4章

1

 目が覚めるといつもとは違う寝心地のベッドと布団。なんか固い。

 起き上がると、コスモスの花が模様になった布団と枕があった。

 うちのじゃないと思う。

 ゆっくりとベッドから立ち上がってカーテンを開ける。まだ日は昇っておらず、夜の帳が降りたまま。

 スマホで時刻を確認すると5時だ。

 いつも来ている冬用の分厚いパジャマが全身に冷たさを通る。

 電気をつけると現実に戻された。

 そうだ、自分は家じゃなくてマンスリーマンションに来たんだ。もう3日目の朝。

 身支度整えて、昨日近所のコンビニで買ってきたパンと自宅から持ってきたスティック型のカフェオレを朝食とする。

 リクライニングチェアに座ってテレビをつけてのんびりくつろぐ。

 テレビはお天気キャスターのお兄さんが、今日の外出時の服装や低気圧が近づいているので、体調崩しやすいひとは気をつけてくださいと呼びかけている。

 気温が4度。通りで寒いわけだ。

 退院の日、妻と娘とそして兄が来た。

 兄と娘にすぐに車に連れ込まれるかのように。

 妻は来たものの、最後まで家に連れて行こうとしたので、兄が止めた。まだこの状況で自分の立場が分かってないなと思った。

 そして兄が借りてくれたマンスリーマンションにしばらく妻と離れて住むことになった。

 自分の居場所を知っているのは兄夫婦、娘、妻の兄、実家の両親だけ。

 妻には教えていない。

 荷物はどうしたのかというと、妻がいない時の隙を狙って娘と兄夫婦で少し持っていった。足りないものは最悪現地調達すればいい。

 今の所滞在予定期間は3ヶ月。

 慣れというのは怖いもので、今までの習慣なのか、こんな時期でも夜の帳が降りている時間に目が覚める。

 本来出勤時間はその日の勤務によって変わってくるが、朝早くから来て、夜も日付変わる前に帰る。

 長時間勤務するのはよくないので、週に1回は17時台に帰る。

 妻と顔を合わせるのが嫌なんだと思う。

 無意識に自分の身を守るかに重点を置いてきた。

 よくリーマンが家に帰りたくないからと、長時間残業したり、飲みに行ったり、ジム通いや満喫で時間つぶしたりしている人がいるが、なんとなく気持ちが分かる。

 多分帰宅恐怖症なんだと思う。

 娘が中学に入って吹奏楽部に入ると言った。

 最初は親として練習はハードだし、人間関係のいざこざが激しいイメージがあったので、正直心配だった。

 弟が中学時代吹奏楽部でホルンをしていた。

 女子が実権を握っていて、男子は片手で数えられるほどしかいなかった。

 最初は同級生から女子ばっかの部活に入るなんてとか女目当てだと散々なことを外野に言われ続けてたが、やり通すことで段々言われなくなった。むしろ男子が入りやすくなった。

 弟曰く「すぐに辞めるととやかくいってくるやつの思うつぼだから3年間やり通す」と。

 男子ですらきつそうなのに、女子同士だといざこざに巻き込まれたらなんて考えていたが、その必要はなかったようだ。

 娘はこういった。


 お母さんと顔を合わせる時間を減らすために、あえてハードな吹奏楽部を選んだ。

 あの人と一緒にいるだけで疲れる。

 わがままでキャンキャンうるさいし、人を大事にしないから嫌い。

 自分がいつも主役でないと嫌な人よ。

 あの人のお陰で、私が主役の日でも、台無しにされ続けてきたんだから。

 それにお父さんが馬鹿にされているのを見ていると、自分もああなっちゃうのかと思うと怖い――私は絶対あの人みたいにはならない。反面教師にする。


 自分にだけこっそり教えてくれた本当の入部理由。

 娘らしい考え方だなと思った。

 実の娘ですら嫌われているのに気づいていないみたいだ。ただ単に反抗期だと思っているそうだが。

 妻は娘が吹奏楽部に入ることを反対したが、私がお金を出すということで落ち着いた。

 学校の悩みも妻より自分に相談する機会が増えた。

 2年生になってから妻のことを知ってる担任にあたり、中学時代の妻の話を聞くことが増えた。

 

