車内採点
そうざ
Scoring on the Train
僕は右隣に腰掛けたカノジョを余所に、真向かいに座ったスーツ姿の男をぼんやりと眺めていた。
男は僕より幾らか年上で、三十歳前後だろうと思われた。確かなのは、彼が学校の先生か学習塾の講師という事だ。僕達が一つ前の駅から乗り込んだ時にはもうシートに腰掛けていて、膝の上に置いた黒く分厚い鞄を机代わりに、書類の束に何やらペンを走らせ続けていた。
それは、事務的で澱みのない動作だった。右手に握った赤ペンで何かを書き込むと紙を捲り、同じように次の紙に赤ペンを走らせてまた捲る。そんな事を繰り返していた。
教え子の答案用紙を添削しているのだろう。就業時間内に終らなかったのか、家まで仕事を持って帰るのも億劫で、帰途の電車内で業務を済ませているといった風情だ。子供達が一喜一憂するに違いない、引いては将来を左右するかも知れない判定を、淡々と面倒臭そうに下して行く。
「この間ね」
突然、僕に密着して座っているカノジョが話し掛けて来た。
「友達が仔猫を拾っちゃってね。通勤途中の公園に住み付いてて、ご飯とかあげてる内に慣れたんだって」
僕は生返事をする。カノジョの顔を見ず、うん、へぇ、はぁ、を繰り返す。
饒舌なカノジョと寡黙な僕とを乗せた電車は、寂びれた駅に停まり、数人の乗客を吐き出した。新たな乗客は居なかった。走行音を背景にした静寂が広がり、その間隙に赤ペンの音が割り込んで来る。
「茶トラと白黒でね。めっちゃ可愛いのっ」
シュル。シュル。シシュ。シュル。シシュ。シシュ――。
再び電車が動き出し、添削の小気味好い音は
『シュル』は正解。丸を描く音だ。『シシュ』は不正解。漢文の訓読に用いるレ点のような軌跡を描く音だ。『シュル』は
それにしても、正解はマル(〇)で記すのに、何故、不正解はバツ(×)で記さないのだろう。全国の学校や学習塾における『〇・×/○・レ点』の使用分布がどうなのかは知る由もないが、テレビのクイズ番組でも大抵『〇』と『×』を使っている気がする。バツはレ点よりも被採点者に与える精神的打撃が大きいのだろうか。それ故の、配慮としてのレ点の使用なのだろうか。
「名前が決まってないんだけどさ。何か良い名前ある?」
そこで、僕は前面の景色に違和を感じた。赤ペン男は相変わらず対面のシートに座っているのだが、いつの間にか何かが変わっていた。僕は、違和の正体を確信にまで高めようと、間違い探しに挑戦するかのように男を観察し続けた。勿論、それとは気付かれないように然り気なくだ。
男は、赤ペンを指先で器用に回したり、ペンの後端で紙をとんとんと叩いたりしている。一向に紙を捲ろうとしない。それまで滑らかだった動作が停滞したのだ。一体、何が起きたと言うのか。
「猫、嫌い? 興味ない?」
正誤を判断し兼ねる両義性を有した解答にでも出くわしたのだろうか。それとも、解答者の乱筆により、読解に支障を来たしたのか。そもそも、教科は何だ。数学のような端的な解答を求めるようなものや、マークシート的な選択肢が居並ぶ方式であれば、至って事務的に処理出来るだろうが、国語の感想文のような記述となると、よくよく読み込まなければ正誤の判断は出来ない筈だ。○か×か、×か○か、二つに一つ、男は△などというあやふやな採点はしたくないと見える。何故『
「明日のお休みは何をしよっかなぁ……」
男が赤ペンの先で紙面をノックし始めた。とん、とん、とんと規則正しい動作だった。
次の駅に着いた瞬間、男の指先が動きを見せた。同時に、重い溜め息を吐き捨てたカノジョが怠惰な動きで起立した。
僕は反射的にカノジョを目で追ったが、直ぐに我に返って男に視線を戻した。男は僕を凝視していた。その口元は心なしか緩んでいた。
彼女が居なくなった電車が走り出す。
男がどんな判定を下したのか、そのペンの響きは円やかなものだったのか、鋭利なものだったのか、僕は完全に見極め損ねてしまった。
男は今まで通り採点を続けている。
この世には、○を付ける人間と、×を付ける人間、そして、○を付けられる人間と、×を付けられる人間が居る。
車内採点 そうざ @so-za
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