男難の侯爵令嬢は囚われの籠の中

紫陽花

第1話

「お嬢さん、可哀想に」


 ある日、街の大通りで馬車に乗ろうとしたところ、辻占いの老婆からいきなりそんなことを言われた。


 真っ黒なローブを身に纏った、いかにも怪しい占い師のことなんて無視すればよかったのかもしれないが、私はつい反応してしまった。


「──私が、可哀想?」

「ああ、お嬢さんの目の下の二連の黒子ほくろ。男難の相だ」

「男難の相……?」


 私が怪訝そうに眉を顰めると、占い師は大きく頷いた。


「お嬢さんは男のせいで不幸になる星の下に生まれておる。悪い男に纏わりつかれて逃げられない」


 こんな言葉、きっとでまかせだ。こうして不安な気持ちにさせた後、「不幸から逃れるためには、この御守りを買うといい」などと高額なインチキ商品を買わせようとする話は少なくない。


 そう思ったものの、フードの下から覗く白濁した瞳に見据えられ、私はぞくりと鳥肌が立つのを感じた。


「それは……」


 私が占い師に尋ねようとしたとき、左隣にいた私の護衛騎士が遮った。


「これ以上、お嬢様に近づくな」


 護衛騎士のヴィンセントが、よく磨かれた長剣を占い師の顔面に突きつけ、鋭い眼光で睨みつける。


 すると、右隣にいた幼馴染の公爵令息マリウス様がヴィンセントの腕に手を掛けた。


「やりすぎだよ、ヴィンセント殿。たかが占い師の戯れ言じゃないか」


 ヴィンセントはなおも占い師に剣を向けたままだったが、私が「大丈夫だから」と伝えると、ようやく剣を下ろした。


「あの、怖がらせてしまってごめんなさい。私たちはもう行きますので……」


 気まずい空気の中、その場を離れようとする私に占い師は同情するような目を向けた後、「可哀想に……」と呟きながらローブのフードを深く下ろして顔を隠してしまった。


「大丈夫だよ、オデット。僕が君をそんな目に遭わせない」


 そう言って慰めてくれるマリウス様にエスコートされ、占い師の言葉が妙に気になりながらも、私は馬車へと乗り込んだのだった。



◇◇◇



 それから二週間後、私は綺麗に咲き揃った薔薇を鑑賞するために屋敷の庭を歩いていた。隣では、いつものように護衛騎士のヴィンセントが付き添ってくれている。


 ヴィンセントはクレージュ子爵家の三男で、我がローラン侯爵家の騎士団に所属する騎士だ。二年前から私の護衛騎士を務めてくれている。私よりも五歳年上で、頼れる兄のような存在だ。


 けれど、極めて冷静な性格であるうえに、黒眼黒髪でいつも黒色の騎士服を纏っているせいか、周りからは「黒騎士」と呼ばれて怖がられているらしい。


 実際はとても優しい人なのに、本当の姿が伝わっていないのが悔しい。


「お嬢様、そんなに近づいては薔薇の棘で怪我をします」


 ほら、こんな風に彼は些細なことにも気を配ってくれるのだ。少し心配性すぎるところはあるかもしれないけれど。


「大丈夫よ。……それより、ヴィンセント。とても綺麗だと思わない?」


 自分の美しさを熟知しているかのように艶やかに咲き誇る真紅の薔薇を撫でながら、私は傍らのヴィンセントに尋ねる。


「はい、本当に……心が奪われるほどの美しさです」


 ヴィンセントも薔薇が好きなようで、情感のこもった声音で返事をくれた。


 しかしその後、整った綺麗な顔を曇らせる。


「……ところで、お嬢様。またマリウス公子とお会いになるのですか?」

「ええ、明後日一緒にお茶をする予定だけど」

「幼馴染でお親しいのは分かりますが、お嬢様は公子と一緒にいるべきではありません」

「……ヴィンセント、またその話? マリウス様はいい方よ。一緒にいて嫌な気分になったことはないわ」

「ですが……俺の勘は当たるんです。絶対にあの方に気を許してはなりません」


 ヴィンセントが真剣な表情で私に訴える。

 私は内心で深い溜め息をついた。ヴィンセントは、あの占い師の一件があってから様子がおかしく、こうしてマリウス様を疑うような発言を繰り返すようになった。


 護衛騎士という、私を護る職務についているということと、元々の強い責任感から過剰に警戒するようになってしまったのかもしれないが、仲の良い幼馴染を悪し様に言われるのは、あまり気分のいいものではない。


