末法の退魔師 ~戦国妖鬼討滅伝

ビジョン

序章 飛騨の紅天狗

第一幕 末法の退魔師

 時は室町時代後期。室町幕府の権威が失墜し、日本各地の守護大名を始めとした有力氏族、豪族達が互いに争い領土を拡大せんと合戦を繰り返す混乱の時代。俗に言う『戦国時代』。


 終わらぬ明日をも知れぬ戦乱の世は人心の乱れを招き、そして人心の荒廃は邪なる気・・・・を発生させる。凝り固まった邪気は『瘴気』となり、その瘴気を好む人ならざる者共・・・・・・・を呼び寄せる。そして人ならざる者共は……人の世を憎み、人にさらなる災いを齎す事こそを無上の喜びとするのであった。




 東山道飛騨国(今でいう岐阜県北部)。高い峰が連なりそれを覆うように深い森が広がっている事から発展は遅れ、大きな産業もない事から田舎という誹りを免れない地域であった。しかし古くから温泉の湧き出る地として有名な名所であり、また高地である事から夏でも比較的過ごしやすい風土であり、風光明媚な観光地、保養地しても知られていた。


 そんな飛騨国の中を伸びる街道沿いに建つ一件の旅人宿。旅人や行商人、小規模な隊商などが夜を越す為に一夜の仮宿とするごく平均的な宿屋であった。しかしこの日そんな宿に、滅多に訪れる事のない珍しい種類の旅人が立ち寄った。


「ごめんください。今宵一晩宿をお借りしたいのですが、空いていますでしょうか?」


「お……」


 宿の主人はその入ってきた客を見て思わず目を瞠った。共用の土間で囲炉裏を囲っていた他の宿泊客も一様にその新たな客に注目した。



 それは……1人の尼僧・・であった。黒い法衣に白い尼頭巾を被っている典型的な衣装だ。その両手に長柄の錫杖を携え、背には旅用の編笠が掛かっている。



 確かにこの飛騨国は温泉地として有名であり単独の旅人も訪れる事はあるが、それはあくまで男性・・に限った話であった。この戦国時代、治安の悪化から野盗や乱取り(奴隷狩り)などが横行し、とても女性が1人で旅できるような世情ではなかった。それは例え仏門にある聖職者であっても同じ事だ。しかもこの尼僧は……


「あ、ああ、勿論だ。何せこんな御時世だしな。ただ……アンタ1人なのかい? 連れは?」


「生憎救世求道の行脚の最中でありまして。幸い親切な方々からの喜捨がありますので宿代はご心配に及びません」


 宿の主人の問いかけに、尼僧はにっこりと微笑んで肯定する。その微笑に主人だけでなく他の宿泊客達も一様に見惚れてホゥ……と息を吐いた。


 そう……この尼僧は微笑みだけで男を蕩かすような美貌の持ち主であったのだ。年の頃は二十代前半ほどであろうか。尼頭巾の下の頭は完全に剃髪しているようだが、それでもなお女の美貌には些かの陰りも及ぼさず、成熟した女性特有の色香を放っていた。



「……ほら、アンタ! 馬鹿みたいに呆けてないでさっさと入れてやりな! 尼さんが困ってるだろ! ほらほら、お客さん達も見世物じゃないですよ!」


 男達が呆けて動かないのを見かねた主人の女房が、手を叩いて大声で男達を覚醒させる。


「お……あ、ああ、そうだな。こりゃ失礼。どうぞどうぞ、入っておくんなせぇ。地元のモンじゃなきゃこの高地は堪えるでしょう。どうぞ今夜はゆっくり泊まっていってくだせぇ」


「ありがとうございます。私、金剛峯寺の妙玖尼みょうきゅうにと申します。今夜一晩、お世話になります」


 尼僧……妙玖尼は手を合わせてお辞儀をしてから宿に入ってきた。旅装を解いて頭巾を外すと、そこからまるで生まれた時から髪が生えていなかったのではと思われるほど綺麗に剃り上げられた頭が露出した。しかしそれは彼女の魅力を何一つ損なっておらず、むしろその頭の形の良さを強調していた。


「この物騒な世の中、本当に女1人で旅してるのかい? どこから来たんだ?」


 囲炉裏を囲う宿泊客の1人が好奇心丸出しで尋ねる。妙玖尼は嫌な顔一つせずに微笑みながら頷いた。


「金剛峯寺は紀伊国(現在の和歌山県の辺り)の高野山にあります。幸いにして厳しい修行の賜物である程度・・・・の自衛は出来ますので、女の身でも何とか行脚を続けていられます」


