確信

由利 流星

「あなた」へ

「ちょっと」「はい」

「なあ、君」「何ですかぁ」

「あなたねぇ」「……すみません」

「あのさー」「どうしましたー?」

 あなたは、私の名前を憶えているんですか。

「……何だっけ」「はい⁉」

 そんなふざけた人が、今は全校朝礼で挨拶なんかしている。

「それでは、以上です」深々と一礼をする姿は、お手本みたいだ。私は舞台袖からその無駄のない動きを見届けてから、マイク、スイッチオン。

「伊豆会長、ありがとうございました。続いて、校長先生からのお話です」私が名前を読んだその人が、ステージ上のお利口な顔を解いて、にやにやしながらこっちへ戻ってくるから、続いて、がつまずいて、づづいて、みたいになった。

「何ですか、そのだらしない顔は」「うるせえ、づづいて」「先輩のせいですからね!」はいはい、静かに、と葉脈ががちがちしている大きな葉っぱみたいな手をひらひらさせながら、伊豆先輩は私の横に並ぶ。

 背、高いなあ、と横を見ずに気配だけで感じる。当たり前のように隣にある安心感も、あと少しでいなくなる。

「be動詞会長、お疲れ様でしたー」私と同学年の後輩に声を掛けられ、おう、と答える。校長先生はこちらなど構わず、のんびりと自分のペースで話し続けている。最初は嫌がっていたそのあだ名は、気付けば誰にでも使われるようになっていた。

 伊豆蒼也。通称、be動詞。isから取られたその名で、私は呼んだことがない。でも、名前で呼ぶこともできない。いず、と口にしてしまうだけで、すぐに私の頬は熱くなる。先輩。そうやって名前に代わる肩書を使わないと、私の真ん中は簡単に揺れてしてしまうから。


 放課後、生徒会室に向かうと、もう先客がいるのが見えた。

「おう、早いな」「先輩の方が早いじゃないですか」まあな、と満足そうに笑う先輩はどこか犬っぽい。それも柴犬。優しくて、面白くて、可愛らしさもあって、でも真面目で、大人っぽくもあって、そんな先輩のことが。

 遠くからパタパタとスリッパの音が、幾つも重なって近付いてきた。

「よー」「二人とも早いねー」「こんちわー」「しつれーしまーす」いつものメンバーが次々とこの倉庫みたいな部屋に入ってくる。いつもの教室からは離れた四階の端にある、私が秘密基地みたいだと気に入っているこの部屋。

「よし、始めるかー」

 今年の文化祭について……。テーマ去年のよりいいのにしよー。予算はこのままでいい?しおり作りたいですっ。去年のタイムテーブルがねぇ!

 わちゃわちゃと作業をしている間にも、私の心には時々何かが引っ掛かる。

おい、寺坂ぁ。佐野、真面目にやれー。あーこ、これ何?太陽、これも。先輩の声はいつだって私の耳と心の隙にすっと入り込んでくる。

「ねえ、君」これお願い、と手渡された書類よりも、私だけを見ていた先輩の眼を見た。忙しい先輩の目線はまたすぐ違う方に向けられる。

自分は会長としか呼べないくせに、私は先輩に代名詞で呼ばれるともやもやと暗い色の雲が心に流れてくる。君。あなた。ねえ。そんな代名詞しか使わない先輩を、私は心の中で『代名詞先輩』と呼んでいる。

 私にも、水谷悠、っていうちゃんとした固有名詞があるのに。この名前を、コーヒーが似合うようなその深みのある声で呼ばれることは、きっとない。そんなことは、ずっと前から知っている。

机の上に置いてある黒い板が光った。「be―携帯鳴ってるよー」「あ、あんがと」先輩がスマホを手に取ると、僅かに頬が緩んだのがわかった。

「彼女かー」「いーですねぇ」私以外のみんなが囃し立てる。私は仕事に集中しているふりをしながら、無意識の内に唇を噛んでやり過ごそうとしていた。


「お疲れ様でしたー!」ありがとう、ありがとねー、と声が続く。

 ついにこの日が来た。もう先輩と会う口実は作れなくなる日。

 私達後輩は花束と寄せ書きを先輩達に渡し、別れを惜しんだ。気付けばもう日は暮れそうになって、この部屋で過ごした仲間達は散らばっていった。

 会長は、まだ椅子に座ったまま。今日こそ訊くんだとずっと前から意気込んでいたのに、口は想像していたようには上手く動いてくれない。

「君、帰らないの」「先輩こそ、帰られないんですか」うーん、と背伸びをしてから、使い古された机に突っ伏した。真っ白で広い背中がよく見える。

「ちょっとセンチメンタルなジャーニーに」「何言ってんですか」いずはまだ、十八だーからー、と音の外れた歌が聞こえる。私も先輩と同じようにしてみる。うん、この体勢なら、訊ける。

「……先輩」ん、と返事が聞こえたので続ける。

 何で私のこと、君とかあなたって呼ぶんですか。

 自分の耳に帰ってきた言葉があまりにも子供っぽくて、全身が熱くなった。

 え、と先輩は体を起こす。私は顔を隠したままでいる。

「……あなたとか君ってさ」先輩はゆっくりと語り出す、その一音一音を逃さないように私は耳を立てる。

「英語で何て言うっけ」

「は?」急いで上体を起こし、ふと考えを巡らす。

「……あ」やっと気付いたか、と先輩は私の前で体を震わせて笑っている。

「you……」「Right」手を銃のようにして私に向ける。

 何それ、嘘でしょ、何なんですか、と形ばかりの言葉を並べて私もかたかたと笑う。先輩はずっと笑っていた。

 

なーんだ。先輩、私の名前ちゃんとわかってたじゃん。

 あなたの指すあなたは私だけ。

 私の先輩はあなただけ。

「次の会長、任せたからな」

「はい」

 その幸福感だけで、今は十分だった。

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確信 由利 流星 @sooseki

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