「ねえ、ヴィンセント。心配してくれるのは嬉しいけれど、マリウス様のことをそんな風に言うのはやめてちょうだい。あなたの言うとおり、私たちは幼馴染で仲がいいし──これはまだ決まった話ではないけれど、私はきっと将来、マリウス様のもとへ嫁ぐことになると思うの」


 これはヴィンセントに言うべきか迷ったけれど、これ以上マリウス様を悪く言うようなことをしてほしくなかった私は、ヴィンセントにも伝えることにした。


 マリウス様がただの幼馴染ではなく、私の夫になるかもしれない人だと思えば、礼儀を弁えるヴィンセントならおかしなことも言わなくなるだろうと思ったのだ。


 私の話を聞いたヴィンセントは、強い衝撃を受けたように固まってしまった。少しも瞬きすることなく、じっと私を見つめている。それほど予想外だったのだろうか。


「──昨日、両家でそういう話が出ていると聞いたわ。……だから、マリウス様を避けることはできないし、その話はもうしないでほしいの。お願いよ」


 私がヴィンセントの大きな手を取って懇願すると、彼は悲しそうに眉を寄せる。


「……分かりました。お嬢様にお願いされたら、従わないわけにはいきません」

「ありがとう。でも、心配してくれたのは嬉しかったわ」


 ヴィンセントがおかしな話をやめてくれることに安堵して微笑むと、彼は心苦しそうに呟いた。


「……お嬢様が嫁がれたら、俺はお嬢様の護衛騎士を辞めなくてはならなくなりますね」


 私がマリウス様との結婚の可能性を話したことで、その後のことも考えてしまったのだろう。


 たしかにヴィンセントの言うとおり、私がマリウス様の元──ランベール公爵家に嫁げば、ヴィンセントはもう私の護衛騎士ではなくなる。私には公爵家お抱えの騎士団に所属する騎士が護衛として付けられることになるだろう。


 ヴィンセントが切ない眼差しで私を見つめる。どうやら、私の護衛騎士でなくなるのを想像して悲しんでくれているらしい。


 私も少しだけしんみりとした気持ちになる。


「そうね……ヴィンセントと離れるのは寂しいわ」


 そんな風に言えば、ヴィンセントはほんのりと耳の端を赤らめた。


「……ありがとうございます。俺も覚悟しないといけませんね」


 将来、私の護衛騎士でなくなることを受け入れようとしてくれるのだろう。私は長身の彼を見上げて微笑みながら頷く。


 そうしてまた薔薇のほうへと顔を近づけ、濃厚で甘やかな香りにうっとりと目を瞑った。



◇◇◇



 そして二日後。私は約束どおりランベール公爵家を訪れ、マリウス様と一緒にお菓子と紅茶を楽しんでいた。


 さすが、公爵家のお茶会はお菓子も紅茶も最高級品で文句のつけようがないくらい美味しい。侯爵家の屋敷でも飲んだことのない深みのある香りの紅茶を味わっていると、ふいにマリウス様が尋ねてきた。


「今日の護衛はヴィンセント殿じゃないんだね」


 どうやら、私がいつもと違う護衛騎士を連れてきたのを不思議に思ったようだ。


「はい、そうなんです。ヴィンセントは私用で数日屋敷を空けるらしくて、その間は別の騎士に護衛を頼んでいるんです」

「そうだったんだ。それにしても、ヴィンセント殿が私用でオデットの護衛を外れるなんて珍しいね。雪でも降るんじゃないかな」


 初秋の澄みわたる空を見上げながら、マリウス様がおどけて言う。


「ふふっ、そうかもしれませんね。……でも、ヴィンセントにもたまには一人で羽を伸ばしてほしいですから」


 いつも私の側で頑張ってくれているヴィンセントの姿を思い出しながらそんな風に言うと、マリウス様はわずかに咎めるような眼差しを私に向けた。


「君はヴィンセント殿に甘すぎるんじゃないかな」

「……そうでしょうか?」

「こう言ってはなんだけど、たかだか護衛騎士をそこまで気遣ってやる必要はないよ」


 マリウス様にしては厳しい物言いに少しだけ驚く。


「あ……なんとなく、兄のようで近い存在に思っていたので、つい気安くなってしまっていたかもしれません」


 いつも穏やかなマリウス様の普段と違う雰囲気に気圧されてか、言い訳めいたことを言ってしまう。すると、さらにマリウス様を苛立たせてしまったようで、彼は自嘲するような皮肉げな笑みを浮かべた。