 ――どうも昔から素行が良くなかったらしい。


 娘の担任が当時付き合っていた彼氏にちょっかいをかけたり、容姿をけなしたり、筆記用具を借りパクしたり、挙げ句の果てには婚約者がいる男性教師と関係を持っていて、騒ぎになったと。これに関しては、学校で今でも語り草にされていると。

 揉めても注意されても、妻は義理の両親に頭を下げさせて、いつも泣いたり不貞腐れていたという。

 妻は自分が不利になると被害者モードになるが、当時からそういう所があったのかと納得できる。

 娘の担任が娘と私に対して当たりが強いのも無理もないのかと思う反面、妻の過去は関係ないからそんな理不尽な対応をされる筋合いはないと。

 まるで娘が妻のようになると決めつけられているみたいだ。

 娘は娘。蛙の子は蛙というが、トンビが鷹を産む場合もある。

 娘は2年生になってから、妻のことを引き合いにされないように、一生懸命部活と勉強の両立を頑張ってきた。家で何もしない妻の代わりに家事もしている。

 部活で先輩による理不尽な嫌がらせや、部長からの八つ当たりの道具にされていても、娘は人前で弱音を吐かず家で自分の前だけ言う。

『お父さん、私、もうお母さんと離れたい。吹奏楽部は好きだけど、まみりんやちかちゃんからお母さんのことでとやかく言われるのが嫌だ。いっそのこと転校したい。お父さんもお母さんと離婚したほうがいいと思う』

 昨日送られた娘からのメッセージアプリの内容。

 自分はそうかしか返事ができなかった。

 まだ決めかねている所がある。

 妻に退院した日の昼に『暫く距離を置こう。もし俺の体調不良が長期化した場合のことを考えて、働きに出てほしいと。そうでなければ離婚も考える』と送った。

 返事はどうして働かないといけないのか、専業主婦は結婚の時の約束だ、離婚なんてあり得ない、ちゃんと家のことするからと。

 確かに妻と結婚する時に、専業主婦にさせることを約束した。誓約書まで書かされてた。

 でも時が経つと状況が変わることだってある。

 今がそういう時なんだ。

 おそらく妻は自分が倒れない前提であれを出してきたのだろう。

 結婚した時は妻可愛さになんでもかんでもはいはい言うことを聞いてきた。

 10年前、実家の母が転倒したときも、妻は働くのは嫌、介護はしないと突き放した。

 強く言われた上、妻の母が出てきたので、押しに負けてしまった。

 実家の母はすぐに回復して、今でも元気に働いているが、高齢なので、父と一緒に勤務時間を午前中だけにしている。

 本人達はもっと働きたいと口を尖らせているが、健康のことを考えてだ。

 空いた時間には2人で近所のおばさん達とヨガに通ったり、山歩きに行ったりとアクティブになっている。

「あれはホントないわー」

 コーヒーを一口つけて呟く。

 自分が病院に運ばれた日にすぐに来ず、兄と娘に連れられて来たのと退院の日だけ。

 兄夫婦と娘は合間縫ってお見舞いに来てくれたが。

 しかも妻が来ても一方的な要求しかしてこなかったので、正直疲れた。

 同じ病室のおじちゃんたちからは「なんか大変そうだけど、頑張れよな」とか「おたくの奥さん? メチャクチャなことデカイ声で言ってるから、丸聞こえだよ。あんなの病人に対するセリフかよ」とか遠回しにうるさいと言われた。

 すみませんすみませんと謝ったら、彼らは「俺たちが証人になるからよ!」と調子よく返してくれた。

 さて、これからどうしようかと考える。

 まず兄夫婦が午前中に来る。娘は学校に頑張って通うと。あと3日で終業式で冬休み入るからと。

「なんか落ち着かないな」

 思わず呟いた。

 妻のヒステリックな声や悪口が全然聞こえない。

 静かに朝を迎えるのは何十年ぶりなんだろうか。

 今から横になろうとベッドに横たわるが、やっぱり長年の慣れなのか寝れない。

 妻との生活に疲れたので、いつも隠れてカウンセリングに通っている。そこで処方される薬を飲んで10年凌いできた。その中には居眠りを止める薬もある。

 夜ねれないから日中眠くなるのを抑える。

 他に精神的な安定をはかる薬、漢方薬など。

 妻に言ったらおそらく止められるし、薬をすてられるだろう。だから妻が寝ている時に隠れて飲んでいる。

 夫が精神科のお世話になってるなんて恥ずかしいと。

 その状況にしたのは妻自身だが、全く気づいていない。

 カウンセリングの先生からは家族との生活をできるだけこまめに記録しなさいと言われた。

 その日記帳もここに持ってきた。おそらく10年分で約3冊。一冊3年間かけるタイプだ。

 本当はスマホでしたいところだが、手書きの方が信憑性が高まることからとカウンセリングの先生に言われた。

 ダンボールから中身を確認して、今使っている日記帳と筆記用具を取り出す。

 

