【本文サンプル】Four Fragments For Finale

言端

泡沫に葬列

 薄暗がりに灯る蒼白い幻想の照明。生き物の気配と、それを包む絶え間ない水音。遠くから子供のはしゃぐ声と歓声が混ざる。日曜日の午後、雛子は一人水族館にいた。子連れやカップルが思い思いの目的地を定めて歩く中、朝からずっと、一番大きな水槽の前に座り続けている。カメラを構えるでもなく、スケッチに勤しむでもない雛子を、時たま水族館の職員が一瞥するが、揺れる藻のようにいるだけの彼女に対して掛けるべき言葉を見つける前に、みな仕事に呼ばれて行ってしまう。すっかり人間のエンタテイメントと化した魚たちの食事時間には、それなりの客足も水槽の前へ群がるが、雛子は少し場所を譲る程度でやはりそこから立ち去りはしない。誰が見ても奇妙な彼女ではあったが、水槽の中を見ているようでいて、およそそこに在るものを愉しんでいるとは感ぜられない顔つきゆえにか、客の中にも声を掛ける者はいなかった。人波が引き、青い静謐の中を、魚がまた素知らぬ顔で遊泳する。雛子もまた、何事もなかったかのようにそれを見続けている。小さな体躯に鮮やかな朱色を纏う魚。筋を光らせて群れ泳ぐ魚。忙しく岩の間を抜けていく黄色と黒の魚。人間の方など殆ど見向きせずに、魚たちは美しい模様を見せているが、そのどれも、雛子の目に映ってはいない。数多の目をかいくぐり、雛子と向き合っているのはただ一対の瞳だった。光を失った暗い鳶色が、水の檻ごしに雛子を見ている。水槽の底に横たわる小さな死体は、本当にそこに在ったのなら大ごとだ。恋人同士の歓談や無邪気なはしゃぎ声とは共存しようもない。然り、それは雛子の視界でしか死んでいない。幼い頃から故郷の海で見続けてきたそれが人とは分かち合えないものだという現実と、現れるのなら存在するという認識は、雛子の中ではごく自然に両立することであった。鳶色の幼い両目には一切の感情がない。怨みや無念や憎悪というものが、或いはあったのかもしれないが、今や残らず溶け出してしまったかのように、それは瞳というよりただ転がる硝子玉である。血濡れた小袖は水に揺蕩ううちに、白いレースに変わった。横たわる死体の姿も、純白のワンピースを着た妙齢の女性に変わる。生きていた時も色白の美人だったろうと見受けられる彼女の瞳もまた、硝子玉に変容している。すっかり流れてしまった綺麗な化粧の名残、目尻から頬へこすれたアイラインが、最期の意地のようでもあった。男女、年齢、身なりもバラバラの死体が代わる代わる現れるのを、雛子はただ見送る。彼らもまた現れたとて、物言わず転がって在るだけで雛子に何も伝えてはこない。さながら水のスクリーンに投影される静止画と映写機、死体と雛子との関係はそんなところである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る