第5話 光の守護者

まだ内戦が起きる少し前のことだが、地方から丙吉へいきつという男が招集されたことを思い出してほしい。

この丙吉は魯国(現在の山東省南部)出身で、法律を学び都で廷尉監ていいかん(司法省課長級)を務めていたが、法に抵触(詳しいことは不明)して退職し、帰郷してから詩経しきょう礼記らいきといった儒学の経典を学び直したあと、県の次官(副市長級)を務めていた。

恐らく製鉄業で財を成した一族の出身と思われ、裕福な家で育ったせいか穏やかで控えめな性格で、一見頼りない村夫子然そんぷうしぜんとした男だった。

生年は不明だが、没年から推定してこのとき35歳前後と設定しておく。


その丙吉が妻子を残して都に単身赴任したのは、内戦が終わり皇太子が自害した直後であった。

廷尉監に復職し、郡邸ぐんてい(都に設置された郡の出先機関。日本の江戸時代における藩邸のようなもの。牢獄を備えていた)の獄に収監された未決囚の裁判を担当することになった。この郡邸には謀反人の生き残りが収監されているという。

丙吉はまず下役人に獄舎を案内させ、国事犯である謀反人と接見することにした。下役人はそんという名の者だった。



薄暗くジメジメした獄舎でそのと対面した丙吉は、絶句し立ち尽くした。

「…皇太子、いえ、謀反人劉拠の孫でございます」という尊の暗い声にも、しばし応えられなかった。

そこにいたのは、汚れた襁褓おむつに包まれた、頬が痩せ泣き疲れて眠る、生後わずか数ヵ月の赤ん坊だった。


早婚のこの時代、38歳の皇太子には側室・史良娣しりょうていとの間の息子で当年19歳の嫡子・劉進りゅうしんがおり、その劉進と妻の王夫人の間には子供が生まれたばかりだった。

皇太子の死と同時にその妻と息子夫婦も殺され、この赤ん坊だけがたった独り残されたのだ。


高貴な家に生まれながら生後間もなく孤児となったうえ、祖父母も両親もみな無実であるのに無残な死を遂げた!

その二重の哀れな境遇を目の当たりにし、

(ああ、天よ!このようなことが許されるのか!皇太子も皇孫こうそんも無惨な死を遂げ、残された皇曾孫こうそうそんのお命も風前の灯火、それも、実の曾祖父であられる聖上へいかの命令で奪われようとしている。天はこの哀れな御子を救って下さらないのか!あまりにもおかわいそうではないか…)

という思いが胸に迫り、丙吉はしばらく声を出してすすり泣いた。


だが、赤ん坊のかすれた声に丙吉はハッと我に帰った。

(そうだ…わたしだ!この御子を救えるのは吾しかいないではないか!)

丙吉には、この赤子を救うことこそ天命であると感じられた。

だが、それは非常に危険な選択であった。いや、自殺行為と言っても過言ではない。


現時点ではこの赤子は謀反人の一味であり、それを庇ったとされれば一族全て極刑である。実際、皇太子に加担せずその場しのぎで従うふりをしただけの任安や、門の通過を見て見ぬ振りをした田仁は族滅の憂き目にあっているのだ。

そして皇太子の無実も、江充の暗躍も、巫蠱事件との関連も明らかにはなっていない。

何しろ巫蠱事件も謀反も容疑者のほぼ全ては無実であり、いわゆる"悪魔の証明"をしなければならないのだ。

そしてなにより、怒れる武帝の心は未だ魔に囚われている。武帝には他にも男子が何人もいる。躊躇なく赤子の処刑を命じるだろう。

まるで巨大な津波の前にひとり立ち塞がろうとするようなものだ。

一見ぼんやりして見える丙吉だが頭脳は鋭い、当然危険性を充分理解していた。


だがそれでも、丙吉は赤子の生命を守ることを固く決意した。


すぐさま尊に命じ、乳の出る女囚を探させたところ、そくという女囚の乳が出るというので、乳母に任命し赤子に乳を飲ませることにした。

丙吉の長い戦いが始まった。


それからの丙吉は、難航を極めている巫蠱事件の捜査と並行して、皇曾孫の世話にも全力を注いだ。皇曾孫を暗く湿気のある獄舎から郡邸内の一番陽当りがよく乾燥した官舎へ則とともに移し、全て自費で衣類や食料など必要なものを買い揃えた。