「紀伊国から? そりゃまた随分な長旅だなぁ。行脚って言ってもわざわざこんな所まで何しに?」


 別の客が目を丸くしながら尋ねてくる。娯楽の少ないこの時代、ましてや旅の途上で皆興味を惹かれる話題に餓えていた。


「今この飛騨国には山賊の類いが横行し、人々に迷惑を掛けているとか。治安と人心の乱れは邪気・・を呼び込みます。この日の本に蔓延る邪気を祓うのが私の使命です。その為にやって参りました」


「邪気だって? アンタ本気で言ってるのかい? この先に進むと『紅狼衆』ってタチの悪い山賊・・の根城がある。捕まった女はそりゃあ酷い目に遭わされるって噂だ。悪い事は言わねぇから大人しく帰った方が身のためだぜ」


 宿泊客は呆れたように眉を顰めて忠告するが、妙玖尼は薄っすらと微笑みを浮かべるのみで聞き入れる様子はない。その後もしばらく妙玖尼を中心に雑談が続いたが、宿の主人が手を叩いた。 



「さあさあ、そろそろ日が沈む。食事の時間は終わりだ。火を消すからさっさと床に入っておくんな」


 囲炉裏を囲っていた客達を促す。一般的に行灯などの照明器具は高価で明るさも限定されていた事から、余程大きな街ならともかくこのような田舎では、日が沈んだらさっさと床に入るのが普通であった。


 夜中でも尿意を催して厠に行く事はあるので、夜通し点けておく最低限の灯りだけ残して客達は思い思いに床に入っていく。妙玖尼も同様だ。この時代、ましてや田舎の旅宿に男女で部屋を分けるなどの配慮も余裕もあるはずがないので(そもそも女性の利用客がほぼいない)、当然彼女も他の宿泊客に混じって安物の布団が敷かれた大部屋で雑魚寝である。


 妙玖尼もそれに何ら不満を持つ事もなく、当たり前のように割り当てられた布団の上に正座する。他の客が怪訝な目を向ける。


「何だ、アンタ。寝ないのかい?」


「はい。就寝の前に必ず精神修養の瞑想を欠かしておりませんので。どうぞお気になさらずお眠りくださいませ」


「へえ、そりゃ立派なこった。流石にお坊さんは違うねぇ。まあ何にせよあんまり無理はしないようにな」


 客はそれだけ言うとさっさと布団を被ってしまう。皆旅の途上で疲れている者ばかりだ。程なくして夜の帳が降りて静まり返った宿屋には、宿泊客達の寝息やいびきだけが流れるようになる。



 しかし……そんな僅かな光源しかない寝静まった暗闇の中、ひとり妙玖尼だけは布団の上で正座の姿勢を保ったまま起きていた。ただし瞑想と言っていた通り目は閉じていたが。


(……やはり気のせいではありませんね。この旅宿は既に……)


 目を閉じて感覚を集中させていた彼女は確信を抱く。前を通りかかった際、この宿から微かな邪気を感じた。それで敢えて立ち寄ったのだ。その感覚が正しかった事は間もなく証明されるだろう。


 それから目を閉じて瞑想を続ける事しばし……妙玖尼は闇の中に獣のような・・・・・息遣いを感じた。それだけでなく明確な血の臭い・・・・も。


 その音と臭いの持ち主は、ゆっくりと客間へと近づいてきて寝静まった宿泊客達の元に忍び寄ろうとして……


「烈ッ!!」


『……!』


 妙玖尼は側に立てかけてあった自身の錫杖を手に取ると、それまで正座していたとは思えない程の素早さで腰を浮かして、錫杖を一閃に薙ぎ払った。するとその闇の中に潜んでいた存在は、唸り声と共に錫杖を回避して跳び退った。


「……っ!? な、何だぁ!?」

「何の騒ぎ……うひぃっ!?」

「ば、化け物!!」


 騒ぎに跳び起きた宿泊客達。薄暗い照明の灯りの中彼等が見たのは、いつの間にか白い尼頭巾も被った姿で錫杖を構えて仁王立ちする妙玖尼と、彼女が対峙している2体の化け物・・・・・・であった。


 手足の先から鋭い鉤爪の生えた怪物じみた四肢を備え、その顔はまるで巨大なのような獣の面貌を備えた人型の化け物であった。普通の人間よりも大きめの体躯をしている。だが宿泊客達は2体の鼠の化け物が着ている服が、この宿の主人とその女房の物と同じである事に気付いた。 


「ま、まさか、ありゃあ……」



「……鉄鼠ですか。この宿の主人たちに化けていたようですね。人を好んで襲う妖怪・・です。本物の2人を食い殺してすり替わっていたのでしょう。皆さんは下がっていてください!」



