空ゆく月の行く末も "The moon sets before you set."

神楽健治

空ゆく月の行く末も "The moon sets before you set."

 街外れの雑木林の小道は真っ赤な紅葉に包まれて、写真愛好家たちの撮影対象としての存在価値が急上昇していた。

 蔵野朱莉は犬の散歩をしている人の邪魔にならないように傍に寄って、携帯電話を構える。ズームを調節して、連写。カメラが欲しいと思い、大手の電気屋さんに足を運んだこともあるが、値札を見て逃げ帰った。貧乏学生ではないけれど、それでも大金を叩いてカメラを買う勇気がなかった。

 携帯電話に撮影機能があるから、写真を撮る習慣が付いただけで、率先して素敵な写真を納めたいとは思っていない。否、そこまでの情熱はない。

 そもそも情熱的な人間ではない。大学選びだって、何となくだった。両親の期待には添いたかったし、キャンパスライフにも憧れがあった。だからと言って、大学進学に強い動機があったわけじゃない。

 少し強い風が吹いた。真っ赤な紅葉は散っていく。不思議に思うのは、紅葉は舞い上がることがない。少なくとも、朱莉にはただ散っていくようにしか見えなかった。

 

 「散っていくから綺麗なんだよ、きっと」

 武田遥人は言った。

 「あれ、文学部だったかな?」

 朱莉は笑いながら言う。彼はM大学経済学部一年生である。

 「じゃぁ、朱莉だったら、何て言うの?」

 「まだ散るな、描き切れない、君の背を、真っ赤に彩る、秋の夕暮れ」

 朱莉をゆっくりと詠んだ。

 「なんか聞いたことがあるような」

 遥人は文学にはあまり興味がない。それでも、藤原定家の「三夕の歌」は知っているのかもしれない。

 「まぁ、駄作だね」

 「そんなことないって」

 彼は誰にでも優しい。否定したり、批判したり、そういうことを極力しない。だから時々、本当はどう思っているのだろう、って勘繰ってしまいそうになる。仮に勘繰ったとしても何も変わらない。だから、それで良い。朱莉はそう思うようにしている。

 言葉が足りない、と嘆いたりはしない。確かにそれは辛いことなのかもしれない。でも、言葉を汲み取ろうとしていない場合も多々ある。少なくとも朱莉は、その努力だけは惜しまない。


 秋が終われば冬が来る。

 朱莉は冬になっても時間を見つけては雑木林の散歩に出掛けていた。気分転換にもなるし、運動不足解消にもなる。

 時々、遥人と一緒に散歩することもある。けれど彼は実家暮らしで、大学まで電車通学をしているので、食事に出掛けたり、映画に行ったりというデートに重きを置く。彼の言葉を借りるなら「せっかくだから」である。

 そして、その「せっかくだから」を繰り返すことにより、お互いの距離が近付く。でも不思議と、遥人は夜を共に過ごすことはなかった。デートで夜遅くなっても、必ず朱莉を送り届け、彼は実家に戻って行った。

 それ自体に不満はないし、彼の優しさなのだろう、という解釈だった。ただ朱莉が思う一般的な男子大学生はもう少し積極的な気がしたので、少しやきもきした。


 大学生のキャンパスライフは世間が想像しているほど華やかなものではない。講義や課題で基本的に忙しい。それが忙しくない学生というのは、学業に重きを置いていないだけで、大学生の学業は決して易しくはない。もちろん、高校の授業とは、そもそも時間割や授業内容が違うので、時間的な自由は多少は増えるかもしれない。