「オデットは年上が好みなの? 同い年の男は嫌? ヴィンセント殿は体格もいいし、顔もまあ見られるくらいには整ってるからね」


 話しながら近づいてきたマリウス様が、私の顔を覗き込む。


「でも、血筋は公爵家嫡男である僕のほうが断然上だし、顔の良さだって勝ってると思うんだけどな」


 白銀の髪がさらりと揺れ、アイスブルーの瞳がじっと私を見つめる。中性的な美しさで、国一番の美貌と称されるマリウス様とのあまりの距離の近さに、私は思わず固まってしまう。


「マ、マリウス様……?」


 私が戸惑いながら呼び掛けると、マリウス様はふっと表情を緩めて顔を離した。


「ごめんね、怖がらせちゃったかな。たった二年の付き合いしかないヴィンセント殿に大事な幼馴染が取られたような気がして妬いてしまったみたいだ」

「そ、そうでしたか……」


 緊張で渇いた喉を紅茶で潤す私に、マリウス様が柔らかく微笑みながら言う。


「でも、ヴィンセント殿にはあまり心を開きすぎないようにね。……彼からは危険な臭いがするんだ」


(マリウス様まで、そんなことを仰るの……?)

 

 ヴィンセントがマリウス様を疑っていたように、マリウス様もヴィンセントを疑っているのだろうか?


(あの占い師に出会ってから、何かが変わってしまった気がする……)


 私は何と答えればいいのか分からず、無言のままマリウス様を見つめるのだった。



◇◇◇



 それから数週間が経った、ある日の午後。

 私は孤児院の慰問のため馬車に揺られていた。窓の外を見れば、朝は晴れていた空が今はうっすらと灰色に曇っている。


「日が隠れてしまったわ……」


 何気なく呟いたそのとき、馬車が急停止した。まだ孤児院には着いていないのに一体どうしたのだろうかと思っていると、御者のパウルが困ったように話しかけてきた。


「オデット様、孤児院への道が補修中らしくて通行止めになっています」

「まぁ……」


 なんとも時機の悪いことだ。パウルが言うには、一応、この道でなくても近くの林道を通れば孤児院に行くことはできるらしい。


「お嬢様、今日は止めにしてはいかがですか? 林道はあまり道もよくありませんし、補修が終わってから改めて訪問することにしましょう」


 私の護衛のために馬車と並走していたヴィンセントが馬上からそんな風に言う。


 たしかに一理あるが、急に慰問を取りやめて、お菓子やおもちゃの贈り物を楽しみにしている子供たちを悲しませたくはなかった。


「大丈夫よ、このまま林道を通って行くわ。そんなに長い道のりではないのでしょう? それくらいなら少し馬車が揺れても我慢できるわ」

「……分かりました」


 それから馬車は林道へと入り、木々の間をゆっくりと進んでいく。馬車が揺れすぎないよう、パウルが気を遣ってくれているのだろう。


 お礼を言わなくてはとパウルのほうを見た瞬間、彼の首に何かが飛んできたのが目に入った。


「ぐあぁあっ!!」


 パウルの叫び声がした後、複数の男たちのがなり声が聞こえてきた。


「おい、侯爵家の馬車はあそこだ! 金目のものがあるはずだから逃すなよ!」


(賊だわ……! こんな林道で出くわすなんて……)


 捕まったら何をされるか分からない。最悪、殺されてしまうかもしれない。死への恐怖にがたがたと震えていると、馬車の外からヴィンセントの声が届く。


「お嬢様、大丈夫です! 俺が必ず護りますから、安心してください!」


 力強いその声が、私の心を落ち着かせてくれる。


(そうよ。ヴィンセントはものすごく強いのだから、大丈夫に決まっているわ。賊なんてすぐにやっつけられるはず……!)


