から吹いてきた一陣の風が、僕の髪を軽く揺らした。


その時だった。

「いいんだよ、気にせんで。」という声が聞こえたのは。


僕は慌てて辺りを見回したが、当然かべっちの姿はない。野良猫が横を通り過ぎて行っただけだ。

「か、かべっちなの!?どこにいるの?」と僕は空に尋ねた。

「そろそろ天国に行こうかと思ってたんだけどな、ちょうどタクマの姿が見えたもんだから、最後にちょっとだけ挨拶しとこうかと思ったんだよ。」と、どこからかかべっちは言った。


気がつくと、僕は両頬に涙を流していた。泣くものかと思っていても、涙があふれて来て止まらなかった。

「おいおい、そんなに泣かれたら行きにくいじゃないか。」と言ってかべっちは笑った。

「な、泣いてなんかないし。ただ目にゴミが入っただけだから。」と僕は強がった。


「タクマ、ありがとうな。君と過ごした時間は、私の宝物だ。50年間の壁人生の中で、最後に最高の日々を過ごさせてもらったよ。」とかべっちは言った。

「そんな・・・お礼を言わなくちゃいけないのはこっちだよ。」と僕はかすれる声で答えた。

「タクマ、幸せになってくれ。私は壁の天国で楽しく暮らすから、心配せんでよろしい。」とかべっちは言ってくれた。

「かべっち、本当に、本当にありがとう!」と僕は空に向かって叫んだ。女の人が僕を変な目で見ながら通り過ぎて行ったが、気になんてするものか。


「お、そろそろ行かなくちゃな。じゃあ、達者でな、タクマ。」とかべっちは言った。そしてそれがかべっちの、最後の言葉になった。


僕はしばらくその場所に立ち尽くし、空を見上げたまま泣いていた。

涙があふれ、そして枯れるまで、僕はそこにただ立っていた。

ようやく涙が出なくなると、僕は目を閉じて唇をぐっと噛みしめ、自分を納得させるようにうなずいた。


そして小さい声でつぶやいた。

かべっち、忘れないよ。

そして僕は一歩ずつ、未来へ向かって歩き始めた。

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壁の歌を聴け 渚 孝人 @basketpianoman

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