 朱莉は後期試験の課題に全力で取り組んでいた。著名な歌人を選んで自由エッセイを書くというものだった。小説でも構わないらしい。

 他の課題に比べて、明らかに異質で、自由に書けるはずなのだが、漠然とし過ぎていて、全くもって文章が書き進まない。

 大学の図書館でノートを広げている。PCでも下書きはできるのだけど、取り敢えず草稿だけは荒削りで書き出し、それから推敲していく心算だ。

 遥人は向かいの席で本を読んでいる。知らないタイトルだが、きっとミステリィだろう。

 目が合うと、遥人は微笑むが、何も言わない。もちろん、図書室は私語厳禁だが、少しくらい何か言えば良いのにと少し腹が立つ。

 窓の外に目をやれば、雪が散らついているのが分かる。

 「雪だね」

 「そうだね」

 短いやり取り。

 会話には期待が含まれる。

 期待には我儘が含まれる。

 「今日は、もう、終わり」

 朱莉は背伸びした。これ以上頑張っても、課題の進捗は変わらない。そんな気がした。それに雪が降り始めれば、遥人の帰路が心配である。

 「お疲れ様。どっちが良い?」

 図書館を出て構内を歩き、下宿先に向かう途中で、遥人はアップルティーと缶コーヒーを買った。

 「こっち」

 朱莉は暖かい缶コーヒーを選んだ。彼はいつも缶コーヒーと別の何かを買っている。

 行動には推測が含まれる。

 推測には願望が含まれる。

 下宿前に着く時には、結構な勢いで雪が降り始めていた。

 「上がっていったら?」

 朱莉は先に言葉にした。

 遥人は少し驚いた。

 「今夜は雪が酷くなりそうだから、早目に帰るよ」

 「私達、付き合ってるよね?」

 「うん、もちろん」

 朱莉は一歩踏み出した。

 彼は朱莉を抱き締めた。

 その二人を雪が優しく包み込んでいく。

 「ねぇ、寒いよ」

 朱莉は小さな声で囁いた。


 冬が終われば、春が来る。

 大学の春休みは長い。学校の年間スケジュールを把握していても、実際に春休みに入ると、長いと実感する。

 後期の授業が終わると、友人が紹介してくれた駅前のカフェに応募し、朱莉はアルバイトを始めた。

 仕事自体は簡単である。メニューも複雑ではなく、店長もスタッフも非常に優しい。時折、笑顔を作るのが疲れるけれど、仕事だと思えば、どうということはない。春休みの期間は週五日、一日六時間働くことになった。大学生がアルバイトに励んで、本分を忘れるなんて、学費がもったいない。そう思っていたが、朱莉はバイトを楽しんでいた。社会勉強だ、と必要のない言い訳を自分にしながら。

 遥人とは週末にデートをする。二人の距離は縮まったようで、さして変わっていないのかもしれない。彼もまたアルバイトに明け暮れていた。居酒屋キッチンで働いていると言っていた。調理自体は楽しいが、仕事をサボるスタッフが多くて、時々真面目に働くのが馬鹿馬鹿しくなるらしい。

 朱莉は穏やかに過ぎる日々に満足していた。でも、何かが欠けているような、そんな不安もあった。充実していて楽しいはずなのに。

 「ねぇ、朱莉って何か夢はあるの?」

 遥人と一緒に居酒屋チェーンに足を運んだ。二人ともお酒は強くないが、たまに居酒屋の雰囲気を味わいたくなるので、外食することがある。

 「うーん、本の出版とか、そういうのに関わる仕事がしたいと思っているけど。小説家とか憧れるけど、やっぱり仕事にできる自信はないかなぁ」

 朱莉はそう言いながら、テーブルの上のシーザーサラダを取り分ける。

 「小説家?素敵だね。そっか、いいなぁ」

 遥人は唐揚げを取り分けて、朱莉の分にはレモンを絞り、自分の分には何も掛けなかった。

 「遥人は?何かあるの?」

 彼はビールに少しだけ口を付けて、答える。

 「取り敢えず世界一周してみたいんだ。日本から出てみたい」

 珍しく彼の言葉は力強い。

 「だから今、バイトも頑張ってて」

 「在学中に行きたいの?」

 「もちろん、お金のこともあるから、本当に世界一周できるとは思わないけれど、一度で行けなくても、世界をぐるっと周ってみたい」

 「そっか」

 朱莉は少し気の無い返事をしてしまった。彼が悪いわけではない。たぶん、彼が見せた、何かこう、心の中のキラキラしたものに気付いたからだろう。

 自分にはそういうものがない。

 朱莉はそう思った。


 桜が散る頃には、大学二年の授業が始まっていた。シラバスと睨めっこして、授業のスケジュールを組んだので、バイトのシフトを多少変更しただけで、時間数自体はそれほど変わっていない。

 授業とバイトと、たまにのデート。それに加えて、最近は読書の時間が増えていた。小説家とか憧れる、って言葉にした。あの日以来、燻っていた想いが徐々に大きくなり、溢れ始めた。

 取り敢えず、思い付いたことを書き留めた。そして、それは膨れ上がっていった。不思議な感覚。朱莉は執筆に夢中になり始めた。

 言葉が言葉を生む。

 意味のない言葉たちが集まる。

 いつしか不思議と、それらが意味を成す。

 言葉は文字になり、記号となる。

 記号になれば、想いの有無は関係がない。

 それなのに。

 それなのに。

 時折、それが愛おしい。


 春が過ぎれば、夏が来る。

 単調な日々に少しだけ夢という名のスパイスが振り掛かる。まだそれは調理過程であって、出来上がりは分からない。

 朱莉は空港の屋上にいた。

 午後八時の便で遥人はアメリカに飛び立った。西海岸から東海岸まで大陸横断鉄道で旅をする予定だ。旅程では一ヶ月の長旅。

 外国に行ったことがない朱莉には嬉々として語る遥人の旅程が今一つわかっていなかったが、それでも、きっと楽しい旅になることを願っている。少し治安が心配だけど、それを言い出すと何処にも行けなくなってしまう。

 見送りの際の言葉は「いってらっしゃい」だった。

 彼は大きく手を振り、笑顔とともに出国ゲートへと消えた。

 その先に壮大な物語が待っているに違いない。

 朱莉は空を見上げている。彼を乗せた飛行機が進んで行った方角を。大きく背伸びをして、深く頷いた。

 夜空には月が出ている。少し欠けているようだが、綺麗だった。鞄から取り出した一眼レフカメラを構える。

 君知らぬ。

 空ゆく月の。

 行く末も。

 紡ぎ語りて。

 夢の間に間に。

 

 


 

 


 

 

 

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