 12月16日

 病院を退院して2日経つ。体はだいぶ疲れてたようで、朝はやく起きたけど2度寝してしまった。

 兄のお陰でのんびり過ごせる。

 今日は久しぶりに高校入試の過去問をやってみた。

 地元の数学の問題は俺の時と変わらず難しい。

 来年は娘がこれをやることを考えて、今から勉強せねば。

 妻はどうしているか心配だが……。


 昨日のことを書いた後は、クイズ式のアプリゲームをする。

 もう寝れないなら、いっそのこと頑張って起きよう。


 ――レジなどで支払いに使われる……カルトン!


 ――粒の大きさによって、大納言……小豆!


 問題を最後まで言い切る前に答えるのは難しい。

 色々出題の仕方にパターンがあるから。

 まだまだ7割しか答えられてない。高校時代より落ちてることを実感した。

 ゲームに夢中になっていたら、インターホンが鳴った。

 インターホンのモニターを確認すると、兄夫婦がやってきた。

 兄は黒のスーツにねずみ色のネクタイにとビジネススタイルだが、兄嫁は青のアンクルパンツに白のセーターだ。

 そそくさと玄関まで出迎えると、兄嫁が紙袋片手に「これどうぞ」と渡した。

 中身はインスタントの食事類やペットボトルのお茶数種類。

 兄嫁か髪を短くしているのか、顔筋がはっきり見える。

 凛々しい顔つきだが中身は穏やかだ。

 妻と正反対のタイプ。

「いいんですか?! わるいねー。さぁ入って」

 2人分のスリッパを用意してリビングに案内する。

 つけていたテレビを消して、音が何もなくなる。

 床に座らせるのは悪いので、ベッドの上に座ってもらう。

「何もなくてごめん」と言うと、気にしないでと兄嫁からフォローが入る。

 自分は兄の横に座った。

「結花はちゃんと改心してくれるかね……」

 ぼそっと呟いた言葉虚しく響く。

 兄夫婦は顔を下に向ける。まるで気まずいと言わんばかりに。

「……それなんだけどな、これを見てほしいんだ」

 兄は黒のビジネス鞄から分厚くなっている透明なクリアファイルを取り出した。

「これは?」

「俺が知り合いに頼んで、結花さんの過去を調べてもらった」

 クリアファイルから取り出して、パラパラとめくっていく。

 

 ――娘の担任が言っていた話は本当だった。


 過去に男性教師と関係をもって揉めたこと、そして今その男性教師が娘が通う中学校に再赴任していること。

 中学時代、妻は娘の担任と同級生で、当時担任が付き合っていた彼氏に妻がちょっかいをかけていた。他にも被害者はいる。

 中学・高校時代に同級生の子を不登校に追い込んだこと。しかも三人も。

 妻のいとこが長年妻のお世話係&召使いのような扱いをされていること。それが今も続いている。

 家事は出来ず全て他人が作ったものを出していた。

 お手伝いさん達に任せっきりで日中はなにもしていない。

 浪費が激しい理由は妻とその母親の買い物によるもの。

 学校内のトラブルは全て妻両親が頭下げてお金だけ支払って終了で、妻自体にお咎めなし。

 学力に見合ってない大学に行っているが、妻の母親がお金積んで進級させた。

 地元では家の名前に笠に威張り散らして、素行が悪いことで有名だった。

 