 そうして私の想像どおり、ヴィンセントは瞬く間に賊たちを切り捨て、傷一つついていない格好のまま、馬車に隠れていた私の元へと戻ってきた。


「ヴィンセント……! 無事で本当によかった……!」


 ヴィンセントの顔を見て、とてつもない安心感を覚えた私は、はしたなくも思わず彼に抱きついてしまった。するとヴィンセントも優しく私を抱きしめ返してくれた。


「……御者のパウルは賊の弓矢を受けて亡くなりました」


 ヴィンセントの報告を聞いて、私は申し訳なさでいっぱいになった。


(私のせいだわ……私が林道を通るなんて言ったから……!)


 後悔と自責の念で涙があふれる。嗚咽が止まらない。


 そんな私をヴィンセントがさらに強く抱きしめた。


「パウルは残念でしたが、お嬢様だけでも護れてよかった」


 そうして、ずっとしゃくりあげる私の背中をいつまでも優しく撫でてくれた。その心地良い温もりにすっかり安堵して気が抜けてしまった私は、いつのまにかヴィンセントの腕の中で深い眠りについてしまった。



◇◇◇



 目覚めると、私は知らないベッドの上に寝かされていた。飾り気のない質素な作りのベッドだ。もう日暮れの時間らしく、部屋の中は薄暗い。


「ここは……孤児院なのかしら?」


 眠っている間に何があったのかさっぱり分からない。とりあえずベッドから出て、周囲を観察する。


 部屋は侯爵家の自室と比べるとずいぶん狭く、おそらく平民が暮らしているような家屋の一室と思われる。


 窓の外には木々が見え、森か山の中のような雰囲気だ。なぜか妙な不安に襲われた私は、ヴィンセントの名を呼んだ。


「ヴィンセント……! どこにいるの?」


 すぐにドアが開いて、ヴィンセントが来てくれた。


「お嬢様、目が覚めましたか」


 心なしか浮き足立っているような彼の姿に違和感を覚えながら、ここはどこなのか、あの後どうなったのかを尋ねる。


 するとヴィンセントが、ああ、と穏やかに微笑みながら答えた。


「ここは、お嬢様の家ですよ」

「え……私の、家……?」


 何を言っているのか意味が分からなかった。


 ここが私の家──侯爵家であるはずがない。困惑して眉を寄せると、ヴィンセントが近づいてきて私の髪を掬い取った。


「正確には、お嬢様と俺の家ですね。今日からはここで二人暮らしです。朝起きるのも、夜寝るのも、ずっと一緒です」


 そう言って優しく微笑むヴィンセントを見て、私は背すじが寒くなるのを感じた。


 目の前の彼は、本当に私の知っているヴィンセントなのだろうか?


 凪いだ表情で訳の分からないことを言う彼が、どこか得体の知れない人に思えて恐ろしい。


「今までのような貴族の暮らしはさせてあげられず申し訳ありませんが、ここなら誰にも……マリウス様にも見つかることなく、二人きりで安心して暮らせます。俺が一生あなたをお護りします」


 ヴィンセントが私の髪に口づけをする。

 一見、お伽話にある騎士の誓いのような胸がときめく光景にも思えるが、今の私にはただただ恐怖でしかない。


「ど、どうして……なぜこんなことを……?」


 震えながら尋ねると、私が寒がっているとでも思ったのか、ヴィンセントが自分の着ていた上着を私に羽織らせ、そのまま肩を抱いてベッドへと座らせた。


「お嬢様にマリウス様との結婚の話が出ていると仰っていたでしょう? あれは俺に止めて欲しくて教えてくれたんですよね」


 ヴィンセントの言葉に、私はぎょっとする。たしかにその話はしたけれど、そんな意味で言ったのではない。


「それに、お嬢様が私と離れるのが寂しいと甘えてくださって、とても嬉しかったんです。あれで覚悟が決まりました」

「覚悟……?」

「はい、望まない結婚からお嬢様を救い出して、二人だけで生きていくという覚悟です。あれから休暇をとって、隠れて住むのに良さそうな場所を探し、ここを見つけました。あとはいつお嬢様と二人で逃げるかだけでしたが、丁度よく賊が襲ってくれて、俺とお嬢様だけが生き残りましたので、お嬢様が眠られている間にお連れしたのです」


 ヴィンセントの説明に、私は頭がくらりとするのを感じた。


 望まない結婚から私を救い出す?

