第41話 乙姫は別れの言葉を
王城近くの路地裏に、王室の紋章入りのフーデッドケープを着て歩く人間がいた。
フードでしっかりと頭を覆っているので、顔ははっきりとは見えない。
だから時折すれ違う住民も、こちらのことを特に気に留める様子も無かった。
今日は休日であるため委員会の開催は予定されていない。
故に、オトがこっそりと城を抜け出したところで、内部の人物にバレる可能性は限りなく低いはず。
こうやって城壁の外に出るのはいつ以来だろうか。随分と久しぶりの外出だ。
普段は女王という立場もあって気軽にお出かけなど出来ないし、そうでなくともそもそもが引きこもり体質のオトである。理由もなく外に出たいとも思わない。
今回も明確な目的があって、お忍びで外出しているのだ。
建物の隙間を縫うような細い路地を進んでいくと、狭い水路に架かる橋が見えた。
そしてその右手の水路沿いに、大人一人と子供一人の人影が。いや、片方は一人ではなく一体と数えるべきか。
「こんなところで会うなんて奇遇ね。子供と遊んでいたの?」
声を掛けると、フードの下の淡く光る蒼い瞳がこちらを向く。
「貴様、オトか?」
「ええ。
私は被っていたフードを軽く持ち上げて、相手に顔をしっかりと見せながら歩み寄る。
不気味な雰囲気を放つ蒼い眼と、一見髪の毛のように見える銀色の触手。人類が
向こうも触手が露わにならない程度に少しだけフードを持ち上げ、幼女と共にオトの方へと近づいてきた。
「貴様こそどうした? まさか
「ええ、偶然通りかかっただけよ。でも、挨拶しておきたいとも思っていたから、丁度良かったわ」
「挨拶だと?」
何故その必要があると、人間がするように首を傾ける化け物。
オトはその仕草に微苦笑しつつ、囁き声で答える。
「……実は私、もうすぐこの国を出るのよ」
「何? 為政者である貴様は、同郷の仲間を見捨てるというのか?」
眼光鋭く、問い詰めるように言うフロリダ。海異特有の、殺気すら感じさせるほどの冷たいオーラ。
普通の人間ならば怯えて立ち竦み、声を上げることも出来なくなるだろう。
しかしその時、隣でフロリダの顔を見上げていた女の子が、全く怯んだ様子もなく諭すように告げた。
「フロリダおねーちゃん、ちょっと怖いよ? 喧嘩はダメだよ」
不意に投げかけられた幼女の言葉を受けて、人型の海異は慌てて笑顔を作る。
「あ〜悪かった。でもこれは喧嘩じゃないぞ? コッツァには少し難しい話をしているから、今は大人しく待っていてくれな」
「そうなんだ。じゃあコッツァは、あっちでゴミ拾いして待ってるね!」
「ああ。水路に落ちないように気を付けるんだぞ」
とてとてと水路の方へ駆けていくコッツァを見送って、フロリダはふーっと息を吐く。
海異の頂点に君臨するフロリダを振り回すなんて。あの子、只者じゃないわね……。
将来は絶対大物になるに違いない。もしかしたら十数年後の、リューグ王国の女王は彼女かもしれない。
オトがそう感じざるを得ない程に、コッツァには表現しようのない不思議な魅力があった。
「コホン。で、話を戻すぞ。国を出るということは、貴様は仲間を見捨てるつもりなのか?」
改めて訊かれて、オトは首を横に振ってそうではないと否定する。
「いいえ、見捨てるつもりはないわ。出来ることなら、ちゃんと最後まで女王の役目を全うしたいと思ってる。けれど、国民はそれを望んでいないし、国際社会も認めてくれない。だから仕方ないのよ」
「ほう、人間社会も色々とややこしいのだな。だが、為政者を辞めることと国を出ることが何故同義なのだ? 生まれ育った地を離れる必要がどこにある?」
「それは……。私がこの国にいる限り、私の命が危ないからよ」
少し悲しげに月の白の目を伏せる。
「この国の中には、私の存在を邪魔だと思っている勢力がいるの。その勢力はクーデター、政権転覆を企んでいて。私のことを暗殺するつもりらしいのよ。女王じゃなくなれば関係無くなるんじゃないのって思うかもしれないけれど、彼らにとっては王家の血を引いている人間っていうだけで殺すべき存在だから……。ああ、それとその勢力以外にもう一人、ただ単純に私のことが嫌いだからって殺そうとしてくる人もいるし」
