第43話 霞初月その3

朝7時過ぎに支店のドアに手を掛けたら、すでに施錠が開けられていた。


何となくそんな予感がしたので、手ぶらで来て正解だった。


横断歩道の手前のコンビニで、コーヒーを買おうかどうしようか一瞬だけ迷ったのだが、もし買っていたら、書類が山積みのデスクにコーヒーカップを二つ並べる羽目になっていたはずだ。


「おはようございまーす」


ドアを開けて呼びかけると、空調が効いた支店にコーヒーのいい匂いが漂っている。


ノートパソコンの液晶画面から視線をこちらに向けた朝長が、爽やかな笑顔を向けて来た。


連日連夜の接待と会議と深夜残業の疲れを微塵も感じさせない彼の体力と、妻の内助の功を思い知らされる。


もうとっくの昔に諦めて手放した片思いだ。


「おはよう。悪いな、早くから来させて」


「朝長さん・・・ちゃんと奥様のこと構ってあげてくださいよ・・・新婚なんですからー」


ここ数日午前様が続いていた朝長を気遣って、事務処理が終わり次第自分も帰宅するから、と彼を事務所から追い出したのだが、この感じだと30分前にはすでに出社していたのだろう。


いや、下手をすれば始発出勤の可能性もある。


部下想いの上司は、女子社員を一人残して先に帰宅することを最後まで気にしていた。


そういう気遣いを一度も忘れた事が無い男なのだ。


接待や会議なんかで帰社出来ずに直帰した翌朝は必ず一番先に出社して、部下たちの仕事の進捗を確認して朝一でフォローを入れてくるような上司を嫌いになれるはずがない。


いつの頃からか、女性との噂を聞かなくなって、その頃からさらに案件を増やすようになって、ああこの人は恋愛よりも仕事で上に行くことを選んだんだな、と悟った。


朝長の仕事に対する姿勢を見ていれば、迂闊に告白して玉砕なんていう愚かな行為を選ぶことはどうしても出来なかった。


だって一ミリも恋が始まる可能性が見えなかったから。


頼もしい上司が誇れるような部下であろうと努めて来て、いつの間にか気持ちが摩耗していって、穏やかな思い出に変わった頃、唐突に彼は結婚を決めてしまった。


それも上司の娘と。


完全に勝ち目のない片思いだったんだなといっそすがすがしいくらいの完敗を認めた折原である。


彼が、妻に向ける眼差しは、当然朝長が部下である折原に向けるそれとは熱量も色も異なっていて、途方に暮れてしまいそうなくらい、優しくて甘かった。


いつか私もこんな風に誰かに思われる日か来るのかなぁ・・・


未来を描けないまま終わってしまったこれまでの恋を振り返って、言葉数は少なかった初カレのことをふと思い出した。


眼差しに甘さを滲ませて見下ろされるたび、心臓が痛いくらい苦しくなった。


きっと朝長の妻はあの頃の自分と同じような思いをしているのだろう。


「いや、ちゃんと構ってるよ。昨夜も先に帰らせて貰ったし・・・おかげでゆっくり過ごせたよ」


ありがとな、とはにかんだ上司の目元がいつにもまして柔らかくなっている。


夫婦らしい夜を過ごせたようで何よりだ。


視線で示されて自席に目を向けると、案の定駅前のコーヒーショップのカップが置かれていた。


見ると、最近いつも折原が飲んでいるアーモンドラテだ。


それからもう一つ。


「ありがとうございまーす・・・え、バナナマフィン・・・?いいんですか?」


「米粉のバナナマフィンが美味いって、愛果が教えてくれたから、ついでに買ってみた。コーヒーと甘い物はセットだからって」


頬を緩める彼の言葉になるほどと頷く。


夫婦で恙なくコミュニケーションが取れているようで何よりだ。


「お気遣いすみません。奥様にもよろしくお伝えくださいね。最近、夜に連絡入れることが多くてほんとに申し訳ないです」


「いや、それを言うなら昼間に確認できない俺の密なスケジュールが問題だよな。三浦さんのところと話がまとまったら、ちょっと余裕出来るから」


「そうですね。後ひと踏ん張りですねぇ。でも、契約決まったら今度はこっちが忙しくなるので、事前に奥様にお伝えしておいてくださいね。新婚なのに気を揉ませたら申し訳ないですから」


当日確認や決裁が必要な場合が出て来ると、深夜帯でも連絡を入れざるを得ないのだ。


案件が立て込んでいる場合は特に、その日のうちに処理しておかなないと別件捕まってしまって処理が遅れる可能性が出てくる。


大口取引先になればなるほど書類は増えるし、決裁にも時間がかかるので、早めに動こうとするとどうしてもこうなってしまう。


「ああ、その辺は大丈夫。愛果は理解があるし・・・・・・上手くやってるから」


心配しなくていいよと微笑む上司のにやけ顔に、ごちそうさまですと肩をすくめて、昨夜のうちに準備しておいた資料を手に朝長の元に向かう。


と、ネクタイを緩めている彼の首元が赤くなっていることに気づいた。


一瞬見間違いかと思って、二度見して確信を得てから、朝長に資料を差し出して空っぽになった手を自分の首筋に当てた。


「朝長さん、今日はネクタイ絶対緩めないでくださいね」


折原の言葉に一瞬目を丸くした彼が、慌てて緩めていたネクタイを締め直す。


わざとらしく咳ばらいをする上司をぼんやりと眺めながら、意外とあの奥様は情熱的なんだなと驚いた。



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