反射の条件

そうざ

Conditions for Conditioned Reflexes

 待ち合わせ場所の改札前にまだ待ち人の姿はなかった。流石に早く来過ぎた。約束の時刻まで十分に余裕がある。

 直ぐ側に書店の看板が見える。何か面白そうな新刊でも探して時間を潰そうか、と足を一歩踏み出しそうになった僕は直ぐに思い留まり、大人しくその場で待つ事にした。

 今日は彼女との初デートなのだ。は避けなければならない。


 僕は本を物色すると激しい便意を催す。唯一の趣味が読書という人間がこんな奇妙な体質とは皮肉な話だ。

 書店だけではない。以前は暇さえあれば図書館に通っていたが、本棚とトイレとを何往復もする事になり、落ち着いて読書が出来ない。本の物色は読書好きにとって至福の時間なのに、今はあらかじめ選んだ本をネット通販で購入するのが関の山だ。


 僕がこんな身体になったのは中学生の頃だ。

 近所の個人経営の本屋が行き付けだった。顔馴染みになった店主の小母おばさんは、ほとんど立ち読みばかりの僕を、本好きになってくれるだけで嬉しい、と許してくれた。

 或る日、立ち読みの最中に下腹部の調子がおかしくなった。何か変な物でも食べたかな、出しなに飲み付けないコーヒーを飲んだからかな、と訝しんでいる間にも脂汗がどんどん噴き出し、とてもじっとして居られなくなった。

 異変に気付いた小母おばさんが心配してくれたが、僕は急用を思い出した振りをしてそそくさと帰宅した。気の弱い中学生にとって他家のトイレで下痢便をするのは勇気が要る行為だった。

 それからと言うもの、小母おばさんの本屋へ行く度に催すようになってしまった。そうなると自然と足が遠退く。

 他の店ならば大丈夫だろう、図書館ならば平気だろう、という楽観は敢えなく打ち砕かれた。僕はもう本を物色出来ない人間になっていた。


 どうしてこんな現象が起きるのか。諸説の中には、不正行為立ち読みに対する密かな罪悪感が便意となって現れる、というのがあるらしいが、僕の場合は購入するつもりで来店しても起きるのだ。

 はっきりしているのは、彼女とのデートが控えている時に本に近付いてはならない、という一点に尽きる。

 もう直ぐ約束の時間だ。周囲を見回していると、肩をぽんと叩かれた。僕は飛びっ切りの笑顔で振り返った。

 そこに居たのは愛しの彼女――ではなく、老年の女性だった。

 偶然ねぇ、何年振りかしらねぇ、とまくし立てる女性の面影が、僕の記憶を数年前まで巻き戻させた。

 皺の寄った肌、もじゃもじゃの髪、黄ばんだ前歯、香水混じりの加齢臭等を認識した僕の自律神経は、在りし日の本屋の光景を喚起させ、待ってましたとばかりに消化器系に特命を下し、所要時間0.3秒で肛門括約筋を決壊させた。ついでにエクトプラズムと化した魂が口からひょろひょろと昇天して行く。

 この最悪の再会に因って最速便通記録自己ベストが更新された。

 僕は遠退く意識の中で、駆けて来る彼女の笑顔と、鼻を押さえる小母おばさんのしかめっ面とを同時に見た気がした。

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反射の条件 そうざ @so-za

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