 私はそんなことを頼んだ覚えはない。


 二人だけで生きていく?

 まさか、本当に私を屋敷に帰すつもりはないのだろうか。


「……嫌よ……お父様やお母様、弟に会いたい」


 私が涙ぐんで訴えると、ヴィンセントは私の肩をさらに抱き寄せ、慰めるように言った。


「寂しい思いをさせて申し訳ありません。では子供を作りましょう。俺たちの子供が生まれれば、ここもきっと賑やかになります」

「こ、こども……?」


 いよいよ激しくなるヴィンセントの思い込みに、私は身の危険を感じた。このままここにいては危ない。


 ……でも、かと言って、ここがどこなのかも分からないのに、一人でヴィンセントから逃げ切れるとも思えない。


(──誰か、誰か助けに来て……!)


 心の底から助けを願ったそのとき、外で何かが爆発するような大きな音が聞こえた。

 ヴィンセントが窓から外の様子を窺う。


「……何でしょうか。少し外を見てきますから、お嬢様はここで待っていてください」


 そう言ってヴィンセントが部屋を出ていった。


(どうか、どうか誰かが助けに来てくれていますように……)


 両手を組んで、神様に祈る。

 さっきの物音は誰かが助けに来てくれた合図かもしれない。


 そんな小さな希望を抱いてひたすら祈っていると、私の願いが通じたのか、キィと部屋のドアが開いて、慣れ親しんだ穏やかな瞳と目が合った。


「オデット、助けに来たよ」

「マリウス様……!」

「しっ、静かに。あいつに見つからないよう、すぐ逃げよう」


 私が口許を押さえてこくこくと頷くと、マリウス様は「いい子だね」と言った後、私が羽織っていたヴィンセントの上着に目をやった。そして不機嫌そうに眉を寄せ、私の肩から上着を剥ぎ取ってベッドの上に投げ捨てる。


「……もう、あいつのものは身につけていない?」

「は、はい、さっきの上着だけです」

「それならよかった。じゃあ、外に出よう」


 マリウス様と二人、物音を立てないよう静かに外へと向かう。そうして裏口のようなところから外へ出ると、マリウス様はポケットからガラス瓶を取り出して蓋を開け、中身を家の中に撒き散らした。


「マリウス様……何を……?」

「うん、危ないからオデットは下がってて」


 戸惑いながらも私が少し離れた場所に移動すると、マリウス様は手近にあった燭台を掴んで、家の中に放り投げた。途端に激しく炎が燃え上がり、黒煙とともに家の中を蹂躙する。


「さ、逃げるよオデット」


 マリウス様に手を引かれ、呆然としたまま駆け出すと、家のほうから「お嬢様!」と叫ぶヴィンセントの声が聞こえてきた。


 振り返ると、私が逃げ出したことに気づかないまま、燃え盛る家に向かって何度も私を呼んでいる。あの様子だと、私を助けようとして家の中に戻りかねない。


「マ、マリウス様……やはり、あれはやり過ぎでは……。あのままではヴィンセントが……」


 私が話しかけると、マリウス様は後ろを振り返ることもなく、「死ぬなら死ねばいい」と言い放った。


「護衛騎士のくせにオデットを攫って無理やり夫婦になろうとした男だよ? あんな奴のことなんて心配する必要ない」


 たしかに、ヴィンセントのしでかしたことを考えると、同情などすべきではないのかもしれない。それに、助けに来てくれたマリウス様を咎められるような立場でもない。


 私は心の中でヴィンセントに詫びながら走り続けた。



◇◇◇



 どれくらい走ったのだろうか。息が切れてもう動けないというところで、ようやくマリウス様が待たせていた馬車に到着した。


「よく頑張ったね。ほら、これを飲んで落ち着いて」


 肩で息をする私に、マリウス様が水筒に入った飲み物を手渡してくれる。果実水だろうか。ほのかに甘い味がして、行儀が悪いとは思いつつも、ごくごくと一気に飲み干してしまった。

 

