第四幕 謎の助っ人
牛頭から蜘蛛の歩脚が生えた巨大な化け物――牛鬼が、その口から蒸気のような吐息を吹きながらこちらに狙いを定めて向かってきた。その見た目からは想像が出来ないほどの速さだ。気の弱い者……いや、常人であればその後継だけで腰を抜かしてしまいそうな迫力だ。
だが幸いというか
牛鬼が前にいる紅牙めがけて鉤爪の付いた前脚を振り下ろしてくる。尖った戦鎚のようなそれは、まともに受けたら一撃で人間の頭を熟した果実のように叩き割るだろう。
「うおっとっ!?」
予想以上に速い攻撃に紅牙は当然まともに受ける愚は犯さずに、慌てて飛び退って回避する。地面に当たった振り下ろしは盛大に土砂を巻き上げた。やはり見た目通りの威力のようだ。牛鬼は二本の前脚で連続して振り下ろしくる。その度に後退を余儀なくされる紅牙。
「ち……いい加減にしな、化け物!」
紅牙は舌打ちしつつ、奴の振り下ろしを回避した隙に反撃で刀を薙ぎ払う。確かな技術に裏打ちされた斬撃。しかしそれは牛鬼の歩脚を覆う甲殻に当たって虚しく弾かれる。
「クソ、何て硬さだい!」
手が痺れる感覚に眉を顰める紅牙。その後ろでは妙玖尼が法力を高めて真言を唱える。
『オン・マイタレイヤ・ソワカ!』
突き出した錫杖……弥勒の先から法術の光が矢となって発射され、的の大きい牛鬼に直撃した。外道鬼程度ならまともに当たれば一撃で倒せる法術を受けた牛鬼は……
「……!」
奴は僅かに小ゆるぎした程度でそこまで打撃を受けた様子もなく、妙玖尼も獲物と見做してきた。歩脚の届かない距離にいる彼女に対して牛鬼はその牛の口を大きく開くと、そこから緑がかった液体を吐きつけてきた。
「う……!」
妙玖尼は顔を引きつらせて大きく飛びのく。その緑色の液体は地面にぶちまけられると、そこにあった土や石、草木などが不快な臭いのする煙を上げながらグズグズに溶けてしまった。どうやら溶解液かなにからしい。当然ながら人間が被ったら一溜まりもないだろう。量、威力ともに外道鬼のそれとは比較にならない。
よく見ると周囲で死んでいる男達の中には、溶け崩れて骨が剥き出しになっている無残な死体もあった。この溶解液をまともに食らったら彼女達もああなるのだ。
「冗談じゃないよ!」
紅牙も顔を引きつらせて、牛鬼に対して連続で斬りつける。しかしやはり硬い甲殻に弾かれて有効な傷を与えられない。
「闇雲に斬り付けても刀が刃こぼれするだけです。ここは『破魔纏光』を使います」
「……!
飛騨での戦いを共にした紅牙にはそれだけで通じたようだ。余計な問答を挟まずに牛鬼を自分の方に引きつけつつ守りに入る。妙玖尼はその間に法術を発動すべく法力を練り上げる。
『オン・ニソンバ・バザラ・ウン・ハッタ!』
弥勒から射出された破魔の光は牛鬼ではなく紅牙に飛んだ。正確には彼女の持つ刀……蜥蜴丸にだ。蜥蜴丸の刀身が淡い神秘的な輝きを帯びる。これで彼女の刀は妖怪の類いに対して無類の切れ味を持つようになった。
「はは! これだよ、これ! 行くよ、オラァ!」
『破魔纏光』の効果を知っている紅牙が勇んで牛鬼の歩脚に斬り付ける。丸太のような太さの歩脚を一刀両断とはいかなかったが、今まで彼女の斬撃を阻んでいた甲殻を斬り裂いて傷を与える事に成功した。
傷口から大量の赤黒い体液を噴出させて、牛鬼が激しい苦痛と怒りの咆哮をあげる。そして怒りのまま歩脚を振り回して暴れる。
「うおっと!? 文字通り手負いの獣だね!」
追撃を掛けようとしていた紅牙が、牛鬼の暴れぶりに手が付けられずに後退する。妙玖尼は距離を取りつつ再び『破魔光矢』を撃ち込むが却って余計に怒らせただけだった。
「これでは手が出せませんね……!」
妙玖尼は眉を顰めて狂乱する牛鬼を見つめる。あれに巻き込まれたら人間など一瞬でぼろ雑巾のようにされる。しかし生半な遠距離攻撃では通じない。となれば……
「紅牙さん、申し訳ありませんが、もう少しだけ奴を引きつけていて下さい」
「……! わ、分かった! なるべく手短にね!」
ここで問答していても仕方がないのを分かっている紅牙が、損な役回りを即座に了承する。そして振り回される牛鬼の歩脚を躱しながら破魔の刀で斬り付ける。といっても暴れまわる巨体に対して深く踏み込めないので、腰の入っていない文字通り牽制にしかならない攻撃だ。
しかしそれでも僅かに傷をつける効果はあり、上手く牛鬼の敵意を引きつける事が出来ていた。後は極力持ち堪えてもらうしかない。その間により集中して法力を練る妙玖尼。『破魔光矢』よりも
妙玖尼が一人で敵と対峙している場合、殆ど使う機会のない大がかりな法術。だが紅牙が敵の攻撃を引きつけてくれる事で、戦闘中における使用を可能にしていた。
「く、そ……! ま、まだかい、尼さん……!?」
だがその紅牙も流石に暴れまわる巨大な妖怪を単身で引きつけておくのは厳しい。徐々に追い込まれて余裕がなくなっていく。このままではすぐに限界を迎えるだろう。だが……
(……充分です!)