「よ、妖怪……!?」


 客達は目を丸くして恐れ戦く。妙玖尼は彼等を庇うようにして錫杖を構え直す。


『イ、ヒヒ……夜ハ血ガ騒イデ仕方ネェ』


『人ノ生血ヲ……肉ヲ……モット喰ワセテクレェ……!』


 2体の妖怪……鉄鼠たちが涎を垂らしながら距離を詰めてくる。妙玖尼は錫杖を縦に構えて、石突きの部分を床に突き立てた。


『オン・クロダノウ・ウン・ジャク!』


 突き立てた錫杖を中心に光の方陣のような物が出現し、宿泊客達を囲い込む。不可思議な現象に彼等は唖然とした。


「その中から出ないで下さい!」


 妙玖尼はそれだけ短く告げて、錫杖を構えながら自ら鉄鼠たちに突撃する。そして突撃しながら短く呪文を唱える。すると錫杖が淡い光に覆われた。鉄鼠の一体が鉤爪を振りかざして飛び掛かってくる。宿泊客達から悲鳴が上がる。


「砕っ!」


 妖怪の頭部目掛けて錫杖を振り下ろす。それは女性とは思えないような鋭く力強い一撃であった。


『ギャビッ!?』


 錫杖が鼠の脳天に命中すると、鉄鼠の頭部は醜い呻き声と共に腐った果実のようにぐちゃぐちゃに潰れた。地面に突っ伏した妖怪は、そのまま煙を上げて蒸発するように消えてしまった。



『……!? オ前、何ダソノ力ハ!?』


 怪物を一瞬で屠った妙玖尼の力を見て、宿泊客達が喝采をあげる。対照的に残った鉄鼠が警戒の目を向けてくる。


「邪気を祓う旅をしていると言ったでしょう? 私の使命はお前達のようなあやかしを一匹残らず狩り尽くす事です。御仏の加護を受けた我が真言は、お前達を滅する力を与えてくれます。さあ、次はあなたの番ですよ」


『チィ……! ホザケ、尼風情ガ!』


 激昂する鉄鼠だが、仲間のように飛び掛かったりはしなかった。その代わりに大きく息を吸い込むような動作の後、それを一気に吐き出してきた。巨大鼠の醜い口から黄土色の、見るからに不浄な気体が拡散して吐き付けられる。


「う!? これは……」


 妙玖尼は反射的に顔を背け、法衣の袖で自らの口許を覆い庇う。非常に独特の臭気のある気体。一種の毒霧のようだ。普通の人間なら吸い込んだだけで昏倒してしまうだろう。妙玖尼は丹田に力を籠め、呪言によって自らの体内に浄化の気を循環させる。


 それによって毒の回りを抑える事は出来たが、濛々と立ち込める不浄の気体は妙玖尼の視界を覆って鉄鼠の姿を隠してしまう。



「…………」


 妙玖尼は油断なく敵の気配を探る。そんな彼女の真後ろ・・・に鉄鼠の姿が出現する。気体を煙幕代わりに彼女の背後に忍び寄ったのだ。


 奴が彼女の頭目掛けて鉤爪を振り下ろす。それが当たれば今度は彼女が頭を潰されて死ぬ番だ。だが……


「ふっ……!!」


『……!』


 妙玖尼はまるで後ろに目が付いているかのように、鉄鼠の鉤爪を流麗に躱した。彼女は目を閉じ視界に頼らず、妖怪の発する邪気のみを探知してその位置を特定したのだ。


 鉄鼠の攻撃を躱した妙玖尼だが、至近距離では錫杖は使えない。その代わりに懐から素早く一枚のを抜き出した。


「破魔滅妖!」


 叫んだ言葉と同じ呪言が書かれた札を鉄鼠の額に押し当てた。


『ギェッ!? ゴアァァァァッ!!!』


 札が一瞬にして発火・・し、その炎が広がり鉄鼠を呑み込んだ。全身を炎に包まれて狂乱する鉄鼠。しかしすぐに力尽きたように倒れて動かなくなった。消し炭になって消えていく鉄鼠。




「……ふぅ、終わったようですね。皆さん、お怪我はありませんか? 妖は退治しましたが、この分では他にも何が潜んでいるか分かりません。夜が白んだら早々にもと来た場所にお帰りになる事をお勧めします」


 妙玖尼は邪気が感じられなくなった事を確認して息を吐いた。同時に宿泊客達を護っていた光の陣が消える。


「お、おぉ……終わった、のか?」

「信じられねぇ。妖怪なんて初めて見たぜ!」

「アンタ、一体何者なんだ!?」


 客たちは唖然としたり興奮したり騒いだりと忙しい。妙玖尼は彼等の混乱を鎮める為に敢えて大振りな動作で錫杖の柄を床に突き立てた。



「私は金剛峯寺の妙玖尼。改めて言います。私はこの飛騨の地に災いと混乱をもたらす元凶たる邪気、いえ……瘴気・・を祓い清める為にやってきました」



「……!」


 嫋やかながら凛とした威厳を放つ彼女の姿に、男達は名状しがたい畏敬を覚えて一様に言葉を失うのであった…

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