備えあれば幼馴染も助けられる

月之影心

備えあれば幼馴染も助けられる

 『梅雨』と聞くと、ずっと雨や曇りが続いて何だか気分まで晴れない日が続く時期だったように思うのだが、最近は梅雨入りしても真夏ばりの晴天と猛暑がやって来て忘れた頃に豪雨に襲われるという、風情も何もあったものじゃない『梅雨』になってしまっている。


 その日は梅雨本来の姿であるかのように昼前からしとしとと降り続く雨に気温も上がらず、半袖では少し肌寒いような一日を大学で過ごした。

 全ての講義を終えて帰ろうと学生ホールのに降りて来ると、出入口で外を向いて半袖から出ている腕を抱えるようにして佇んで居る女性が目に入った。


 (あれは……なぎ?)


 小学生低学年だった頃に隣の家に越してきて以来、大学までずっと同じ学校に通っている幼馴染の後ろ姿を見た俺は、バッグから折り畳み傘を取り出しながら凪の方へと近付いて行った。


 「よう。」


 肩に触れない程度のショートヘアをふわりと揺らして凪が振り返る。


 「あ、りつじゃん。お疲れぇ。」


 「何してんだ?」


 「雨に濡れずに帰るにはどうすればいいのかを考えてたの。」


 「だろうな。ほれ。」


 俺は凪にバッグから取り出した折り畳み傘を渡した。


 「お。いい物を持ってるじゃない。貸してくれるの?」


 「うん。使えよ。」


 凪は目を三日月の形にして俺の顔を見上げながら差し出した傘を受け取った。

 折り畳み傘が凪の手に持たれたのを見て手を離し、ジップアップパーカーのファスナを下ろしてパーカーを脱いだ。


 「ふふっ。」


 「何だ?」


 「ううん。何だか懐かしいなと思って。」


 俺は脱いだパーカーを凪の肩に掛けた。


 「懐かしい?あぁ……」


 凪は俺が掛けたパーカーに袖を通すと、渡した傘を俺の方に戻してきた。


 「ん?使わないのか?」


 「今日一緒に帰ろうよ。」


 そう言って凪は俺の腕に抱き付くように腕を絡めて寄り掛かってきた。

 俺は腕に懐く猫のような凪を見てから空に視線を移し、灰色の雲から落ちて来る雨粒を眺めながら昔を思い出していた。



 その日は朝のうちは晴れていたのだが、5時間目が始まる辺りからポツポツと雨粒がグラウンドに落ち始め、下校時間になる頃には本格的な雨になっていた。

 正面玄関まで来た俺は普段からランドセルの中に入れてあった折り畳み傘を取り出し、靴を履き替えて折り畳み傘の留め具を外して傘を広げようとしていた。

 ふと玄関を出たところに立って空を見上げる一人の半袖姿の女子が目に入った。

 真っ黒な艶々のショートヘアを見て、その子が最近隣の家に越して来た子だと気付いた。

 俺は傘を片手に着ていた薄手のジャンパーを脱ぎ、その子の隣に行った。


 「凪ちゃん……だよね?」


 「え?」


 突然隣に男子が来て自分の名前を呼ばれたらそりゃ驚くだろう。

 だがその時の俺は、凪がどうやって家に帰ろうかと迷っているように思えて、何とかしてあげないと……という考えだけが頭にあり、急に声を掛けたら驚くかもなんて考えは全く無かった。


 「傘、忘れたの?」


 「え?あ……うん……」


 「これ、使いなよ。」


 「え?いいの?」


 「あと、いくら濡れなくても半袖じゃ風邪引くよ。これも着て。半袖よりはマシだから。」


 「でも……」


 彼女が戸惑うのも無理は無い。

 『半袖よりマシ』とか言ってる本人が半袖なのだから。

 しかも胸には『紅林くればやし』と名前の入ったゼッケンの付いた体操服である。

 後で聞いたのだが、俺が着ていたそのゼッケンを見てようやく隣の家の男の子だと気が付いたらしく、それまでは妙に馴れ馴れしいやつだなとしか思わなかったそうだ。


 「それじゃ!」


 「えっ!?」


 彼女が傘とジャンパーを手に持ったのを確認した俺は、ザーザーと雨の降りしきる外へと飛び出し、そのまま校門を走り抜けた。

 背後から一瞬だけ声が聞こえたような気がしたが、雨音と風が耳を撫でる音で掻き消された。


 びしょ濡れになって返って来た俺を見た母親には呆れられてしまったが、夜になって彼女と彼女の母親が傘とジャンパーを返しに来て経緯を話され、恥ずかしいやら何やらで部屋に逃げ込んでしまった。