あまり暗くなりすぎないように、最後に冗談っぽくアカリの話を付け加えた。
ここまで黙って聞いていたフロリダは、蒼い瞳を淡く光らせ強烈な怒りを滲ませる。
「そんな下らぬことで貴様は住み処を追い出されようとしているのか? 吾れも長く生きてきたが、海の世界でもそこまでの醜い話は聞いたことがない。もし貴様が良ければだが、吾れが手助けしてやろうか?」
人の姿をした海異の、フードの下の銀色の触手が気色悪くうねり出す。
オトがお願いさえすれば、きっと反体制派はフロリダによって無惨に噛み殺され、一掃されることだろう。そうなれば暗殺の心配は無くなり、女王を辞めた後も一般市民としてリューグ王国でのんびりと暮らしていける。
でも私は、そんな結末は望まない。
たとえ私のことをどれだけ嫌っていたとしても、彼らも大事な国民だから。誰一人だって海異の犠牲にさせる訳にはいかない。
「大丈夫よ、気にしないで。これは私個人の問題だもの」
フロリダの提案を断って、オトは柔らかく微笑む。
「それに、次の女王はナギサに任せるつもりだから。これならあなたも安心でしょう?」
言うと、フロリダは驚いたように目を見開いた。
「ナギサが、次の為政者だと?」
「ええ。私は傍に居てあげられないから、あの子のこと宜しく頼んだわよ」
人型の海異の肩をぽんと叩いて、オトは橋に向かって歩き出す。
そして向こう側に渡り終えたところで、立ち止まって振り返る。一つ言い忘れていた。
「ああそう。私が居なくなった後、ナギサが女王になるまでは少し間があると思うの。その間、どこかのアホピンクが好き勝手するかもしれないから、もし私とあなたとの約束を破るようなことがあったら一発殴ってもいいわよ。あの子頭おかしいから、正気に戻してあげて」
最後にそんなことを告げ、オトが建物の陰に消えていく。
「壊れた人間を正気に戻せだと? 何故吾れが見知らぬ人間の世話をせねばならんのだ。……だがまあ、そいつが海を汚すような人間であるなら、その時は容赦無く叩きのめしてやろう。それでいいか、オト?」
残されたフロリダは、見えなくなった女王へ文句をぶつけつつも、その表情はとても穏やかなものだった。
思わぬ道草をしてしまったせいで予定よりやや遅れたが、オトは無事に目的地に到着した。
別にオトの体調が悪いわけではない。今日ここに来た理由は、入院しているナギサに会うためだ。
フードを深く被り直して、エントランスから院内に入る。
受付やベンチがある広いロビーを抜けて、エレベーターホールへ。
ボタンを押すと右側の扉が開いたので、他の人と一緒にならないよう素早く乗り込んで七階に向かう。
七階にはナギサのいる病室以外に患者はいない。そして彼女の存在はごく限られた関係者以外には知らされていないため、ほとんどの医者や看護師は閉鎖フロアだと思っている。だから誰かと乗り合わせてしまうと非常に厄介なことになるのだ。
彼女の病室のある七階のフロアに降り立つと、暗い廊下の先に一人の人影が見えた。
この十年間マリジア群島でオセアーノの頭領をしていた、現在は海伐軍に所属しているサルモーネだ。彼はアーシムにお願いされて、ナギサの病室の前で見張り番をしている。見張り番にはもう一人、クロイッソーネ=ペーシェパッラという同じくオセアーノの少女もいたはずなのだが、今日は非番なのか見当たらない。
コツコツと靴音を響かせながら廊下を進んでいくと、サルモーネが緊迫した様子で腰に帯びた剣の柄に手をかける。
向こうからすればフードを深く被った怪しい人物が近づいてくるのだから当然の反応だ。むしろこの状況で警戒すらしないようなら、そもそも見張りとしての役割を果たせていない。
「誰だ!」
鋭い口調で投げかけられた問いに、オトは一旦立ち止まってフードを脱ぎながら答える。
「驚かせてごめんなさいね。不審者じゃないのよ?」
こちらの顔を見て目の前の人物が女王であると気が付いたサルモーネは、ホッと息を吐きつつ剣の柄から手を離した。
「何だ女王様か。びっくりしたじゃないか」
「ナギサに会いにきたのだけど、入ってもいいかしら?」
「もちろん構わないが、特に変化は無いぞ? 相変わらずの眠り姫だ」
「眠り姫。ふふっ、素敵な表現ね」
挨拶もそこそこに、オトは引き戸を開けて病室へ足を踏み入れる。