だが則は余りたちの良くない女で、命令に従わず皇曾孫を世話せず放置していたため、罰して獄舎へ戻した。

代わりに温厚で慎み深い女囚、胡組こそ郭徴卿かくちょうけいの2人を選び乳母として養育させた。


丙吉は出勤前の朝と退勤後の夕方毎日2回皇曾孫の様子を見に行き、乳母は世話を放置していないか、敷物は濡れていないか、など細やかに気遣った。それも、自分が病気で行けない場合は下役人の尊を派遣し、つぶさに報告させた。一日も欠かさずにである。


授乳期の栄養不足が祟ったのか、赤子は虚弱で度々病気になり、一時は生命すら危うかった。

そのため柔らかく滋養のある食べ物を届け、病気であれば医者を呼び薬を与え、それまで名前がなかった皇曾孫に、少しでも健康になってほしい願いを込め『病已へいい』(病気は完治した)という名前も付けた。

実の子と同じかそれ以上の愛情を注いだといえる。


乳母の胡組が刑期を終えた際、病已が胡組と別れるのを嫌がったため、自費で給料を払い乳母として雇い続け、こうして5年もの間、我が子のように病已を養育した。

この期間、武帝や巫蠱事件はどうなったのだろうか。


時間の経過とともにどうやら皇太子は謀反を起こしたわけではなく、江充一党の策略から身を守るためやむを得ない挙兵だったこと、巫蠱事件自体が江充のでっち上げであることが少しずつ明らかになっていった。


内戦の翌年の征和三年(BC90)、丞相で鎮圧の功のあった劉屈氂が巫蠱の罪で処刑されたあと、高祖劉邦の墓守役人を務める田千秋でんせんしゅうが皇太子の無実を訴え、ようやく武帝の怒りは治まり江充の罪が暴かれた。

誠実な諫言に心打たれた武帝は、処刑した劉屈氂の後任に田千秋を丞相に抜擢した。先祖である高祖からの戒めの使者に思えたようだ。


江充の一族や協力者、皇太子を追い詰めて報奨を受けた者たちも一転して処罰された。あの宦官の蘇文は橋の上で火あぶりの刑に処された。


こうした反動的な粛清の嵐の中で、皇太子鎮圧に功のあった馬通ばつうという男は、誅殺を恐れて兄の馬何羅ばからとともに武帝暗殺を計画した。殺られる前に殺ってしまおう、というわけだ。

馬何羅が夜間に武帝の寝所に侵入したものの、馬兄弟の行動に不審を抱き警戒していた武帝の側近・金日磾きんじつていが暗闇の中で格闘の末に馬何羅を捕らえ、馬兄弟は処刑されるという一幕もあった。

なお余談だが、馬通の曾孫が後漢創業の功臣である馬援ばえん、その子孫が三国時代の馬騰・馬超親子、金日磾の子孫は金旋きんせん金禕きんい親子である。


こうして捜査の進展とともに皇太子の無実が明らかになり、さすがの武帝もショックを受けた。

自己批判のみことのりを布告し、多くのまじない師を追放し、皇太子の亡くなった土地に思子宮(我が子を思う)という宮殿を建て、帰来望思(帰ってきてほしい)の台を設けた。

人々はこれを聞き、武帝と皇太子を気の毒に思い涙を流した。


とはいえ悲しんでばかりもいられず、新たな後継者を定めなければならない。

後元こうげん二年(BC87)、3人いる息子の中でまだ8歳の末息子・劉弗陵りゅうふつりょうを後継者と心に決めた。幼少ながら聡明さを見込んだのだ。

だが、自分の死後に幼い皇帝を傀儡かいらいとして外戚がいせき(皇帝の母親の一族)が権力を握り国家を乱す恐れがある。

漢ではかつて、高祖の死後に呂太后とその一族が専横を振るい鎮圧された例もある。


それを未然に防ぐため、武帝は非情な決断を下した。

寵愛する側室であり弗陵の生母である、通称けん夫人こと鉤弋こうよく夫人を処刑したのだ。


武帝はもはや命尽きようとする身でありながら、皇統を存続させ国家を安泰にするためならば、私情を捨て愛する妻さえ犠牲にする冷徹さだけは未だ宿しているのだ。



この間、丙吉は慎重に行動していた。自分が皇曾孫を養育していることは誰にも話さず、関係者にも固く口止めしていた。そして巫蠱事件の捜査と裁判を極力遅らせ、担当する囚人は誰一人処刑させなかった。事態が好転するのをひたすら待っていたのだ。しかし、丙吉に最大の危機が訪れる。


