第3話 乙姫との邂逅

 真紅の張り布地の座面とそれを囲む手彫りの彫刻や鋲打ちが、恐ろしいほどの威厳を放つ豪華絢爛な椅子。そこに悠然と腰掛ける、少女の見た目は凪沙なぎさと同じくらいのまだ十代後半といった感じで。


「そう。攫い波の伝承、ね」

「はい、まさか実在するものとは思いもしませんでしたが……」

「まあいいわ。とりあえず医者の手配をしましょう。デルフィーノ、軍病院に連絡を」

「承知致しました」


 大佐であるアーシムが畏まった態度と言葉遣いで受け答えし、使用人と思しきエプロンドレス姿の女性が当然のごとく指示に従っているのはかなり異様で不自然な光景だ。


「あなた随分と緊張しているようだけれど、楽にしていて構わないわよ。私は別にオセアーノをどうとも思っていないから」

「いえ、お気遣いありがとうございます……!」


 その謎の少女に急に話しかけられて、凪沙は思わずより背筋を伸ばしてしまう。


 襟足辺りで切りそろえられた艶やかな黒髪、きめ細かい透明感のある肌、長い前髪の間から覗く左目の瞳は無垢の純白。紺青のドレスを纏った身体の線は細くしなやかで、手足もすらりと長い。頭上でティアラが輝くその様はまるで彫像、あるいは人形。完璧に整った容姿には非の打ち所がない。


「あの、えっと。私、亀有かめあり凪沙って言います。失礼ですが、あなたは一体?」


 無礼を承知で恐る恐る投げかけた問いに、少女はこちらに視線だけを向けて薄っすらと笑みを浮かべた。


「私はオト=ハイム、オトって呼んでくれていいわ。一応この国の女王なのだけれど、礼儀とか作法とかそういうのは面倒だから気にしないで」

「えっ!? 女王様だったんですか!? これは大変な失礼を!」


 女王。

 その予想以上の肩書きに、驚いた凪沙は大声を上げてしまって。それから慌てて低頭した。

 いくらなんでもさっきの質問はまずい。下手をすれば処刑されてもおかしくない失態だ。

 とてもじゃないが怖くて顔を上げられない。深々と頭を下げたまま、女王様の言葉を待つ。


「だからそういうのはいいから。こっち見なさいな」

「は、はい……」


 しかし返ってきたのは意外に優しい声で、でもこれは逆にむしろ相当怒っているのではと思いながら女王の顔を見上げる。

 すると、深くため息を吐いてオトはひどく疲れた声音で言った。


「恐らくだけど、ナギサは私と同じくらいの年齢でしょう? それなのにいちいち仰々しくされてもこっちが面倒。普通にしてちょうだい」


 良かった、怒ってなかった。

 ですが、普通にしてと仰られましても。

 女王であると知ってしまった以上、彼女にいきなり馴れ馴れしく接するなんてそんなことは出来ない。

 でも、これはその女王陛下自身からの命令だ。断ったら今度こそどうなるか。


 凪沙は二、三度視線を彷徨わせてからおずおずと口を開いた。


「……分かりました、女王様」

「その呼び方も気に入らない。オトでいいって言ったでしょう」

「では、オトさん」


 せめてさん付けくらいは許してほしい、と縋るように見つめた先。

 オトがこくりと頷いたのを見て、ようやく安心した凪沙はほっと胸をなで下ろした。


「それでオト女王、彼女の保護の件ですが」


 アーシムが話を戻して切り出すと、オトはすでに結論を出していたようで彼の言葉を遮って即答した。


「ええ、分かっているし受け入れに問題は無いわ。上の階の使用人用の部屋がいくつか余っているから、そこを使ってもらおうと思ってる」


 その考えを聞いて、アーシムは少し驚いた反応を見せる。


「それはありがたいのですが、城内に住まわせてしまって良いのですか? 海伐かいばつ軍隊舎の一室でも十分では?」

「確かに居住するという点だけで見れば不足はないでしょう。でも、軍の中にはオセアーノを快く思わない人間もいる。その中に放り込んで、絶対の安全を保障できる? それに彼女だってそんな所じゃ居心地が悪いはずよ」