「怖かっただろう。もう安心して大丈夫だよ」


 マリウス様が私の背中を優しく撫でてくださる。その温かな手の感触で、やっと無事に助かったことを実感できた。


「マリウス様……助けに来てくださって、本当にありがとうございました。とても嬉しかったです」

「いいんだよ、当然のことだ」

「……あのお茶会の日、マリウス様はヴィンセントに注意するよう忠告してくださったのに、私が甘かったせいで……」


 本当に、あのときマリウス様の言うことを信じていれば、こんな事態にはならなかったかもしれない。自分の迂闊さが悔やまれる。


「もう全部済んだことだから気にしないで。オデットは何も悪くないから」


 マリウス様が優しく慰めてくださる。彼の穏やかな雰囲気のおかげか、今までずっと緊張状態だった心も次第に解れてきた。


「ありがとうございます。……そういえば、マリウス様はどうしてあの場所が分かったのですか?」


 私が何気なく尋ねると、マリウス様は「ああ、それはね」と綺麗な顔を柔らかく綻ばせて言った。


「すべて僕が仕掛けたことだから」


 一瞬、マリウス様が何を言っているのか理解できなかった。


「すべて……仕掛けたこと……?」


 私がマリウス様の言葉を繰り返すと、彼はさらに笑顔を深めた。


「そうだよ。あいつ……ヴィンセント・クレージュが君に不埒な真似をしようとしていることに気づいたから、未然に防ぐよりも泳がせて叩いたほうがいいと思って、そうしたんだ」

「どういう、ことですか……?」

「簡単なことだよ。彼がオデットを連れ出して逃げやすい状況を作るために、孤児院慰問の際に馬車が林道を通るように仕向けた。そして賊を手配して襲わせた。ヴィンセントが一人で全滅させられるくらいの規模にして、御者だけ先に狙わせた。完璧な計画でしょ?」


 まるでチェスの解説をしているような淡々とした説明で、私は頭がおかしくなりそうだった。


「そ、そんな……パウルはそんなことのために犠牲に……?」


 どうかしている。あまりにも馬鹿げている。

 怒りと悲しみに声を震わせる私に、マリウス様が溜め息をつく。


「オデット……今度は御者の心配かい? 使用人のことなんて、君が気に掛ける必要はない。オデットは僕のことだけ見ていてくれればいいんだから」


 穏やかな表情に、翳った瞳。

 そんな不均衡なマリウス様の顔を見つめるうちに、ふと、ヴィンセントの言葉を思い出した。



 ──お嬢様は公子と一緒にいるべきではありません


 ──絶対にあの方に気を許してはなりません



(ヴィンセントの言っていたことは、正しかったのかもしれない……)


 私が隣に座るマリウス様と少し距離を取ろうとしたとき、マリウス様にガッと腕を掴まれた。


「オデット、疲れているだろうから僕に寄りかかるといいよ」

「い、いえ、私は大丈夫……」

「それとも膝枕にする? ラグラン領までは、まだだいぶかかるからね」

「ラグラン領……? なぜそんな遠いところへ? 侯爵家に帰してくれるのではないのですか?」


 混乱する私の頬をマリウス様が愛おしげに撫でる。


「まさか。君は公爵家の別邸に連れて行くよ。広い部屋を用意してあるから、これからはずっとそこで暮らしてほしい」

「ずっとそこで……? 外へは出してもらえるのですよね……?」

「駄目に決まっているだろう? 君の男難の相はかなり深刻なようだから、うっかり外に出たりしたら、またヴィンセント・クレージュのような頭のおかしな男に狙われるかもしれない。君が酷い目に遭うんじゃないかと心配なんだ」


 マリウス様が私の手に口づけを落とす。


「君が退屈しないように気を配るから安心して。本でもドレスでもお菓子でも、世界中から取り寄せるよ」

「い、嫌です……家に、帰して……」


 ……どうしたのだろう。急に強い眠気が襲ってきて、瞼を開けていられない。


「やっと薬が効いてきたかな?」


 朦朧とする意識の外でマリウス様の穏やかな声が聞こえる。


「良い夢を、オデット。愛しているよ」




 ──お嬢さんは男のせいで不幸になる星の下に生まれておる。悪い男に纏わりつかれて逃げられない



 占い師の老婆の予言のような言葉が頭に響く。

 やはり、あの占いは真実だったのだ。


(──この黒子を抉り取れば、運命から逃れられるのかしら……?)


 そんなことを思いながら、私は意識を手放した。

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