 凪との付き合いはそこから始まった。



 中学から始めたバスケを高校でも続けていた俺は、スリーポイントの精度を上げようと居残り練習をしていた。

 体育館の屋根を打つ雨音が気になりだしたのは、順調にシュートを決められるようになって自分なりに納得出来た辺りだった。


 (最近天気予報よく外れるな……)


 朝の天気予報では今晩いっぱいは曇りで明日の朝から雨だったはず。

 それでも昔からの習慣か、鞄の奥には折り畳み傘が入っているのでそれほど気には留めていなかった。


 練習を終わらせ、どうせ濡れるならと制服をバッグの中に仕舞い、Tシャツとジャージで帰ろうと体育館から玄関へと向かった。

 玄関で靴を履き替えて立ち上がろうとした時、視線の先に制服の上着を頭から被って走り出す構えをしている女子の姿が目に入った。


 (え?まさかこの雨の中を走って帰るつもりか?)


 俺はすっと立ち上がって少し急ぎ気味に玄関を出てその女子の後ろに立った。


 「そんなんじゃ風邪引くぞ。」


 「ひゃっ!?」


 気合を入れ直して『さぁいくぞ!』と踏ん張ったところにいきなり声を掛けられればそりゃ驚くだろう。

 妙な悲鳴を上げて振り返ったのは凪だった。


 「り、律……?」


 「なんだ、凪か。こんな時間まで何やってたんだ?」


 「ちょっと生徒会のお手伝いをさせられてたらこんな時間になってたの。」


 「あれ?凪って生徒会入ってたっけ?」


 「ううん。今日限定で手伝ってただけ。その限定日にこの有様よ。」


 「傘持ってないのか?」


 「うん……天気予報信じて持って来なかった……」


 唯一、日本の未来の事を考えている公共機関が言ったのだから信じるのも無理は無いとは思う。


 「お前は『備え』という言葉を知らんのか。ほれ。」


 そう言って折り畳み傘を凪に渡し、使わなかったジャージの上着を肩に掛けてやった。


 「え……でも律は……」


 「俺は部活で汗まみれ。このTシャツも汗吸いまくってもうびしょびしょだから今更傘使っても意味無いし。それに走ればトレーニングにもなる。」


 凪が鼻をひくひくとさせていた。


 「匂うなって。さすがに俺でも匂い嗅がれるのは抵抗あるわ。」


 「ふふっ。でもこれで2回目だね。律に助けてもらうの。」


 「そうだっけ?忘れた。」


 そう素っ気なく言った俺は、本降りの雨の中に飛び出した。

 またあの時のように凪が何かを言ったような気はしたが、気にせず校門を抜けて家までの道を雨に打たれながらランニングした。

 少しだけいい事をしたような、少しだけ誇らしい気持ちになりながら。



 「2回もあんな事されて好きにならないわけがない。」


 こちらを見上げて笑顔でそんな事を言う凪にちらっとだけ視線を向け、少し照れ臭くなってすぐに正面に顔を戻した。


 「何だそれ?」


 「律のことを好きになった理由かな。」


 「偶々じゃん。」


 「それでも私を助けてくれたのは事実だよ。」


 俺は左手に持った傘を凪の方に傾ける。

 傘の縁から滴る雨粒が俺の左肩にぽたぽたと落ちてきた。


 「そんな事で人を好きになるなら先が思いやられるな。」


 「あれ?もしかして他の人に同じパターンで来られたら律以外の人も好きになっちゃうんじゃ……とか思っちゃった?」


 「そんなんじゃ……」


 「大丈夫に決まってるじゃん。心配なら雨の降る日は律が真っ先に私を見付けてくれればいいんだよ。」


 「えぇ……」


 俺は地面に出来た水溜まりを避けながら、凪の歩幅に合わせてゆっくりと家への道を歩いた。


 ただ(自分の傘持って来い……)と思いながら。

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