第36話 霜見月

恐らく先に眠っているだろうと踏んで、足音を忍ばせてリビングに入ると真新しいラグの上で丸くなっている愛果を見つけた。


仕事や接待で遅くなる日は先に休むように伝えてあるのだが、愛果はリビングでテレビを見ながらウトウトしてそのまま眠ってしまうことが多い。


実家にいた頃は、自室にテレビを置いていたので、ベッドに潜りながらテレビを見ていたせいか、二人で過ごしているときも愛果はよくここで寝落ちする。


横になるならソファーの上から、せめてブランケットをかぶってくれればいいのに、座り込んでそのうち眠くなって丸くなりました、と一目でわかる寝相で眠っていることがほとんどだ。


風邪を引いたら困るからとやんわりと言ってはみたものの、長年の習性はそう簡単には治りそうにない。


ほろ酔いの頭でカバンを置いて、スーツを脱いで愛果が丸くなるラグの上に膝歩きで近づく。


すぐにベッドに運んでやったほうがいいのだろうが、いい具合に酔っていて、こちらもすぐには動けそうにない。


もう一軒いいじゃない、と言われたところを、新婚なんでこれくらいでと支店長が逃がしてくれたのは有難かった。


独身の頃だったら間違いなく午前様になっていたはずだ。


すやすやと眠る愛果の寝顔をぼんやりと眺めていたら、眠気が襲ってきた。


瞼は下ろすまいと決めて、そろりと柔らかい頬に手を伸ばす。


しっとりと滑らかな肌は温かくて、甘えるように指に吸い付いてくる。


頬でこれなのだから、胸や太ももはもっと、と良からぬ想像をしそうになって、慌てて指先をひっこめた。


夫婦なのだから、可愛い新妻で多少妄想するくらいどうってことないはずなのだが、いまの朝長にとっては間違いなく命取りである。


離れて行く気配に気づいたのか、眠っていた愛果が薄っすらと目を開けた。


「ん・・・・・・」


定まらない視点でぼんやりと朝長を捉えた後、ひとつ頷いてから目を閉じる。


寝ぼけていただけのようだ。


この間三秒。


安眠を妨害せずに済んだことにホッとして胸をなでおろす。


ふうっと息を吐いた愛果が、寒さを覚えたのか朝長のほうへ身を寄せてきた。


まずいと身体を起こすより一瞬早く、愛果の足が朝長の足首に絡んでくる。


「・・・・・・っ」


甘えるように足の甲で擦り寄られて、否応なく身体が反応した。


こればっかりはどうしようもない。


すっかり健全な肉体を取り戻した自分を誇らしく思えるところなのだが、今この時ばかりはタイミングが悪すぎる。


愛果と一緒に眠るようになってから、大抵の夜がこうだった。


足先が冷えるらしい愛果は、自分よりも体温の高い朝長の熱を求めて遠慮なしに引っ付いてくる。


魅力的な柔らかい身体を無防備に擦りつけられて、その気にならないわけがない。


ゆっくりと息を吐いて溜っていく熱を逃がしながらさりげなく腰を引く。


天井を仰いで短く呟いた。


「・・・・・・処女のくせに」


そう、朝長夫妻はまだ、正しい夫婦生活を始めていないのだ。


朝長は愛果に待つ、と言った。


愛果は頷いて、ありがとう、と答えた。


そして、彼女の口からまだ”抱いて欲しい”と言われていない。


新居の内覧に行ったマンションで、愛果からの告白を受けてうっかりその気になりかけた朝長の手を止めたのは、明らかに動揺した彼女の反応。


言いにくそうに経験が無い、と告白された瞬間、頭の中が真っ白になった。


そして、その奇跡に心底感謝して、強引に彼女に迫らなくて本当に良かったと安堵した。


だってどう見ても未経験には見えなかったのだ。


どこから見ても魅力的にしか映らない彼女の容姿が、誰も寄せ付けなかったわけがない。


今日まで彼女が男を知らずに生きて来たのは、長谷本部長の鉄壁の防御と、愛果の慎重さと自信の無さのせいだろう。


愛果はどこまでも過去の自分に固執している。


昔のように食べなくなったのも、間食に気を付けているのも全部、太りやすい体質を気にしているからだ。


昔の愛果を基準にするならば、恐らく世の中の女性の大半が太っていることになる。


そして愛果の基準はいつまでも昔の自分のままなのだ。


だから、現在の愛果がどれだけ魅力的だと伝えても信じきれない。


彼女の身体に愛情を浸透させるには、まだしばらく時間が掛かりそうではあるのだが、それまで理性の手綱を緩めずにいられるか、いささか自信がない。


毎晩のようにこうして擦り寄ってくる新妻の柔らかい身体を隣にしながら、背中を撫でるだけに留めていられるのは、嫌われるのが怖いからだ。


嫌な思いも、恐怖心も与えたくないし、こちらの欲望を一方的に押し付けることだけは死んでもしたくない。


自然と彼女がそういう気持ちになってくれるのをひたすら待つだけの日々は、じつはかなり過酷でしんどい。


その上愛果が愛用しているパジャマ代わりのルームウェアは、ワンピースタイプで動くたび魅力的な白い足が見え隠れするのだ。


その爪先に噛みつきたいと言ったら、恐らく愛果は卒倒するだろうから、少しずつこちらの嗜好を馴染ませていくためにも初手をしくじるわけには行かない。


彼女の寝息が深くなって、小さな足から力が抜けた後で朝長はそっと身体を起こした。


じくじくと疼く腰はすっかりその気になっていて放置しても収まりそうにない。


愛果をベッドへ運んで、バスルームに籠ってからどうにかしようと溜息を吐いて、柔らかい身体を抱き上げる。


支店の同僚たちは、寝不足気味の朝長をお熱いですね、とからかってくるが、これは紛れもなく純粋な寝不足なのだ。


妻の可愛い寝顔を眺めながら、悶々と夜明けを待つ朝長の長い夜は、もうしばらく続く。





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