『オン・マユラギランデイ・ソワカ!!』
妙玖尼が溜めに溜めた法力を一気に解放して法術を発動すると、牛鬼の頭上の位置にある上空に、特に雨天でないにも関わらず小規模な
牛鬼が一瞬雷光に包まれ、肉の焦げるような嫌な臭いが漂う。妙玖尼の使える法術の中では高い威力を誇る『孔雀天雷』の術。的が大きいので外れる心配もない。落雷をまともに受けた牛鬼だが、何とそれでもまだ死んではいなかった。それどころか所々から煙を上げながらも、怒りの咆哮を発してこちらを叩き潰そうとしてくる。馬鹿げた生命力と耐久力だ。しかしその動きは確実に鈍っている。
「紅牙さん、今です! 奴に止めを!」
「……っ! 任しときな!」
紅牙も今が好機と分かっているのか、刀を構えて牛鬼に突進する。落雷による影響で狂乱が止まったので、今なら確実に攻撃を当てる事ができる。
「おら、死にな
縦横無尽に刀を斬り付ける紅牙。今の彼女の刀は妖怪に対して絶大な切れ味を誇る。その斬撃が煌めく度に牛鬼の苦鳴が轟く。もう少しで倒せそうだ。そう思った時、牛鬼がこれまでとは異なる行動を取った。
六本の歩脚を撓めると、一気に上空へと跳び上がったのだ。その巨体が跳びあがるというだけでも驚異的であり、紅牙が驚いて反射的に後ろに下がった。だが結果的にそれが彼女の命を救ったかもしれない。
周囲に生い茂る木々が途切れるくらいまでの高さに跳びあがった牛鬼。しかし翼も生えていない身では、そのまま重力に引かれて地面に落下する事になる。……ちょっとした家くらいの大きさ、重さの生物が、見上げるような高さから一気に落下してきたらどうなるか。
「……っ! 危ない、下がって!」
『真言界壁』の法術を使う間もない。妙玖尼に出来た事は、咄嗟に紅牙に退避を促す事だけであった。次の瞬間には牛鬼の巨体が地面に衝突し、凄まじいまでの
着地の衝撃により大量の土砂が飛散する。妙玖尼は弥勒を掲げながら姿勢を低くして衝撃波に耐えた。少し離れた場所にいた自分ですら思わず倒れそうになるほどの衝撃だ。より近い位置にいた紅牙は……
「べ、紅牙さん…………っ!」
思わず彼女の姿を探した妙玖尼は、すぐに目を瞠った。
「ぐっ……や、やってくれるねぇ……化け物野郎の分際で」
苦しげな呻き声。紅牙は太い木の幹に背中を預けるようにして尻餅をついていた。どうやら衝撃波によって吹き飛ばされて、その大木の幹に背中から激突して崩れ落ちたという感じらしい。咄嗟に離れたお陰で命は無事だったようだが、打撃と衝撃によってすぐには動けないようだ。
甲冑から剥き出しの艶めかしい脚を力なく投げ出しながら何とか立ち上がろうともがいているが、身体が言う事を聞かない状態らしい。牛鬼がそんな動けない獲物に対して、大量の涎を垂らしながら近づいていく。
穢れた土や水を常食とする牛鬼だが、そこは妖怪の事。勿論生きた人間を貪り食うのも大好物だ。
「ぐ……ち、ちくしょ……」
「……っ! 止まりなさい! 『オン・マイタレイヤ・ソワカ!』」
怪物が自分を食おうと近寄ってきているのに、思うように動けず呻く紅牙。妙玖尼は彼女を助けようと牛鬼に『破魔光矢』を放つが、妖怪は僅かに怯んだものの構わず紅牙に向かっていく。動けない獲物の方が優先らしい。
為す術もなく牛鬼の巨大な口が、紅牙を一飲みにしようと開かれる。死を覚悟した紅牙が思わず目を瞑る。その時……
――何かが鋭く風を斬り裂いて飛来し、牛鬼の片目に突き刺さった!
