時間を忘れられる場所

そこは私の安らぎの場所

 私は今日もその扉を開く。

食器の重なる音、JASS調の音楽。変わらない机、椅子の配置。

「いらっしゃいませ。こんにちは。」

マスターの気持ちの良いとおる声。

「いらっしゃいませ。」

奥さんの陽だまりの様な声と笑顔。

カウンターの席につくと、メニューを見て悩む。この喫茶店は食べ物も飲み物も美味しいのだ。


 軽い軽食とアイスコーヒーを頼む。

食べ終えたところで、私は本を読むことにした。本を出し、集中する。


 ふと顔を上げると、客足がひと段落したのか、マスターはカウンターの向こうで、静かに仕事をしている。その仕草はとても緩やかで、洗練されている。私はそのまま本へと視線を戻した。ここにくるといつも以上に読む手が進む。目は字を追っているが、耳では様々な音を拾う。


 マスターのレタスをちぎる音、卵を剥く音がとても耳に馴染む。不思議とこの緩やかに時の流れる店内にあっている。まるで音楽の一部とでもいうように耳に入ってくる。


 私は時間が気になり、ふと顔を上げた。周りを少し見渡せば、客も各々の時を過ごしていた。新聞を読む人、本を読む人、連れと話す人…

ゆっくりと時を過ごしている。


 時計を見れば、本を読み始めて1時間は経っていたようだ。この店にいると緩やかに時が流れるにも関わらず、気づけば時間が過ぎている。


 ふとガラス張りの出入り口に目を向ければ、外が見える。そこからは足早に歩いていく人、自転車を颯爽と漕いでいく人、一瞬のうちに通り過ぎていく車の数々。外は忙しなく、時間に追われている。


 私はいつも考える。この店で本を片手にアイスコーヒーを飲みながら。本を読みながら過ぎていく“時“は、とても緩やかで心地が良い。“時間“という概念を忘れて。この空間だけは、“時間”を刻んでいないような。


 こんな考えに至るのは、日々“時間“に追われて生きているからだろうか…

 それとも…“時間”を気にせず、ただ緩やかにいたいと願うからだろうか。

 両方を望んでいるからなのだろうか。


 私は“時間”という言葉さえ忘れたい、考えず気にせず過ごしたい、と思うのに…

いざ、一歩、“時間“というしがらみから出ると、戻らなければと思いを馳せてしまう。もうすでに、体に染み付いているからなのか。はたまた一歩出たと思い込んでいるだけなのか。私も私で、この社会という名の“時間”という波に溺れているだけなのだろうか。


 もし…そうであったとしても、“時間”という波から出ていると思い込んでいるだけだとしても。この喫茶店に来れば、一時だけ激しい波から外れ、静かに浮かんでいられる。



 心ではずっと穏やかなまま浮かんでいられれば良いと思うのに…

それでも私は、また戻ってしまう。激しい波の中へと。耳へと馴染む音たちを背にしながら。その緩やかな音を思い出しながら、雑音と共に波にのまれていくのだ。


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