第49話 Last Quarter Moo-1

「・・・・・・あの・・・・・・せんぱ・・・っ」


壁掛け時計を指さして、そろそろ時間と訴えれば、伸びて来た手のひらに頬を引き寄せられてすぐに唇が塞がれた。


言い間違いに気づいた時には、すでに舌が絡まっていて、駄目だと思うよりも先に彼の腕を掴んでしまう。


もう習い性のようなものだ。


こうしないと溺れそうになるのである。


違うの、とか、仕事が、とか、言いたいことは沢山あるけれど、上顎を擽った舌先が器用に舌裏を掬い上げるから、何も言えなくなってしまう。


一緒に暮らし始めて三日目に恵の好きなキスを見抜かれてしまって以降、彼は一方的に新妻を丸裸にしていっている。


その手腕たるやあっぱれとしか言いようがない。


知能レベルが格段に上だということも分かっていたし、実戦経験だって言うなれば山尾は100で恵は0だ。


勝負にならない。


零す吐息と声で、返す反応と表情で、恵の知らないところまで綺麗に暴いて理解した彼は、的確に気持ちいいキスだけで恵の思考回路をグズグズにしてしまった。


もうやだ気持ちいい。


それしか考えられない。


いまが朝じゃ無ければよかったのに。


そんな爛れた思考をどうにかしようと必死にキスから逃れる。


几帳面な彼が、診察時間を忘れているはずがない。


それなのに、こんなギリギリの時間までベッドに引きこもっているのは、恵の側を離れたくないからだ。


それが分かるから強く突っぱねられない。


突っぱねられないことを彼も理解しているから、次の言葉を言わせまいと仕掛けて来る。


それでも、結婚した途端診察開始時刻が遅くなったなんて言われたら、外を歩けなくなってしまう。


ただでさえあの若先生のお嫁さん、とあちこちで呼ばれて死ぬほど恥ずかしい思いをしているのに。


「そ・・・すけさ・・・」


どうにか離れた唇の隙間で息も絶え絶えに慣れない彼の名前を呼べば。


「・・・・・・・・・・・・・・・うん・・・」


物凄く嫌そうに返事が返ってきた。


返事にここまで感情を込められるのは彼くらいじゃないだろうか。


背中を撫でた手のひらをシーツについて、溜息交じりに山尾が身体を起こした。


五月下旬のあたたかい陽気に包まれて、寒さなんて感じるはずもないのに、小さく身震いしてしまう。


自分より高い体温にずっと抱き込まれていたせいだ。


他人の温もりに縋ったり、安堵を覚えるような生活は、それこそ妄想と物語の中だけと思っていたのに。


すっかり慣れ親しんでしまっている順応力の高さに呆れてしまう。


だって悔しいくらい山尾の腕の中は心地よいのだ。


残念ながら肉付きの良くない身体は、体温保持能力も各段に低くて、温めてもすぐに足先から熱が逃げて行く。


涼川家より築年数が古くて広い山尾家は、この時期でも日の当たらない部屋はひんやりとしている。


振り向いた山尾が眉を下げて、恵の身体を上掛けでくるみこむ。


「毛布片付けるの早すぎたんじゃない?」


「でも、寝る時は暑くなるから・・・・・・・・・・・・お、お風呂上りとか!」


冷え始めた恵の身体に熱を分けるように山尾がベッドに潜り込んで来る瞬間を思い出して、頬が熱くなった。


玲子からこうなる前に投げられた質問をぼんやりと思い出す。


お姉ちゃん、とりあえず今言えることは、宗介さんはぜんぜん淡白じゃない。


熱を帯びた頬を慰めるように撫でて、山尾が目を細める。


「俺何も言ってないけど?」


この数瞬の間になにを思い出したのか、完全にバレた。


医師という仕事ゆえか、とにかく山尾は恵の表情を見分けるのが得意だ。


黙り込んでも、眉の動きや目線で大体のことは筒抜けになってしまう。


ベッドに入れば、それはさらに如実になる。


息を詰めてもそれ以外のところで恵の様子を確かめて、一番気持ちいいことだけされるから10年近くブランクのあるこちらとしてはたまったもんじゃない。


主導権を握るつもりなんて毛頭ないが、結婚してひと月ほど経っても何一つ彼に勝てた試しが無かった。


もとより表情豊かとは言い難い終始穏やかな彼の喜怒哀楽のすべては掴み切れていない。


この家で暮らすようになってから、嬉しそうな彼の表情は何度か目にして来たけれど、そのどれも鮮明では無かった。


大抵恵の思考が淀み切っている状態でその顔を見るからだ。


「・・・・・・おやすみなさい」


完全形勢不利を悟って、今日は午後診療からだし、と上掛けを思い切り引っ張り上げる。


私は二度寝しますと全力アピールすれば。


「待って待って・・・」


笑み崩れたまま、山尾がこちらを覗き込んできた。


何でだろう、寝起きなのに憎らしいくらい爽やかで本気でイラっとする。


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