後元二年(BC87)、武帝が病気の折、占い師が「長安の獄中に天子(皇帝)の運気を感じます」と言上した。

これを聞いた武帝は(老いた自分の命ならいざ知らず、新たな皇太子の座を脅かすとあっては見過ごせない)と考えたのであろう、長安の獄中にいる囚人を罪の軽重にかかわらず全員処刑するよう命令を下した。

元皇太子が無実とわかっても病已は未だ囚人の身分だ。万事休すである。


その晩、勅使が丙吉の担当する郡邸にやってきた。「勅命である、開門せよ!」

だがなんと、丙吉は獄舎の閉じた門前に立ちはだかり立ち入りを拒んだのだ。


「ここには皇曾孫がおられます。たとえ誰であろうと不当に処刑するなどもっての外、まして実の曾孫であればなおさらです!」


と、いつもの穏やかな丙吉に似合わず頑として開門を拒否した。


武帝の意に沿わないだけで処刑された者は数えきれない。それどころか、勅命に真正面から逆らったのである。

このときの丙吉は自分の生命など眼中になく、ただひたすらに病已を守るその一心を貫いたのだ。


丙吉と勅使は一晩中対峙し、とうとう夜明けにまでおよんだため、勅使は引き返さざるを得なかった。

勅使は武帝にありのままを報告し、丙吉を叛逆者として弾劾した。しかし武帝の反応は意外なものだった。


「そうか………天が、丙吉にそうさせたのだ…」うつむいた武帝の口からぽつりとこぼれた一言だった。

丙吉の行動を天の意志と受け取り、罪を問わないばかりか死刑命令を撤回し、一転して大赦令たいしゃれいを布告した。

年老いて気力が失せていたのか、それとも死を目前にして江充の呪縛から解かれたのだろうか。いずれにしても、武帝の眼にはかつての恐怖と怒りに満ちた色はなく、ただの穏やかな老人の瞳であった。


死罪を覚悟していた丙吉だったが、お咎めなしのうえ大赦の布告を聞いて心底驚いた。張り詰めていた緊張が解かれ、放心した。

安堵と疲労感に包まれながら、天を仰ぎ心の中でつぶやいた。

(天が皇曾孫をお守りになったのだ。天道は決して潰えていなかった…)と。



この大赦により、巫蠱事件で収監されていた数万の囚人は病已も含めて全員釈放され、長安の街は歓喜に包まれた。

彼らが生き延びたのは全て丙吉のおかげであった。

だが丙吉は自分の功を決して語ろうとせず、このことが世の中に明らかになるのはずっと先のことであったのだが。


それから間もなく武帝は死去した。治世55年、71年の生涯であった。

武帝は臨終の床で、信頼する3人の側近に後事を託した。


少年時代から武帝の身の回りを世話し、謙虚と実直を見込まれた霍光かくこう(霍去病の異母弟)は大将軍に、

元は匈奴の王子で、暗殺者から身を挺して武帝を守った忠臣の金日磾は車騎将軍に、

怪力の持ち主で武帝の護衛官ボディガード上官桀じょうかんけつは左将軍に任じられ、幼少の皇太子を即位させた冊立さくりつの功臣として、政権運営を担うことになった。


こうして即位したのが8代皇帝・昭帝しょうていである。大赦令が布告され、新たな時代の幕開けが告げられた。


新たに即位した昭帝はまだ幼いが聡明であり、輔弼ほひつする大将軍霍光は派手さはないが穏やかで乱を望む人物ではない。巫蠱の禍が再燃することはないであろう。

最大の危機を乗り越えたと見てとった丙吉は、病已をあるべき場所へ送り出すことにした。


病已の皇籍復帰申請は受理されなかったが、病已の亡き祖母(故皇太子劉拠の妻・史良娣)の実家である史家に曾祖母と大叔父が存命していることがわかったので、史家へ病已を託すことにして送り出した。奇しくも史家の所在地は丙吉の郷里、魯国であった。


(魯国は温暖で良い所だ。何か困ったことがあればそれとなく手を差し伸べれば良い。例え一庶民としてでも穏やかな人生を送って頂きたい。もう二度と会うこともないだろう…)


また、足掛け5年に渡り乳母を務めた胡組と郭徴卿の2人に心から感謝し、充分な報酬を渡したうえ、それぞれの郷里の家族のもとへ送り届けた。

こうして物語は終わった。かに見えた。



だが丙吉と病已は13年後、意外なかたちで再会することになる。

その間の2人の身に何が起きたのだろうか。

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