ベッドの横まで移動し顔を覗き込むと、ナギサは美しい寝顔ですやすやと静かに眠っていた。
確かにこれは、綺麗で可愛い眠り姫ね。
部屋の隅に置いてあったスツールを引き寄せて、彼女の顔が見える位置で座る。
右手でそっと髪を撫でながら、オトは優しく語りかける。
「私、あなたにいくつか謝らないといけないことがあるの。面と向かって話せるタイミングは今しか無いから、ちゃんと聞いてくれると嬉しいわ。まず一つ目。ナギサが目を覚ました時には、きっと私はこの国にはいない。勝手に目の前からいなくなることを申し訳ないと思うけれど、こうする以外に方法が無くて。だから許して。そして二つ目。これは許してくれなくても構わない。……私はあなたに、次の女王の座を押し付けた。私がいなくなった後、ナギサにリューグの女王を任せることになったわ」
彼女の頭から右手を離し、今度はナギサの左手を両手で包むように握って、言葉を継ぐ。
「もちろん、私のようになれとか、真似をしろなんて言わない。むしろナギサが思うままに、好きにやってほしい。あなたが最善だと思った選択を、最良だと信じた道を、突き進んでほしい。もしその結果この国が滅んだとしても、それは決してあなたの責任じゃない。全ては責務を投げ出した私のせいで、きっと最初からそうなる運命だったってだけ。だから気負わず、あなたらしくリューグを率いて。ナギサが思い描く、幸せな世界を築いて。大丈夫、ちゃんとどこかで私も見守っているから」
気のせいかもしれないが、ナギサが僅かに不安そうな表情を浮かべたので、オトは微笑みながら安心させるようなことを言った。
それから、安心させるついでにこれも教えてあげるべきだったなと口を開く。
「そうだ。ナギサも日本から来たのなら、多分この機能が使えるはずよ。あなた右利きだったわよね? ちょっと指曲げるわね」
オトはスツールから腰を浮かせて、ナギサの右腕に手を伸ばす。
力が入っていない彼女のしなやかな細い腕を持ち上げつつ、人差し指以外の指を全て折り曲げると、ゆっくりとその腕を動かした。
「こうやって空中に指先で波線を描くと、ほら。画面が出てきたでしょう? この世界の人間はこれを
オトは一旦彼女の腕をそっとベッドに下ろすと、慣れた手つきで素早く水霊の窓を開いた。目的のチャット画面に遷移してリストからナギサの名前を選ぶと、目にも留まらぬ速さで文章を入力し、送信。
直後、ナギサの前に浮かんだ半透明の画面に、オトが打ち込んだ文章が表示される。
『本当はもう一度、あなたの声を聞きたかった』
「テストだから内容は適当よ。とまあ、こんな感じで簡単にメッセージを送り合えるから、困ったことがあったらいつでも頼ってちょうだいな。窓を全部閉じる時は左上のバツボタンね」
最後に画面の閉じ方を教えて、水霊の窓のざっくりとしたレクチャーを終える。
「さてと」
病室の机の上に置かれた卓上時計で現在時刻を確認し、立ち上がったオトはスツールを元の位置に戻しつつ変わらず寝たきりのナギサに告げる。
「それじゃあ私はもう行くわ。ナギサとはこれでしばらくのお別れね。……バイバイ、私の愛しの眠り姫」
いけないことだと分かっているけど、最後だから許してね。
彼女に想いを寄せている、大事な部下に心の中で謝ってから。
オトは去り際に、ナギサの額に切なく甘いキスをした。
病院を出た後、オトはその足でもう一つの目的地へと向かう。
黒の広場の一角にあるお店、通称《何でも屋》。
「こんにちは」
声を掛けると、バックヤードから店主が顔を覗かせる。
「おう、いらっしゃい。嬢ちゃんは何をお探しで?」
フードを深く被っているために、やって来た客が女王だとは気付いていないらしい店主。
オトは怜悧で冷徹な月の白の瞳で真っ直ぐに彼の目を見つめる。
「このお店は何でも売っているのよね? だったら、旅の手配なんかもしてくれるのかしら?」
特徴的な月白の双眸とただならぬオーラで全てを悟ったのだろう。店主が手招きする。
「詳しくは裏で聞こう」
これでこの国を出るために必要なピースは全て揃った。
あとは事件が起きるだけ。
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