 怜悧で冷徹で、それでいて慈悲のこもった声で言って。女王は色の無い月の白の眼でアーシムを見据える。

 その有無を言わさぬ彼女の雰囲気に、アーシムはわずかに戸惑いながらも胸に手を当て深く一礼した。


「確かに、オト女王のおっしゃる通りです。お心遣い、感謝します」

「別に大したことじゃないわ。部屋は人を住まわすためにあるんだもの」


 オトは素っ気なく応じて、そのまま凪沙に視線を移す。


「じゃ、そういうことだから。もし部屋に不満があった時は遠慮なく言いなさいね」

「不満なんてそんな。部屋を提供して頂けるだけでもありがたいのに」

「全くあなたは、オセアーノのくせに無駄に礼儀正しいわね」


 まあいいわと彼女が肩を竦ませたと同時、扉が開いて使用人が戻ってきた。


「陛下、医者をお連れしました」

「ありがとうデルフィーノ。それじゃあナギサを案内してあげて」

「承知致しました。ではナギサ様、こちらへどうぞ」


 右手で扉を押さえ、左の手のひらで向かう先を指し示す使用人の女性。


 でも、このまま行ってしまっていいのだろうか? まだ何か話すことは無いだろうか?


「えっと、行ってきます」


 確認も込めてアーシムとオトに挨拶すると、二人は右手を上げたり小さく頷いたりなどして見送りの言葉を返してくれた。


「うん、また後で」

「ええ」


 引き留められなかったので、使用人に促されるままに玉座の間から退室する。


 部屋を出ると使用人の彼女と二人きりになってしまって、ここまで会話を交わしていないから微妙に気まずい。吹き抜けの広間にコツコツと靴音だけが響く。

 どうしよう、何か話さないと。


「……私、亀有凪沙って言います。あなたはデルフィーノさん、って呼ばれてましたよね?」

「はい。わたくしはオト女王陛下に仕える使用人、デルフィーノでございます。ナギサ様の事情につきましては、先ほどのアーシム大佐の説明を伺っておりましたのでご安心下さいませ」


 前方に注意を向けつつもこちらを振り向いたデルフィーノの、黒い髪と赤い瞳はまるで夜闇に浮かぶ紅葉の美しさで。


「デルフィーノさん、オト女王にも負けないくらいすごく綺麗ですよね」

「お褒めに預かり光栄です。しかし、さすがに陛下やナギサ様の佳麗さには及びません」

「いやいや、別に私は綺麗でも何でも……!」


 急に持ち上げられて、凪沙はぶんぶんと首を横に振る。私なんか周りと比べたら全然美しくも可愛くもない。


 こんな大した中身も無い短いやり取りではあったが、この謙虚な態度と丁寧な口調。礼儀正しい仕草を見る限り、デルフィーノはずいぶん真面目な性格なのだろうと分かった。


 そして彼女に案内されたのは、階段を上った二階の一室。

 デルフィーノがノックしてから扉を開けて、中で準備をしながら待っていた医者に呼びかける。


「先生、診て頂きたい方をお連れしました。わたくしは同席出来ませんが、よろしくお願い致します」

「ああ、ありがとう。そしたら君、まずはここに座ってくれ」


 指示された通りに凪沙は、用意された丸椅子に医者に身体の正面を向けて座る。


 医者は赤髪の若い男性で、眼鏡の奥に覗く目は藤の花の紫。羽織った白衣の胸ポケットにはボールペン、首には聴診器をかけていて、顔さえ見なければ現代の日本の医者と変わらない恰好だ。


 デルフィーノが一礼して扉を閉めるのを視界の端で見届けて、机の上の機器や書類を整理し終えた医者はこちらに向き直った。


「君がナギサさん?」


 問いかけられて、凪沙は頷いて答える。


「はい、亀有凪沙です」

「私は海伐軍病院先進医療研究部の医師ガラ=ルファだ。攫い波による記憶欠落という症例は初耳故、その症状の治療は難しいかもしれないが、身体の異常や健康状態についてはしっかりと検査していこうと思う」

「分かりました。よろしくお願いします」


 本当はこの世界のことを知らないだけで記憶は欠けていないのだけれど。それを説明すると余計にややこしくなりそうなので何も言わないでおく。

 ともあれ、元の凪沙の姿とは大きく変わってしまったオセアーノの身体を診てもらえるのはありがたい。


 というかそもそも、この身体って何なのだろう。自分の身体がこの世界に合わせて変化したものなのか、もしかしたら誰かの身体を乗っ取ってしまったのでは……?