牛鬼が苦悶の叫びを上げて紅牙への止めを中断する。
「な…………」
妙玖尼も、そして食われる寸前だった紅牙も……その何かが飛来してきた方向を見上げて唖然とする。周囲に生い茂る中で一際高い木。その枝の一つの上に
紫がかった
浅黒い肌の女忍者?は、唖然と見上げる妙玖尼達に構わず再び牛鬼に向かって何かを投擲した。人が乗ったら折れそうな枝の上に立ちながらの投擲動作。しかし本人は全く危なげなく、また枝も折れる気配がない。一体どのような体術によるものだろうか。
牛鬼の残った目にもそれが突き刺さる。どうやら手裏剣か何からしい。苦悶して動き回る妖怪の目に正確に手裏剣を命中させるとは恐ろしいほどの技量だ。
「……何を阿呆面を晒している? 法術も掛かっていないただの手裏剣ではすぐに再生されてしまう。今のうちにさっさと止めを刺せ」
「……!」
浅黒い女忍者は、その冷徹そうな印象に違わず冷たい声で牛鬼への止めを促す。いきなり阿呆呼ばわりされて眉を顰める妙玖尼だが、確かに今はそんな場合ではない。
「誰だか……知らないけど、言ってくれるじゃ……ないのさ!」
同じように思ったらしい紅牙が苦しげに顔を歪めて脂汗を掻きながらも、何とか身を起こして片膝立ちになる。そしてまだ痺れる身体を押して刀を手に取ると、それを杖代わりにして強引に立ち上がった。
「おお……りゃあぁぁぁぁっ!!」
ふらつく足を強引に前に進めて刀を振りかぶると、一時的に視界を失って無防備な牛鬼の巨大な頭めがけて一気に斬り下ろした。『破魔纏光』の法術が纏わった刀身は、牛鬼の頭を殆ど抵抗なく斬り裂いた。
急所に法術の斬撃を食らった牛鬼は、断末魔の叫びを上げて横倒しになった。そのまま起き上がってくる事はなく、地面に吸い込まれるように溶けてなくなってしまった。恐ろしい生命力を誇った妖怪だが、何とか討伐する事が出来たようだ。
「はぁ……はぁ……ふぅ……。思い知ったかい、この化け牛野郎がっ!」
肩で大きく息を荒げながら紅牙が毒づく。思いの外手こずってしまった。牛鬼は強力な妖怪だが、今の個体はまだ生まれたての幼体であった。にも関わらず手こずるどころか、下手をするとあのまま紅牙は殺されていた可能性が高かった。それを免れたのは……
「……危ない所を助けて頂いて感謝します。私は妙玖尼。旅の尼僧です。あちらは紅牙さん。あなたのお名前をお伺いしても?」
まだ枝の上に佇んでいる浅黒い肌の女忍者を見上げてお辞儀する。女忍者は目を細めた。
「……
「な、何だって!? ふざけんじゃないよ、降りてきな!」
そっけなく挑発的な物言いをする女忍者……雫に、紅牙が目を吊り上げて威嚇する。命を助けられたという自覚があるだけに、その相手から挑発的な物言いをされた事に一層の屈辱を感じているようだ。
「ふ……忠告はしたからな」
そんな紅牙の様子に雫は口の端を歪めるとそのまま枝から枝、木から木へ飛び移って、あっという間に視界から消え去っていってしまった。恐ろしいまでの身のこなしだ。
「あ!? くそ、戻ってきな! アタシと勝負しろ!」
「やめなさい、紅牙さん。見苦しいですよ。……でも名前だけで結局、所属や雇い主も解らず終いでしたね」
紅牙を窘めつつ溜息を吐く妙玖尼。忍者が誰にも雇われず単独で動いている事はあり得ない。必ず雇い主がいるはずだ。忍者とはそういうものだ。また
大名や豪族などと契約するのはこういった組織単位となり、契約内容に応じて所属忍者を派遣するという仕組みだ。なのであの雫も必ず何らかの組織に所属していて、契約している雇い主の命令で動いているはずだ。
(つまり私達以外にも、白川の怪異を察知して調査していた者がいるという事ですね)
といっても正体も目的も解らない以上、他にどうしようもなかったが。
「くそぉ……あの女。あれは油断しただけさ! 今度やったら絶対あんな不覚は取らないよ! チクショウ!」
まだ怒りと屈辱が収まらないらしい紅牙が顔を赤くして地団駄を踏んでいる。妙玖尼は再び嘆息した。
「そうそう牛鬼のような妖怪と遭遇しては堪りません。今回は素直にあの雫さんに感謝すべきですね。さあ、牛鬼を討伐した事でここの邪気は祓えました。すぐに水流も元通りになるでしょう。麓の村に戻りますよ」
彼女はまだ不満そうな紅牙を強引に促して、村長にこの成果と村の男衆の訃報を報告すべく山を下っていくのだった。
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