 ――妻はガチので、だったとは。


 娘の担任の気持ちが分かる。もし自分がその立場だったら。いじめっ子の娘が自分の担任で受け持つことになったら。大人の対応が出来る自信がない。


「これ、結婚の時に聞いてたのと全然違うな」

 日記帳が入っていたダンボールから分厚いバインダーを取り出した。

 タイトルは書いていないが、中身はお互い結婚する時に身辺調査なるものをやってもらった。

「これさ、見てほしいんだ」

 妻のプロフィールから、どんな過去を歩んできたか、現状などなど。

「なんかめちゃくちゃ美化されてないか? だって、容姿端麗家庭的、性格は穏やかで、昔からいじめられっ子だった……って」

「全然違うじゃん」

 3人で思わず吹き出す。

「多分結花さんのお母さんが絡んでそうだな。盲目的に娘のことを信じ切ってる所あるから」

「うん。そうじゃないと私や美羽みうさんに失礼な態度取らないし」

「……そうか、千雪さんと美羽さんにも嫌がらせしてたんか……」

 兄嫁はうんと小さく頷く。

「千雪は子どものこと、美羽さんは体のこと言われてたみたい。昨日、俺さ、美羽さんとこに行って、結花さんの名前出した瞬間、顔曇らせてた。『あの人の名前も話も聞きたくないって。容姿だけ整ってる人には何も気持ち分からないでしょうね!』って。多分俺や悠真の前じゃなく、見えない所で嫌がらせしてたと思うよ」

 弟嫁はおでこにあざがある。同級生からのいたずらによるものだ。色々手を施したそうだが、完全には消えず、少し目立つ形で残ってしまった。

 弟は「そんなの関係ねぇ! 全部ひっくるめて好き」と言っている。

 多分長年見た目のことを妻から言われてきたのかと思うと、自分のコントロールできなさを責めたくなる。

 弟がこのことを知ったら烈火のごとく怒るだろう。

 弟嫁が妻を嫌うのも名前聞くだけでも拒否反応だすとしたら相当だ。

 妻は私は可愛いから同性からよく嫌われるの、いじめられるのなんて言っていたが、怒りを買う原因を自分で作ってる。

 ホームパーティで保護者からいじめられたのも、そりゃ嫌うわと何度もいいそうになったが、結局妻の勢いを恐れて何も止めなかった。自己保身に走った自分に責任がある。

「本当は今までの発言含めて、私と美羽さんにきちんと謝って欲しいところだけど……あの性格じゃ無理よね」

「結花、生まれてこの方一度も頭下げたことない、謝ったことないっていっつも自慢げに言ってるんだな。あぁー! ぜってー無理だろーな!!」

 頭を抱えたくなる。自分の知らない妻の姿を次々と出てきて兄夫婦の口から聞かされる度に。

「確かに結花さんは見た目可愛らしいし、男の人が味方になりたい気持ちは分かる。でも、性別や変えようがないものを見下したり、態度変える人は女性でも男性でも離れる。それを理解出来てないから、被害者モードになるの。結花さんによる被害者は私たちだけでなく、他に沢山いるんだから。確かに悠真さんも被害者だけど、彼女の横暴さを止められなかった加害者でもあるの。悠真さんだけでない、結花さんのご両親も」

 静かに言う兄嫁の内容は正論で心に突き刺す。

 そうだ、自分は被害者でもあり、加害者なんだ。

 

 もっと早くに妻に真剣に向き合っていれば?

 普段から強く言い返すことができていたら?

 妻の本当の過去を結婚の段階で知って、一度立ち止まって考えてたら?

 言い訳するなら、当時もう20代後半で、結婚するのに丁度いいかと考えていたし、もちろん、妻のことが好きだったから、彼女の母親が反対しても、無茶苦茶な誓約書を出されても、受け入れた。

 その結果、被害者を沢山出すことになった。

 妻が今までやった因果が今巡ってきている。

 それは私と娘そして妻本人に。

「覆水盆に返らず。今出来ることと、悠真がどうしたいか考えなさい。俺は悠真と陽鞠ちゃんの両方がいい結果になってほしいと思ってる。そのためならベストを尽くす。結花さん? そんなもん知らん。あの人が自滅しようがしまいが知ったこっちゃない。ただ、あの人が不利になる形にしようと思う」

「相変わらず、手厳しいなー。はる兄」

 兄弟で一番怒らせたら怖いのは兄だ。父の次ぐらいに怖い。しかも、社員に対しても厳しいとこは厳しい。

 会社での言葉遣い、服装、マナーなど。それが高校生のアルバイトでも容赦ない。

 さすが会社で教育係やってるだけある。

「引き続きあの人の身辺調査するから。もし居場所を聞かれても、探られても無視するんだ。陽鞠ちゃんにもそう言うから。――絶対絆されるな、いいな?」

 険しい目つきで顔を近寄られ、は、はいと覇気のない声で返事した。

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