 考え出すと急に不安になってきたが、何よりまずは検査だ。


「では早速だが心音を聴かせてもらいたい。外套は邪魔になるからそこのカゴに入れてくれ」


 凪沙は一度立ち上がり、着ていた古いフード付きケープを脱いで部屋の隅の棚の上に置かれたカゴに適当に畳んで入れる。

 ケープの下は無地の白いノースリーブのトップスと少し短めな深緑のスカートで、自分はずっとこんな服を身に着けていたのかと内心ちょっと恥ずかしい。


「心音はこの機器を使って聴く。痛みは全く無いから緊張することはない。ただ座っていればいい」

「はい、分かってます。聴診器ですよね?」


 細かい説明はいらないと気遣いのつもりで伝えると、聴診器を耳に着けようとしていたガラは驚いたように動きを止めた。そしてやや前傾姿勢になり捲し立てる。


「君はこれを知っているのか? この国ではあまり広く普及していない物なのだが、こういう機器が深く記憶に刻み込まれているのなら君は南洋なんようの出身者の可能性もあるな」

「南洋、ですか?」


 予想外の反応をされ、凪沙は上半身を後ろに引きながら問う。


「文字通り世界の南の地方だ。そこには科学技術が発展した国がある。この聴診器はその国からの輸入品でな」

「科学の発展した国……」


 確かに、王都に来てからずっと気になっていた。街の建物や市民の服装、最初に乗った帆船と、水上オートバイや水上バス、ガラの持つ聴診器やその他医療機器の技術レベルのその乖離に。

 まるで一貫性の無いちぐはぐな組み合わせの数々にはそんな理由があったのか。


「とまあ、今それを考えたところで君の記憶が戻ることも出自が分かることもないから意味はないのだが。話が逸れたな、検査を始めよう」


 その後凪沙は脳や内臓、骨の状態まで隈なく診てもらった。



 凪沙が玉座の間を出て行くのを見届けたオトは、おもむろに右手を持ち上げて人差し指で空中に波線を描く。するとその波線が光りながら上下に広がって半透明の画面が浮かび上がった。

 オトはその画面を慣れた手つきで操作して、目的の情報を表示させる。


「っ! まさかオト女王、ナギサのことを疑っているんですか!? 彼女は攫い波の被害者で、記憶が曖昧なんですよ?」


 何を調べようとしているのか気付いて慌てた様子で一歩前に出たアーシムを、オトは左手を上げて制止する。


「別に疑ってはいないわ。ただちょっと知りたかっただけよ」

「知りたかった?」

「ええ。もしかしたらと思ったのだけれど、どうやら違ったみたいね」


 女王はナギサを一目見た瞬間、わずかに共鳴するものを感じた。

 私と近しい血が流れているような、私の先祖と同じ使命を持っているような。どう表現すればいいのか分からない、不思議な感覚。

 しかし彼女の情報を見る限り、思い違いだったらしい。


 やはり救国の英雄など、期待するだけ無駄ね。


「違った? 何がです? オト女王、僕には意味がさっぱり分からないんですが……」


 相変わらず言葉の足りないオトに、首を傾げたまま困惑した表情を浮かべているアーシム。

 その仕草がまるで飼い主の言葉が理解出来ない仔犬のようだから、オトはつい意地悪したくなってしまう。こちらを見上げたままの彼に視線を向け、口を開く。


「あなたは分からなくていいのよ。ただ、一つ言えることがあるとすれば。アーシムとナギサは不釣り合い、ってところね」

「不釣り合い、ですか?」

「そう。今のあなたでは彼女の心を射止めるのはなかなか難しいと思うわよ」

「べ、別に僕はそんなつもりは……!」


 こちらの言いたいことを察したアーシムは、顔を真っ赤にしながら否定する。

 それがまた面白くて、女王はさらに追い打ちをかける。


「あら? 私はてっきり一目惚れしたから連れてきたのだと思ったのだけれど?」

「違いますよっ……!」

「まあ、まずは何故あなたがナギサと釣り合っていないのか考えてみることね」


 耳まで赤くして俯いてしまったアーシムに、オトは年相応の少女の顔でいたずらっぽく笑った。

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