最後の挨拶

霞(@tera1012)

第1話

 視界は見事なほどの真っ白だった。


 ああ、結局ここに戻って来るのか。……俺らしいな。ぼんやりとただ目だけを開いて思う。

 はじめて登った山。あの人に助けてもらった山。あの時から、数えきれないほど山に登って、毎日神社の階段をザックを背負って上り下りして、一人前の山男になったはずだったのに。結局最後は、この景色なのか。


 その時、ふいに白一色の視界のはしに、何かが侵入してきた。


「あ、どうもどうも、お疲れ様ですー」


 ここでこうなっている元凶だった。

 俺は冒険家として、冬山登山のパーティーのリーダーをしていた。ベースキャンプからのアタック隊が、稜線を一列になり歩いていた時、突然、目の前のこいつが視界から消えた。あわてて見まわした瞬間、急坂を転がり落ちようとする巨体が目に入り、思わず手を伸ばしてしまったのだ。

 とっさに左手で打ち込んだはずのピッケルに、手ごたえはなかった。


「おい、ゴリ。お前、何やってんだよ」

「あ、はい、本当すいません。気がついたら、なんか足、踏み外してて……」

「なんかってお前なあ……」


 起き上がり、ため息をついてあたりを見回す。

 幸か不幸か、滑落したのは二人だけのようだ。


 滑落直前、おそらく今回の予定ルートの8合目辺りまでは到達していたはずだ。稜線から向かって右の谷底に転がり落ちたとすると……。頭の中で地形図を思い描くが、それだけで現在地点など分かろうはずもない。


 もう一度ため息をつき、とにかく荷物を確認しようと辺りを見回す。それから、ゆっくりと血の気が引いていくのを感じた。


「おい、……俺たちの装備、どこだ」

「え、ないっすよ」


 あっけらかんとゴリは答える。こいつは、体力だけは無尽蔵だが、基本的にあまり深くものを考えない。

 落ち着け。こんな時ほど冷静に。

 空を見上げて深呼吸をしようとするが、そうする間にも、もとから白かった視界は見通しがどんどん悪くなり、今では立派なホワイトアウト状態になっていた。


「まずい、何とか雪洞をつくってビバークしないと……。ゴリ、お前、とにかく斜面を掘れ」

「え、シャベルないっすよ……」

「しょうがないだろ、手で掘れ!」


 道具も、防寒具も、食料もない。ないない尽くし。まあ状況はすでに詰んでいる。でも、あきらめるわけにはいかない。

 いつかは山で死ぬのも、人生の終わりとしては悪くない。でも、それは今じゃない。俺にはこの山を降りて、すべきことがあった。


「先輩……。この山降りたら、プロポーズするつもりだって、本当ですか」


 ゴリが、わしわしと雪を掘り進めながら、背中で尋ねる。この重労働で、全く息が切れていない。やはり体力お化けだ。


「……ああ、そうだ」

 この登山が始まってから、メンバーとそんな話をした覚えはないが、激励会ではいささか酔っていた。そんな話も出たのかもしれない。


「お相手は、あの大隅さんの娘さんて、本当ですか」

「……ああ」


 大隅誠おおすみまこと

 界隈では知らない者はいない、偉大なる冒険家だ。彼は、10年前の冬、この山で命を落とした。俺の中では、今回の山行は、その弔い登山の意味合いもあった。


「彼女のお父さんが成しえなかったこの山の冬季登頂を成し遂げて、彼女にプロポーズする……つもりだった。まあ、失敗したけどな」


 口元には苦い笑いが浮かぶ。

 同じ山で、大切な人間を二人も亡くす。彼女の心中を思うと、胸がかきむしられるようだった。


「そうですか。そしたら、結婚生活が上手くいく秘訣を、お教えしますね」

「……は?」


 突然振り向き、満面の笑みで放たれたゴリの言葉を、すぐには理解できなかった。


「いや、その話するのは、今じゃないだろ」

「いいえ、今でしょ!!」


 ゴリの顔が、某予備校講師の顔に見えてくる。

 いや、そんなことはどうでもいい。


「おい、ゴリ……」

「まず初めにですね、夫になる人間に一番必要なのは、男気おとこぎです!!」

「……は?」

「夫たるもの、どんな時でも強気にどっしりと構え、奥さんを守る。これが一番大切です。先輩はそもそも、顔は怖いけど少し優しすぎるきらいがあります。だから俺が滑落した時だってとっさに俺を助けようとして、結果被害を広げました」


 お前が言うな、だが、微妙に正論で耳が痛い。


「そんな先輩に、これをプレゼントします」


 そういうと、ゴリはごそごそとポケットを探る。

 そして出てきたのは、うすきね、そして赤い布切れだった。


「おい、何だこれは」

男気おとこぎ(概念)です」

「あーなるほどね。男たるもの、冬山だろうと赤いフンドシ一丁で、『男は黙って赤フン!』って言いながら餅ついてりゃ、乗り切れる……訳ねえだろ!!」


 さすがにキレて怒鳴った。思わず息が上がる。こいつのせいで、無駄な体力を使ってしまった。


「先輩……そういうとこですよ」

「……は?」

「結婚生活で一番やっちゃダメなのは、そのキレる、怒鳴るってやつですよ。そんな先輩には、これをプレゼントします」


 そう言うと、ゴリは再び、ごそごそとポケットを探った。

 その手に握られていたのは、何とも形容しがたい薄汚れた色をした、巾着のような袋だった。


「何だこれは」

堪忍袋かんにんぶくろ(具現化)です」

「……」

「この袋はお役立ちですよー。さえ切れなければ、いくらでも広げられるし、何でも入ります。今ならなんと、二つセットでお値段そのまま!」

「わあすごい。でも、お高いんでしょ? ……とか言うとでも思ったか」


 何だろう、みるみる体中から力が抜けていくのを感じる。


「先輩、突っ込みの切れ味は良くなって来てますね。でも、まだ、これが足りません」


 そう言うと、ゴリはまたしても、ごそごそとポケットを探った。

 そしてその手には、何やら細長くて先のとがった、明らかに武器らしきものが握られていた。

 しばらく沈黙が続く。

 これが何か、聞きたくない。心底そう思って口をつぐんでいたが、結局、に耐えられなくなったのは俺の方だった。


「……何だこれは」

おもやり(ダジャレ)です」

「……」


 満面の笑みで俺にごつい槍と小汚い袋を差し出す男と、その後ろでずっとホカホカと湯気を立てている臼をしばし眺める。


「……おい、これ、イケるかもな」

「え、先輩?」

「まずあの餅で食料は確保できた。その堪忍袋、人ふたり入れる大きさにはなるだろ。雪洞と組み合わせれば、そこそこの温度は確保できそうだぞ。さらに、赤フンを槍に結び付けておけば、救助隊へのアピールもばっちりだ!!」

「おお……」


 ゴリは予想外だったのか、突然口数が少なくなった。

 そうして俺たちは、救助までの10日間を乗り切ったのだった。



「ねえ、一人で10日間も、良く持ちこたえたね」

「……そうだな……」


 無事、救助隊によって助け出された俺は、病室で恋人と向き合っていた。


 稜線を歩いている途中で突風にあおられ、一人で滑落したらしい。冷静にビバークし、10日間を乗り切った。ことに、なっている。

 パーティーに、ゴリなどというメンバーはいなかった。それに、あの顔。どうしてあの時に思い出さなかったのか、それはおそらく、彼の力だったのだろう。


「10日間、本当に心配だったの。お父さんに、連れていかれちゃうんじゃないかって。あなたが滑落した時も、おかしな風の吹き方だったっていうし……」

「どうだろうな。まあ、娘の彼氏なんて、男親には憎いだけだっていうしな。あのまことさんでも、そんな風に思ったり、したのかな……」


 ゴリ。それは、生前のまことさんの愛称だった。

 かつて学生時代に、軽装で秋の山に単独で登り、霧に巻かれて遭難しかけた。その時、救助してくれたのが、誠さんだった。

 彼に山のイロハを教わり、冒険家になった。彼の指導は厳しく、幾度も俺は試された。


 あれが最後の、誠さんの試験だったのかな。

 ぼんやりと、窓の外を眺める。

 冬の空は怖いくらいに、晴れあがっていた。


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